第3話 麺類伯は準備する
「左に三寸、いや、四寸ほど!」
大宴会場に響き渡る甲高い声に、従者たちは慌ただしく動き回っていた。声の主は王宮から派遣された儀礼官・タペスリー卿。痩せこけた体に派手な赤紫の正装を纏い、細長い指で絶えず何かを指し示している。
「テーブルの配置が悪い!王子様の視界に入る角度を計算しているのかね?あと花の色合いが派手すぎる。王家の紋章色と調和させなさい!」
タペスリー卿の後ろでは書記が必死にメモを取り、指示を受けた従者たちは額に汗を浮かべながら宴会場の装飾を調整していた。
大宴会場は城の中でも最も広く豪華な空間で、天井からはクリスタルのシャンデリアが幾つも吊るされ、壁には歴代ウィート伯爵の肖像画と王国の歴史を描いたタペストリーが飾られていた。中央には巨大なU字型のテーブルが配置され、その周りに貴族たちの席が設けられていた。
「これでも王宮の規定通りに準備しておりますが…」
宴会の責任者であるヴェルミチェリが控えめに口を挟んだが、タペスリー卿は聞く耳を持たなかった。
「規定?私が今ここで言っていることが規定だ! 王子様を迎えるのに、地方の手引き書など当てにならん!」
ヴェルミチェリは息をつき、一歩下がった。身長が高く痩せた彼の姿は、その名前通りの細長いパスタのようだった。黒い正装に身を包み、常に冷静な表情を崩さないヴェルミチェリだが、今日ばかりは額に浮かぶ汗が彼の焦りを物語っていた。
「またあの儀礼官が難癖をつけているのか」
廊下から現れたノビルの声に、ヴェルミチェリは安堵の表情を浮かべた。
「伯爵様、ご多忙の中恐縮ですが…」
「問題ないよ、ヴェルミ。状況はどうだ?」
ヴェルミチェリは周囲を見回してから、声を潜めて報告を始めた。
「王宮からの儀礼官が昨夜到着し、宴会の準備について細かな指示を出しています。しかし…」
「しかし?」
「各派閥からの要求と衝突しているのです」
ノビルは眉をひそめた。「また始まったか…」
「タペスリー卿!これはどういうことでしょうか!」
大きな声が宴会場に響き渡った。声の主は、パスタ派の中心人物カッペリーニ卿だった。華やかな金糸の刺繍が施された緑の上着を着た中年の貴族は、タペスリー卿の前に立ちはだかっていた。
「我らパスタ派のテーブルが、なぜ王子様から最も遠い位置に配置されているのですか?」
タペスリー卿は冷ややかな表情で答えた。「席次は王国の儀式書に則って決めております。貴族の位と領地の規模、王家への貢献度を考慮して…」
「では、なぜうどん派のテーブルが上席なのですか?」カッペリーニ卿の顔は怒りで赤くなっていた。「我らパスタ派こそウィート領の伝統を守る者たち!小麦の真髄を極めた料理を提供するのです!」
「それは違う!」
新たな声が加わった。長い白髪と白髭を蓄えた老人、うどん派の長老コシが杖をつきながら近づいてきた。
「うどんこそ小麦の真髄!その弾力、喉越し、そして懐の深さ!王子様にお目にかけるべきは我らの『竜王うどん』であろう!」
ノビルとヴェルミチェリは、この展開に頭を抱えた。
「タペスリー卿」ノビルは前に出た。「どうやら説明が必要なようですね」
「ああ、ウィート伯爵」タペスリー卿は形式的にお辞儀をした。「こうした地方の…騒動…にはご心労が絶えませんね」
その言葉の中の軽蔑をノビルは見逃さなかったが、今はそれを問題にしている場合ではなかった。
「カッペリーニ卿、コシ長老、どうか落ち着いてください。席次は私が最終決定します」
「しかし伯爵様!」カッペリーニ卿が食い下がった。「王子様に最初に味わっていただくべきはパスタです! 最も洗練された小麦料理として…」
「いいえ、うどんです!」コシ長老が杖で床を叩いた。「ウィート領の土と水が育てた小麦の真髄は、うどんでこそ表現されるのです!」
「二人とも、十分です」ノビルの声には珍しく厳しさが込められていた。「王子の前でこのような醜態を晒すつもりですか?」
二人は黙ったが、互いに敵意の眼差しを向け合うのをやめなかった。
しかし、騒動はまだ終わらなかった。
「伯爵様!こちらにもご注目を!」
今度は宴会場の入り口から、蕎麦派の代表ソバニスタが入ってきた。洗練された着こなしと鋭い眼光を持つ商人は、何人かの従者を引き連れていた。
「我らの『七色そば御膳』の展示台が、窓際の日陰に配置されております。これでは蕎麦の美しい色合いが台無しです!」
「そうだ!そして我らのパン祭壇は?」
古代パン派の司祭ブレッドマンもまた、白い法衣に身を包み、何人かの信者を従えて現れた。丸々とした体型と赤ら顔の彼は、まさにパンのように膨らんでいる。
「神聖なる小麦の原初の姿を讃えるパンの祭壇が、なぜ脇のテーブルに追いやられているのですか?中央に置くべきです!」
宴会場は瞬く間に混乱に陥った。四つの派閥がそれぞれの主張を声高に叫び、タペスリー卿は顔を真っ赤にして反論し、従者たちは右往左往していた。
「ヴェルミ…」ノビルは側近に目配せした。
「承知しました」
ヴェルミチェリはすぐさま行動に移った。まず、宴会場の隅に控えていた楽士たちに合図を送り、彼らは静かに調べを奏で始めた。心地よい音楽が場に流れ、一瞬だけ騒動が収まる。
その隙に、ヴェルミチェリは各派閥のリーダーたちに近づき、何やら耳打ちした。そして、彼らを宴会場の隣の小部屋へと誘導し始めた。
「皆様、こちらへどうぞ。伯爵様のご意向です」
ノビルは頷き、タペスリー卿に向き直った。
「申し訳ありません、タペスリー卿。領内の事情で少々混乱を招いてしまいました。宴会の準備は引き続きお任せします。私は派閥の代表たちと話し合いを持ちます」
タペスリー卿は鼻を鳴らしたが、形式的に頭を下げた。「どうぞ。私はミール王子に恥をかかせないよう、適切に準備を進めておきます」
ノビルはお辞儀を返すと、ヴェルミチェリが案内した小部屋へと向かった。
部屋に入ると、四つの派閥のリーダーたちが互いに距離を取って立っていた。まだ言い争う気配はあったが、伯爵の入室に伴い一時的に静かになった。
「諸君」ノビルは扉を閉めた。「この状況は由々しき事態だ」
「伯爵様」カッペリーニ卿が一歩前に出た。「我らパスタ派こそはウィート領の…」
「カッペリーニ卿」ノビルは手を上げて遮った。「あなたの主張は十分理解しています。コシ長老、ソバニスタ殿、ブレッドマン司祭も同様です。皆それぞれの料理に誇りを持ち、その価値を王子様に認めていただきたいのでしょう」
四人は黙って頷いた。
「しかし、考えてもみてください。このような争いが王子様の目に触れれば、ウィート領はどう映るでしょうか?統制の取れない、分断された地方として」
「しかし伯爵様」ソバニスタが口を開いた。「我々が争うのは、より良いウィート領の未来のためです。蕎麦の繊細さと風味こそが…」
「そして我らのパンの神聖さこそが…」ブレッドマン司祭が割り込んだ。
再び口論が始まりそうになったが、ノビルは机を強く叩いて全員の注意を引いた。
「十分です!」
部屋は静まり返った。ノビルがこれほど厳しい口調で話すのは珍しかった。
「皆さんの情熱は理解できます。しかし、今回の王子様のご訪問は、単なる儀礼的なものではありません」
「どういうことですか?」コシ長老が問うた。
ヴェルミチェリが前に進み出て説明した。「王都からの情報によると、ミール王子様は各地方の再編を検討していると言われています…」
「直轄化の話か」カッペリーニ卿の表情が硬くなった。
「可能性は否定できません」ヴェルミチェリは冷静に答えた。「ウィート領の成功、特に麺文化の発展は王国全体で注目を集めています。王子様がそれを王室の管理下に置こうと考えても不思議ではありません」
部屋の空気が一変した。四人のリーダーたちは互いに顔を見合わせた。
「それは…避けねばなりません」コシ長老がゆっくりと言った。
「その通り」ノビルは頷いた。「だからこそ、私たちは一致団結して王子様をお迎えする必要があります。内部分裂を見せれば、それは介入の口実を与えるだけです」
「では、どうすれば?」ソバニスタが実務的に尋ねた。
ノビルは彼らを見回した。それぞれが麺文化の発展に貢献してきた重要人物たち。対立はあれど、ウィート領への愛情は共通していた。
「妥協案を提案します」ノビルは言った。「宴会では各派閥の料理を平等に配置し、王子様に幅広いウィート領の食文化を楽しんでいただく。誰が上で誰が下という争いはやめにしましょう」
「しかし、どの料理を先に出すかという順序は?」ブレッドマン司祭が尋ねた。
「それは…」ノビルは一瞬考え、笑顔を見せた。「ムギオに任せましょう。彼は料理長として、最も効果的な料理の提供順を心得ています」
四人は不満そうな表情を見せたが、ムギオの技術と中立性には誰も異議を唱えられなかった。流石は麺師と呼ばれるだけのことはある。
「そして」ノビルは続けた。「宴会の最後には、特別なサプライズを用意します」
「サプライズ?」カッペリーニ卿が眉を上げた。
「詳細は明かせませんが、ウィート領の団結と創造性を示すものになるでしょう。皆さんにも協力してほしいことがあります」
ノビルは各リーダーに近づき、小声で何かを伝えた。彼らの表情は驚きから興味へ、そして徐々に同意へと変わっていった。
「…これが私の計画です。いかがでしょう?」
四人は互いに見合わせ、最終的にはそれぞれが頷いた。
「伯爵様の知恵に従いましょう」コシ長老が代表して答えた。「ウィート領の未来のために」
「ウィート領の未来のために」他の三人も復唱した。
ノビルは満足げに頷いた。「では、それぞれの準備を続けてください。そして…」
彼は各リーダーの目を見つめた。
「宴会場での争いは禁止です。ミール王子様の前では、私たちは一つのウィート領として振る舞いましょう」
四人は厳粛に頷き、部屋を後にした。彼らの間にはまだ緊張感があったが、少なくとも公然と争うことはなさそうだった。
部屋に残されたノビルとヴェルミチェリは、互いに安堵の息をついた。
「見事な調停でした、伯爵様」
「まだ始まったばかりだよ、ヴェルミ」ノビルは窓から外を見た。「王子様の到着までもうすぐ。やるべきことはたくさんある」
「お考えのサプライズとは…?」
ノビルはにやりと笑った。「すべての派閥の技術を結集した、究極の一杯だ」
「究極の一杯!? それは可能なのでしょうか?」ヴェルミチェリは疑問を隠さなかった。
「わからない。だがやってみる価値はある」ノビルは扉に向かった。「ムギオを呼んでくれ。彼の力が必要だ」
「承知しました」
ヴェルミチェリが離れると、ノビルは再び宴会場へと足を向けた。タペスリー卿はまだ従者たちに指示を出し続けていた。装飾はより豪華になり、テーブルセッティングも整然としてきていた。
「タペスリー卿」ノビルは近づいた。「素晴らしい仕事ぶりです」
卿は少し驚いたようだったが、すぐに取り繕った。「当然のことです。王子様のために万全を期すのみ」
「派閥の問題は解決しました。これからは協力して準備を進めましょう」
「それは…良かった」タペスリー卿は少し安心したようだった。「しかし、食事内容については厳格なチェックが必要です。王子様は繊細な味覚の持ち主で…」
「もちろん」ノビルは微笑んだ。「我がウィート領の最高の料理をお出しします。それぞれの派閥の誇りをかけた逸品です」
タペスリー卿は眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
ノビルは宴会場を見回した。これから始まる戦いの舞台だ。ミール王子の訪問は危機かもしれないが、チャンスでもある。麺文化を真に根付かせ、領地の未来を守るための。
「準備を始めよう」彼は自分自身に言い聞かせた。「究極の一杯のために」
窓の外では、ススル川が穏やかに流れ、広大な小麦畑が風に揺れていた。ウィート領の豊かさを象徴するその光景を見つめながら、ノビルは決意を新たにした。
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