第4話 麺類伯は闇世に微笑む
ウィート城から程近い場所に、カッペリーニ卿の私邸がある。普段は厳重に警備され、閉じられた門も、今夜は特別に開かれていた。しかし入れるのは特定の人物のみ。門番は訪問者の顔を慎重に確認し、合言葉を聞き取ってから通した。
「アル・デンテ」
合言葉を告げた人物は、顔を深く覆う外套を纏っていた。門番は頷き、脇へ寄って道を開けた。
カッペリーニ卿の邸宅の地下には、ワインセラーを改造した秘密の会議室がある。石造りの部屋は松明の明かりで照らされ、中央には長テーブルが置かれていた。テーブルの上には様々な形のパスタが広げられている。
「皆が揃ったようだな」
カッペリーニ卿は立ち上がり、集まった十数名のパスタ派メンバーを見渡した。部屋に集まったのは、領内の有力貴族、パスタ職人、そして王都との取引を担う商人たちだった。
「我々パスタ派は危機に直面している」カッペリーニは重々しく宣言した。「ミール王子の訪問は、ウィート領の未来、そして麺文化の正統な継承者を決める重大な機会だ」
「伯爵様は中立を表明しておられますが」ある貴族が発言した。「我々はどう動くべきでしょうか?」
「中立?」カッペリーニは冷笑した。「表向きはそうだろう。だが伯爵様は内心、パスタこそが最も洗練された麺の形だとご存じのはず。我々はそれを証明せねばならない」
彼はテーブルに置かれたパーチメントを広げた。そこには複雑なパスタ料理の図面が描かれていた。
「これが我らの秘密兵器だ。『王者の栄光』と名付けたパスタ料理。ミール王子の味覚を虜にし、パスタの優越性を証明する究極の一皿になる」
「材料は?」若いパスタ職人が尋ねた。
「最高級のデュラムセモリナ粉を使用する。この時のために作らせた特注品だ。形状は…」
カッペリーニは小さな木箱を開け、中から金色に輝く型を取り出した。
「これだ。王国の紋章をかたどったパスタ型。一つ一つ手作業で成形し、完璧な形に仕上げる」
「ソースは?」別の職人が質問した。
「それが肝心だ」カッペリーニの目が輝いた。「我が密偵が王都から持ち帰った情報によると、ミール王子は珍しい香辛料に目がない。特に、東方から来る赤い粉、パプリカを好むという」
「しかし、それは高価な…」
「費用は問題ない」カッペリーニは手を振った。「王子の舌を満足させるためなら、私財を投じても惜しくない」
彼はさらに詳細な指示を続けた。ソースの配合、皿の盛り付け、提供のタイミング…すべてが緻密に計算されていた。
「最後に」カッペリーニは声を落とした。「私は王子様の侍従長と特別な…取り決めをした。王子様のテーブルにパスタを最初に運ぶように手配済みだ」
「まさか賄賂を?」年配の貴族が心配そうに尋ねた。
「違う、違う」カッペリーニは否定した。「単なる贈り物だ。東方の珍しい品を少々…」
集まった者たちは意味ありげに頷き合った。
「では、各自の役割を再確認しよう」
カッペリーニは一人一人に詳細な指示を与えた。
「覚えておけ」最後にカッペリーニは全員を見渡した。「我々の目的はただ一つ。ミール王子にパスタの優越性を認めさせ、ウィート領の公式料理としての地位を確立することだ。そうすれば、伯爵様も我々の功績を正当に評価せざるを得ない」
密会の参加者たちは厳粛に頷き、潜入してきたように、一人また一人と静かに邸宅を後にした。
カッペリーニは一人残り、ワインを傾けながら王子を迎える日を思い描いていた。
「パスタの時代が来る…」彼はグラスを掲げて呟いた。
ウィート領の東、小さな丘の上に建つ古い建物。かつては武術の道場だったこの場所は、今では「麺道場」として知られていた。入口には「喉越しの道」と書かれた木の看板が掲げられている。
中に入ると、板張りの広間に二十人ほどの弟子たちが正座して並び、厳かな雰囲気が漂っていた。部屋の正面には、長老コシが座っている。八十に近い年齢ながら、その眼光は鋭く、背筋はピンと伸びていた。
「始めよ」
コシの静かな声に応じて、弟子たちは前に置かれた木製のボウルに手を伸ばした。ボウルの中には、水と小麦粉を混ぜた生地が入っている。
「麺は指先で感じるものだ」コシは語りかけた。「生地の状態、水分量、粘り気…全てを指が教えてくれる」
弟子たちは黙々と生地をこね始めた。若い者から年配の者まで、様々な年齢の弟子たちだが、全員が真剣な表情で作業に集中している。
「ダシマロ」
コシは中堅の弟子を呼んだ。三十代半ばの男性、ダシマロは道場で最も優れた麺打ちの技術を持つと評されていた。
「はい、師匠」
「お前が皆に手本を見せよ。今日は特別な訓練だ」
ダシマロは頷き、中央に進み出た。周囲の弟子たちは作業を止め、彼の動きを見守った。
コシは低い声で説明を始めた。「二日後、ミール王子がウィート領を訪れる。我々うどん派にとって、これは千載一遇のチャンスだ。王子様に『真の喉越し』を体験していただき、うどんの素晴らしさを理解していただかねばならない」
弟子たちの間に緊張が走った。
「我々が王子様に提供するのは『竜王うどん』」コシは続けた。「太さは指二本分、長さは一尺。コシの強さは竹のごとく、しなやかさは柳のごとし。そして最も重要なのは…」
「喉越し」弟子たちが声を揃えた。
「その通り」コシは頷いた。「喉を通る瞬間の感覚こそ、うどんの魂だ。それを極限まで高めるには、特別な技が必要だ」
彼はダシマロに合図した。ダシマロは生地を丁寧にこね、熟成させた後、麺棒で薄く延ばし始めた。その動きは流れるように滑らかで、無駄がない。
「見よ、この手の動き」コシは弟子たちに語りかけた。「生地に命を吹き込むように、均一に力を込める。厚さのムラは許されん。一本の麺の中で太さが変われば、喉越しは台無しだ」
ダシマロは集中して作業を続け、生地を折りたたみ、再び延ばす作業を繰り返した。
「水分量」コシは弟子の一人、若い女性に向かって言った。「お前の生地は乾きすぎている。指先で感じろ」
彼女は慌てて水を足し、再びこね始めた。
「逆に」別の弟子に向かって「お前のは水分が多すぎる。小麦の力が引き出せん」
コシは杖をつきながら弟子たちの間を歩き回り、一人一人に細かな指導を行った。数時間に及ぶ厳しい訓練だったが、誰も不満の声を上げなかった。
最後に、ダシマロが打ち終えた麺を釜で茹で上げた。茹で時間は秒単位で計られ、冷水で締められた後、特製の器に盛られた。
「これが『竜王うどん』だ」
コシは弟子たちを前に、ダシマロが作った一杯を掲げた。透明感のある白い麺は太く、艶やかに光っていた。
「今日はここまでだ。明日からは『竜王うどん』の修行に集中する。全員が完璧に作れるようになるまで、食事も睡眠も制限する」
誰も異議を唱えなかった。うどん派の弟子たちにとって、師の言葉は絶対だった。
コシは一人ダシマロを呼び止めた。
「特別な任務がある」
二人きりになると、コシは声を潜めた。
「王子様が最初に味わうのはうどんでなければならない。しかし、パスタ派のカッペリーニが動いていると聞く」
「どうすればよいのでしょう?」
「宴会の配膳係に我々の仲間を送り込む。そして…」
コシは何やら細かな指示を出した。ダシマロは真剣に頷きながら聞き入った。
「分かりました、必ず成功させます」
「頼んだぞ、ダシマロ。うどんの未来は我々の手にかかっている」
夜が更けていく中、うどん道場の灯りは消えることなく、弟子たちの修行は続いた。
ウィート領の北西部、山に近い地域に蕎麦派の拠点がある。かつては倉庫だった広い建物は、今では最新の設備を備えた「蕎麦工房」となっていた。
中には実験台が並び、壁には複雑な図表や植物の絵が貼られている。室内には大麦と蕎麦の香りが漂い、研究者たちが白い上着を着て忙しく働いていた。
「これは違う…まだ香りが足りない」
工房の中央で指揮を執るのは商人ソバニスタ。三十代後半の彼は、領内随一の商才と共に、蕎麦に対する情熱を持っていた。彼の前には様々な種類の蕎麦と具材が並べられていた。
「ソバニスタ様」若い研究員が近づいてきた。「山岳地帯から取り寄せた珍しいキノコが届きました」
「よし、早速試してみよう」
ソバニスタは差し出された籠を開け、中のキノコを手に取った。黒と金色が混ざったような珍しい色合いのキノコだ。彼は鼻を近づけて香りを確かめた。
「素晴らしい…森の深みと大地の力強さを感じる香りだ。これを『七色そば御膳』の中心に据えよう」
工房の一角では、女性研究者のツユ姫が複数の小鉢に入った液体を慎重に調合していた。
「ツユ、進捗は?」
「はい、最終段階です」彼女は自信に満ちた表情で答えた。「七種類の出汁を調合した『虹の雫』が完成しました。蕎麦の風味を最大限に引き出す最高のつゆです」
ソバニスタは小さなスプーンで一口試し、満足げに頷いた。
「これぞ我らが追い求めてきた味だ。ミール王子の味覚を目覚めさせるに違いない」
ソバニスタは工房の中央に集まるよう研究員たちに合図した。十人ほどの精鋭たちが集まると、彼は計画を説明し始めた。
「『七色そば御膳』は我々の集大成だ。山、川、森、海…ウィート領の全ての恵みを一つの料理に集約した」
彼は大きな図面を広げた。そこには七つの小鉢を配した豪華な膳の絵が描かれていた。
「中央の蕎麦は七種類の粉を配合した特製品。周りには七種類の具材を配し、それぞれが異なる色と香りを表現する」
研究員たちは感嘆の声を上げた。
「しかし」ソバニスタは真剣な表情になった。「課題がある。パスタ派とうどん派が王子様への提供順を巡って暗躍している。我々も手を打たねばならない」
「どうすれば?」ツユ姫が尋ねた。
「私は商人だ」ソバニスタは微笑んだ。「王子様の旅路に当たる各宿場町で、我らの蕎麦を振る舞う手配をした。王子様がウィート城に到着する前に、すでに蕎麦の虜になっていただく」
「さすがソバニスタ様!」研究員たちが称賛の声を上げた。
「さらに」彼は声を潜めた。「王子の侍医にも接触した。蕎麦の健康効果を説き、王子様の体調管理のために蕎麦を勧めるよう依頼した」
「それは素晴らしい戦略です」
「全ては蕎麦の未来のためだ」ソバニスタは決意を語った。「我らの『七色そば御膳』が王子様の心を掴み、ウィート領の公式料理となれば、蕎麦の価値は王国全体に知れ渡る」
彼は窓の外を見た。月明かりに照らされた畑では、蕎麦の白い花が風に揺れていた。
「さあ、最終調整だ。明日の夜までに完璧にしよう」
研究員たちは熱心に作業に戻り、工房は再び活気づいた。ソバニスタは自分の机に戻り、秘密の書類を取り出した。そこには王都の貿易ルートと蕎麦の流通計画が記されていた。
「蕎麦が王国の食卓を征する日も近い…」彼は静かに呟いた。
ウィート領の南西、小高い丘の上に建つ石造りの大聖堂。古い建物は時を経て風格を増し、夕暮れの光に照らされて荘厳な印象を与えていた。
大聖堂の地下にある広間では、数十人の信者たちが集まっていた。壁には小麦の穂を象った装飾が施され、中央には巨大なオーブンが据えられている。オーブンの前に立つのは、丸々とした体型の司祭ブレッドマン。白い法衣に身を包み、腰には麦の穂で作られた飾り帯を締めていた。
「兄弟姉妹たちよ」ブレッドマンの声が広間に響き渡った。「我々は今、重大な岐路に立っている。ミール王子の来訪は、古来からの真理を取り戻す好機だ」
「ラーメン!」信者たちが応えた。
「小麦は神聖なる穀物。それを粉にし、水と塩と酵母を加え、火で焼き上げる。これこそ最も古く、最も純粋な食べ方だ」
ブレッドマンはオーブンから取り出したばかりの大きなパンを掲げた。黄金色の表皮が蒸気を上げている。
「しかし、今やウィート領では邪道が幅を利かせている。小麦を引き伸ばし、水に沈め、異国の調味料で味を変えた麺料理が跋扈している」
信者たちからは憤りの声が上がった。
「我らの使命は明確だ。王子様にパンの神聖さを示し、古来からの食の知恵を取り戻すことだ」
ブレッドマンは中央のテーブルに近づき、大きな羊皮紙を広げた。そこには複雑な図面が描かれていた。
「これが我らの秘密兵器、『天啓のパニス』だ」
図面には巨大なパンの設計図が描かれていた。複雑な層状構造と、表面に施される装飾の詳細が記されている。
「このパンは七層からなり、各層は王国の七つの美徳を表す。最上層は王家の紋章を象った特別な焼き模様で飾られる」
信者たちは感嘆の声を上げた。
「しかし」ブレッドマンは声を低くした。「これを作り上げるには、古来の儀式に則った製パン過程が必要だ。今夜、我々はその儀式を執り行う」
彼は信者たちに合図し、全員が大きな円を作って並んだ。中央には小麦粉、塩、水、酵母が置かれた。
「まず、粉挽きの祈り」
ブレッドマンの先導で信者たちは古い言葉を唱え始めた。その間、選ばれた者たちが小麦を石臼で挽いていく。儀式は厳かに進行し、粉が完成すると次は塩の祝福に移った。
「塩は大地の結晶、水は生命の源、酵母は変化の象徴」
ブレッドマンの言葉に合わせて、それぞれの材料が特別な容器に入れられていく。そして最後に、全ての材料が大きな木製のボウルに集められた。
「さあ、生命の儀式の始まりだ」
信者たちは輪になり、ボウルを囲んだ。彼らは古い歌を歌いながら、交代で生地をこね始めた。その動きはまるで舞踊のように美しく、リズミカルだった。
「生地が息づくのを感じよ」ブレッドマンは目を閉じて語った。「小麦の魂が目覚め、酵母の力で膨らみ、新たな姿へと変わっていく…」
儀式は数時間続き、生地は次第に大きく、弾力のあるものへと変わっていった。最後に、特別な形に整えられた生地は、聖なる布で覆われ、熟成室へと運ばれた。
「明日の夜、最終段階の儀式を行う」ブレッドマンは宣言した。「そして、ミール王子の訪問日に『天啓のパニス』が完成する」
儀式が終わると、信者たちはそれぞれ小さなパンを分け合い、静かに食べた。
後に残ったブレッドマンと数人の幹部信者たちは、別室で密談を始めた。
「司祭様」若い修道士が尋ねた。「他の派閥は様々な策を練っていると聞きます。我々も何か対策を…」
「心配するな」ブレッドマンは自信満々に答えた。「私はタペスリー卿と特別な関係を築いた。彼もまた古代の食文化を重んじる人物だ」
「それは朗報です」
「タペスリー卿の力を借りて、宴会の最初に我らのパンが供されるよう手配済みだ。パンの香りが広がれば、それだけで王子様の心を掴むことができよう」
幹部たちは喜びの声を上げた。
「さらに」ブレッドマンは満足げに続けた。「予備計画も用意した。もし他の派閥が妨害してきても、対応できるようにしてある」
彼は秘密の引き出しから小さな瓶を取り出した。
「これは?」
「特別な香りの素だ。ほんの少量でも、周囲に最高のパンの香りを広げる。必要とあらば、これを使って王子様の注意を引く」
「さすが司祭様!」
ブレッドマンは静かに微笑んだ。「パンは人類最古の食べ物。その正統性は揺るがないのだ」
深夜、大聖堂の灯りが消えた後も、地下室では熟成する生地が静かに膨らみ続けていた。
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それぞれの派閥が密かに動き、準備を進める中、ウィート城では伯爵ノビルが執務室で深い考えに沈んでいた。
「ヴェルミ、各派閥の動きは把握できているか?」
側近のヴェルミチェリは報告書を手にしながら頷いた。
「はい、伯爵様。彼らはそれぞれに…創意工夫を凝らしているようです」
ノビルは窓から見える夜景を眺めながら、静かに笑った。
「派閥争いを抑えようとしたが、逆に彼らの情熱に火をつけてしまったようだ」
「対応策は?」
ノビルは執務机に置かれた一冊の本を手に取った。それは彼が前世の記憶を頼りに書き綴った麺の記録だった。
「彼らの情熱を一つにまとめるんだ。争いではなく、協力へと」
「具体的には?」
「それには…」ノビルは微笑んだ。「料理長ムギオの力が必要だ」
窓の外では、ウィート領の夜空に星々が煌めいていた。明後日に迫ったミール王子の訪問に向け、すべての準備が着々と進んでいた。しかし、その裏では各派閥の思惑が交錯し、予測不能な事態が静かに忍び寄っていた。
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