第2話 麺類伯の夕食


夕食の間に向かう途中、ノビルは厨房の方から響く激しい物音に足を止めた。金属のボウルが床に落ちる音。


「王子様の前で失態はできんぞ! 我がウィート家の恥になる! 新しい粉をもってこい!」


ノビルはため息をつき、声のする方へと向かった。厨房の扉を開けると、中は戦場のような騒ぎだった。十数人の料理人が慌ただしく動き回り、中央では料理長ムギオが若い見習いを前に、手の動きを激しく指導していた。


「ムギオ」


ノビルの声に、厨房内の動きが一瞬止まった。


「伯爵様!」


五十代半ばのムギオは、白髪まじりの髪を後ろで結び、精悍な顔つきをしていた。前世で言えば、日本の老舗料理店の板前のような風格を持つ男だ。彼は慌てて手を拭き、ノビルに近づいた。


「申し訳ございません。少々騒がしく…」


「いや、気にするな」ノビルは厨房内を見回した。普段と違う緊張感が漂っている。「何かあったのか?」


ムギオは一瞬躊躇い、それから低い声で言った。「先ほど料理会議から戻ったところです」


「料理会議?」


「各派閥の料理人たちが集まり、ミール王子様の歓迎宴について話し合いました」


ノビルは眉をひそめた。そのような会議が行われていたことすら知らされていなかった。


「私の許可は?」


「申し訳ありません」ムギオは深く頭を下げた。「カッペリーニ卿が急に召集したもので…伯爵様のご予定を確認する時間がなく…」


「わかった、気にするな」ノビルは手を振った。「それで、どんな話になったんだ?」


ムギオは周囲を見回し、さらに声を落とした。「混乱の極みでした。各派閥が自分たちの料理を王子様に出すべきだと主張し…」


「予想通りだな」


「問題は、それだけではありません」ムギオは真剣な表情で続けた。「彼らは王子様の好みを探るため、諜報活動まで始めているのです」


「諜報?」


ムギオは頷いた。「パスタ派のカッペリーニ卿は王都に密偵を送り、王子様の食事の好みを探らせているそうです。うどん派のコシ長老は王家の元料理人に金を渡して情報を買おうとしていると」


ノビルは額に手を当てた。「バカなことを…」


「さらに蕎麦派のソバニスタは王子様の来訪ルートの宿場で、先回りして蕎麦を振る舞う計画を立てていると聞きます」


「頭が痛いな。どこまで本気なんだ…」


「古代パン派のブレッドマン司祭に至っては、『パンこそ王家に相応しい』と宣言し、麺類は下賤な食べ物だと吟遊詩人に吹き込んでいるようです」


ノビルは壁に寄りかかった。状況は想像以上に悪化していた。


「伯爵様」ムギオは心配そうに近づいた。「ご気分が悪いのですか?」


「大丈夫だ。ただ…これほどまでになるとは思わなかった」


ノビルはふと、厨房の隅にある棚に目を向けた。そこには彼が考案した様々な麺の道具が並んでいた。麺棒、製麺機、釜…前世の記憶を頼りに作らせたものばかりだ。


「で、結局、どうなったんだ? 会議は」


ムギオは肩をすくめた。「結論は出ませんでした。最終的には各派閥が独自の料理を用意し、宴会で披露することになりそうです」


「まとまりがないな」


「それどころか」ムギオは声を震わせた。「会議の終わりには、『自分たちの料理が王子様に認められれば、ウィート家の公式料理となる』などと言い出す者までいました」


「何だと?」ノビルの声が厳しくなった。「勝手なことを…」


「彼らは伯爵様の権威を借りて、自分たちの地位を高めたいだけなのです」


ノビルはしばらく黙っていた。厨房では料理人たちが彼らの会話を気にしながらも、手を止めずに作業を続けている。


「ムギオ」


「はい」


「お前はどう思う? 私がこの領地に麺を持ち込んだことを」


ムギオは驚いた顔をした。そして真剣に考え込んだ。


「伯爵様がもたらした麺の文化は…革命でした」彼はゆっくりと答えた。「小麦の新たな可能性を開き、人々に喜びを与えました。それはこの地方の誇りです」


「なのに今は、分断の種になっている」


ムギオは首を振った。「いいえ、そうは思いません。確かに今は派閥が争っていますが、それは皆が麺を愛しているからこそです。それぞれの麺に情熱を注ぎ、それを守りたいと思う…それは決して悪いことではありません」


ノビルは少し驚いた顔でムギオを見た。


「料理人としては」ムギオは続けた。「様々な技術が磨かれることを嬉しく思います。パスタ派はソース作りで新たな技を開発し、うどん派は麺の弾力に関する研究を深め、蕎麦派はより香る製粉技術を極めています。それらは全て、麺の未来のための財産です」


ノビルはムギオの言葉に、少し心が軽くなるのを感じた。


「それに」ムギオはにっこりと笑った。「伯爵様がもたらした麺のおかげで、私たち料理人の地位も上がりました。以前は単なる使用人でしたが、今では『麺師』として尊敬されています」


「そうか…」ノビルはうなずいた。


「伯爵様」ムギオは真剣な顔になった。「今は混乱しているかもしれませんが、これはきっと成長の過程です。いずれ、全ての麺が互いを認め合い、共存する日が来ると信じています」


ノビルは静かに微笑んだ。ムギオの言葉には、確かな説得力があった。自分が前世から持ち込んだ麺文化は、混乱を招きつつも、この地方に確かな変化と発展をもたらしていたのだ。


「ムギオ、私は正しい選択をしたのだろうか?」


料理長は迷うことなく頷いた。「間違いなく、伯爵様。あなたは我らにパンだけでなく、麺という宝を与えてくださいました。その可能性は、まだ半分も引き出されていません」





一息ついてラーメンを啜る。

そのとき、厨房の扉が勢いよく開き、ヴェルミチェリが慌てた様子で入ってきた。


「伯爵様!」


「どうした、ヴェルミ?」


「大変です! パスタ派のカッペリーニ卿とうどん派のコシ長老が、中庭で口論を始めました!」


ノビルは天井を見上げてため息をついた。


「何がきっかけだ?」


「『ミール王子様は細い麺がお好きだ』『いや、太い麺だ』と…」


「本当に子供じみた…」ノビルは頭を振った。「行くぞ」


「伯爵様」ムギオが呼び止めた。「お食事はどうされます?」


ノビルは歩きながら振り返った。「騒ぎが収まったら食べる。今夜のメニューは何だ?」


ムギオは誇らしげに胸を張った。「特製ラーメンです。前世で伯爵様が愛した『中華そば』を再現しました」


「楽しみにしているよ」


厨房を出たノビルとヴェルミチェリは、中庭へと急ぐ。


「ヴェルミ、この騒動の解決もだが、ミール王子についてもっと調べなくては」


「すでに手配しております。王都の我らの協力者が情報を集めています」


「良い。対抗するなら、正々堂々とやろうじゃないか」


「…伯爵様は派閥争いに加わるつもりですか?」


ノビルは歩みを止め、ヴェルミチェリを見た。彼の顔に、珍しく決意の色が浮かんでいた。


「いや、争いを終わらせるつもりだ」


「どうやって?」


ノビルは中庭から聞こえる怒号に目を向けた。それから静かに言った。


「麺は分断のためではなく、団結のためにある。それを証明してみせる」


「伯爵様…」


「王子が来る前に、準備をせねばならんな」


ノビルは再び歩き出した。彼の頭には、すでにあるプランが形作られつつあった。麺の未来のために、彼ができること。そしてミール王子の訪問を、危機ではなく、チャンスに変えるための計画が。


中庭からは聞こえる怒号が聞こえてきたが、ノビルの表情には、もはや疲労の色はなかった。

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