第21話 まどいは罪深く……
頬が熱かった。くもった銀の手鏡は歪んでいて、プリシラの美しい顔を正確には映し出さない。
小さな鏡の中で真珠のような涙が頬を伝うのを眺めていた。もう夜だ。ダーチャの館の客室に一人っきり……。
ピーター・ドールの集めた兵士達はやはりエミリーなる女性について何か知っているらしい。昼間、兵士達のいる中庭を何気なく歩いてみて立ち聞きしたのだ。ピーターに直接問いただす勇気は出なかった。
エミリーは実在する。ピーターになんらかの力を持っている
もちろん彼が王女を裏切るはずがなかった。プリシラはピーターのことを知り過ぎるくらい知っている。王女の幼い頃からの付き合いなのだ。いつだって一緒にいてくれた。まるで年の離れた兄のように口うるさく叱り、守ってくれて……。
リリーという名の侍女がやってきて、女主人のために寝支度を始めた。シーツを整え、絹のネグリジェを用意し、水差しに水を足して。見ていて気持ちよくなるような、無駄のない仕事ぶりだ。
彼女は公爵の知り合いの、ある貴婦人の娘らしい。プリシラは出会って二日目のこの侍女に、まだ打ち解けられずにいた。
「トリスタン様が気が向けば、いつでもご夫婦の寝室にいらっしゃるようにと仰っていましたよ」
リリーが服を脱いで、ベッドに入ろうとしているプリシラに言う。
「トリスタンが?あの人、まだ私を待っているのね。結婚した仲なのに、まだお帰りも言っていない。きっと挨拶してあげるべきね……」
「ええ、ずっと待っていらっしゃいました。プリシラ様が寝室にいらっしゃって昔のようにお話なされば、どれほど喜ぶことでしょう。トリスタン様はそれはそれは真剣にプリシラ様を愛していらっしゃるのですよ」
リリーの言葉はプリシラの心を動かした。それじゃあ、トリスタンは本気でプリシラを愛しているのだ。以前にもまして、ますます激しく、優しい感情で。
彼を、名ばかりの夫を愛しているわけじゃない。それでも恋に苦しむ彼に同情せずにいられなかった。少しくらい会って優しい言葉をかけてあげてもいいではないか。それで彼の心が安らぐのなら……
夫婦の寝室に行くとトリスタンはまだ起きていて、剣を前にやけに真摯な顔をしていた。小麦色の肌に、前はしなかった深刻そうな表情。横顔は鋭利で、なんだか大人っぽくなったような……。
プリシラを見ると表情が和らいだ。目は歓喜に輝いている。
「来てくれたんだね、やっと!……」
「ええ。リリーが行くようにすすめてくれたの。だって一応夫婦ですもの。でも変ね、寝室が別々の夫婦……」
トリスタンの顔が一瞬、寂しそうにかげった。
「ねえ、僕は君に戻ってきてほしい。君を愛してるんだ。大公だって倒すつもりだよ。君のために……」
「問題なのは、あなたのお兄様よ。カールセン公爵は私たち夫婦の絆を利用するつもりなんだから」
「ああプリシラ、頼むから兄さんの悪口だけは言わないでくれ。尊敬しているんだ。僕には兄貴に恩があるんだ。悪口を黙って聞いているわけにはいかない!」
トリスタンはそう言うと、不服顔のプリシラに軽くキスをして口をつぐませてしまった。
「でも帰ってきてほしい。本当に死んでしまいそうなくらい君を愛しているから!」
「ああトリスタン、あなたって……」
吐息のような弱々しい声が出て、胸が苦しくなった。
トリスタンがゆっくりと、何度も何度もキスをする。首筋やら手の甲やら唇やらに……。プリシラが顔を背けると、トリスタンはベッドに強引な力で押し倒してきた。小さな、ほとんど声にならないくらいの悲鳴。キスは続いて……
「いやよ」
プリシラができる限りの怒りと強さを声にこめて言った。
「ここではいや。こんな形では!ニーナを抱けばいいのよ。あの娼婦を!」
「ニーナに嫉妬しているんだね」
トリスタンがちょっと接吻をやめて優しい、からかうような声で言った。
「違うわ、嫉妬なんかしていない。だいたいあなたのこと、愛してないもの。嫉妬なんてできっこない!」
けれど、言ってから後悔した。愛していない、なんて……。愛していないなんて、彼に言うとはなんて冷酷なんだろう!優しくしたいから、慰めてあげたいからこの部屋に来たというのに……
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