第23話 ラッパの音が鳴り響く前に
プリシラは翌朝早くにピーターを裸婦の彫像の下の部屋に呼び出した。年若い乙女は大きな寝台を前に、落ち着かない様子で歩き回っている。
ピーターが部屋に入ってくると、いすに座るように言った。だが、このひっそりとした地下室には椅子など置いていない。
「指揮官ではいられません。私はあなたのもとから去るべきです。もし昨日おっしゃったことが本当なら」
王女が喋るよりも前に騎士が切り出した。
プリシラが何かを言おうとして止め、顔を奇妙にゆがめる。
「もしプリシラ様の想いが知れたら、世間がなんと言うかを考えるべきです」
ピーターは呆然としているプリシラに向かってさらにつけ足した。
「不適切な関係だと……」
「いいえ」
プリシラは彼の言葉を遮ってキッパリと言う。決然とした口調で。
「あなたが必要なの。今あなたがいなくなったら……。ねえ、今は大切な時期なのよ。私一人では対処しきれないことだってあるもの。叔父との戦争にはあなたがいないと」
ピーターは視線を落として、何やら深刻そうな顔つきをした。顔の半分がかげになって、よく見えない。背後にはのっぽの影帽子。
「あなたを信頼しているの。私を見捨てないでいてくれるかしら……?もう、あなたの愛は別の
それで決まった。ピーターは今まで通り女王につかえる。実際、プリシラにはまだ彼が必要だった……。愛する人としてではなくて、信頼できる監督者兼相談役として。
だが、プリシラにはそれがどれほど自分の心を痛めつけることなのか、わかっていたのだろうか。ひょっとしたら、単なる情からピーターを止まらせただけなのかもしれない。
「もちろんあなたと婚約者のことは祝福するわ。今すぐにだって婚礼を挙げていいくらい。叔父とのことがないなら……」
そんなことを言って健気に微笑んでみせるけれど。
一度エミリーを見てみたかった。実際に顔を合わせるのではなくて、遠くから盗み見るのだ。
プリシラはもう一度トリスタンの話を持ち出した。彼のもとへ戻って正式に婚姻を発表するべきなのかもしれない。
「そうすれば公爵が図にのって、あなたの地位を利用してくるでしょうね。彼は混乱に乗じて王国を自分のものにするつもりですよ」
ピーターが言う。
彼はダーチャに着いた翌日の不愉快な出来事を思い出して、渋い顔をつくった。深夜バートンと城壁の上を歩いていたら、一人の青年が腐ったりんごを投げてきたのだ。最初ピーターもバートンも相手が酔っ払ってるとみて相手にしなかった。ぐでんぐでんになるまで飲む兵隊なんて、世の中くさるほどいる。特にこの緊迫した情勢では。
「二枚舌め、こっちを向けよ。耳が聴こえないのか」
バートンが何事かと振り向いた。
青年はピーターと決闘したがっていたのだ。どうやら、この恋に狂った青年トリスタンはピーターが大公と通じており、プリシラを誘惑して裏切るつもりだと思っているらしい。
結局、決闘沙汰にはならなかったものの、この夜の出来事を忘れるわけにはいかなかった。またトリスタンは決闘を仕掛けてくるかもしれない。
「じゃあ反対なの?私はね、今度の戦争のために公爵と手を組むつもりだったのよ。敵の敵は味方とも言うけれど……」
プリシラがペラペラと喋り出す。
だが、ピーターはあくまでも反対だった。公爵は大公ほどではないが、信用のおけない男である。ピーター・ドールには冷徹かつ効果的な計画があった……
真夜中に誰かの手に揺り起こされた。何かがぶつかる音。女の短い悲鳴。
蝋燭がついて、部屋がぼんやりと明るくなった。プリシラを起こしたのはピーターで、後からやってきて苦情の悲鳴をあげたのはリリーである。
遠くから太鼓の音がした。トン、トン、トンと微かな、遥か遠くから近づいてくる。
「大公の軍隊です。私たちはダーチャを抜けて十字の島に向かいましょう」
リリーの恐怖でゆがんだ顔をよそに、ピーターが強い、有無を言わせぬ口調で言った。
「でも、ダーチャの人は……?あの人たちは私のために戦っているのよ、女王のために……」
プリシラが反論する。
「それは名目で公爵は自分自身のために兵隊を戦わせているんですよ。彼と一緒にいたら、プリシラ様の地位が危ない……。それに彼が優れた君主になるとお思いですか?よき君主に」
プリシラはかぶりを振ってピーターを見上げた。ピーターは厳しい顔をして依然、こちらを見つめている。
決断はプリシラの一言にかかっていた。
「十字の島に行くわ。そこで女王の名の下に住民を保護し、戦いに備えます」
ピーターはリリーに女主人を任せて、兵士たちに命令をしに外へ飛び出していった。
「トリスタン様も戦うんです」
荷物をテキパキとまとめる手を止めて、リリーが言う。
「トリスタンが?」
声がかすれた。
彼も兵士として戦場に向かうのだ。
「もしプリシラ様がお望みならば……」
リリーがそう言って言葉を止める。
「ええ、連れていって」
壊れたおもちゃのように、しきりに頷きながら言った。
ダーチャの城内は人と武器で溢れ返り、ごった返していた。リリーはプリシラの手を引いて、人混みの中をすいすいと進んでゆく。至る所で、松明の赤い光がおぼろげに揺れていた。
トリスタンは厩舎に一人、馬の鼻面を撫でていた。プリシラに気づくと、ぎこちない足取りで歩み寄ってくる。
「行くのね」
囁き声のような小さな声で言った。
「君のために戦うんだ。僕の女王のために……」
トリスタンが静かに、けれど熱っぽく言う。暗い中、彼の表情は見えないけれど……
プリシラは胸が張り裂けそうだった。
「勇敢な人ね。男らしい方、なんて勇ましいんでしょう……!でも赦してちょうだい、私は今日ここを去ります。あなたは私のために戦うんじゃないのよ。ダーチャのすべての庇護を必要とする人々のために戦うの……」
「ピーター・ドールは兄を見捨てるのか?」
トリスタンがプリシラの手首を痛いほど強くつかんで言う。
「いいえ、これは私の決断なのよ。あなたのお兄さまのところにはいられない。これ以上言わせないで。あなたを傷つけたくないの」
プリシラはそう言うと、トリスタンに何度も熱情的なキスをした。
が、トリスタンはそんなプリシラを振り払う。傷つき怒った目がプリシラを睨んでいた。
「プリシラ様」
ピーターが厩舎の中に駆け込んでくる。彼はトリスタンの姿を見ると、ほとんど剣を抜きかけた……。トリスタンは既に腰から剣を抜いている。
だがプリシラがリリーに促されるままに厩舎の外に走ってゆくのを見て、トリスタンは一瞬絶望の表情を顔にひっつけた。
「戦え、この腰抜け!プリシラを弄ぶ遊蕩者め!」
馬に乗って遠ざかるピーターにそう叫びはしたけれど……
プリシラはラッパの音が鳴り響く中、何度も後ろを、トリスタンを振り返る。馬車から飛び出そうとする王女を、リリーが止めないといけないほどだった。
「トリスタンは戦闘なんかに向かうべきじゃないわ!私恐ろしいわ、あの人がもし……」
ひきつけか発作のように体を震わしながら言う。その先はあんまりに恐ろしくて言えなかった。
あとはただ、彼の無事を祈るだけだ……。彼を失うことなんて耐えられないから。
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