麺類伯は今日もくたくた
だらすく
第1話 麺類伯の憂鬱
「パスタこそウィート領の小麦を最も活かしたもの! 小麦の色、はり、そして歯ごたえ。この全てを満たすのはパスタである!」
「違う! 小麦の麺ならうどんが最高だ!! あのつるりと喉越し、弾力感! あれこそ神の手によるものである!」
ウィート・ノビルは頭を押さえながら、長いため息をついた。執務室、議場、そして街の隅々にまで響き渡る怒号。窓の外ではすでに夕日が沈みかけていたが、議論はまだ終わる気配すらない。
「蕎麦を馬鹿にするのか!? 小麦だけに飽き足らずウィート領の青き恵み、大麦までもか! 我らがウィート伯爵への恩を仇で返すか!!」
ノビルは執務机の上の文書から顔を上げた。頬には疲労の色が濃く出ている。領内の各地から集まった貴族や長老たちは、真剣な顔で互いに言い合っていた。そして、その様子を見守るノビルの横では、側近のヴェルミチェリが冷や汗を流していた。
「伯爵様、そろそろ…」
ヴェルミチェリの小声の促しに、ノビルはうんざりとした表情で立ち上がった。
「諸君、今日はこれまでだ」
しかし、熱を帯びた議論の声にノビルの声はかき消されてしまう。
「いや、古のパンこそ先人の与えた知恵。ただしき小麦の使い道! 麺はそもそも邪道である!!!」
「伯爵様、もう少し大きな声で…」と促すヴェルミチェリに、ノビルは首を横に振った。
「ヴェルミ、いつもの手だ」
「かしこまりました」
ヴェルミチェリは大きく頷くと、執務室の隅に立つ衛兵に目配せした。衛兵は一度頷き返すと、銅鑼を大きく打ち鳴らした。
「ゴーーーン!」
轟音が部屋中に響き渡り、激しく議論していた者たちも流石に身を竦ませた。
「今日はこれまでだ」
静寂の中、ノビルの声がはっきりと響いた。
「明日も続けるというのなら、飯抜きでやらせていただこう」
その言葉に貴族たちは渋々と、しかし素早く部屋から退出していった。最後の一人が出ていくと、ノビルは椅子に崩れるように座り込んだ。
「ヴェルミ、今日で何日目だ?」
「本日のお茶はすでに8杯目です。麺は3杯目です。」
「いや、そうじゃなくて…麺論争は何日目だ?」
「ああ、それでしたら初回から数えて二十七日目になります」
ノビルは呆れ顔で額を机に打ち付けた。
「どうして食べ物でこんなに揉めるんだ…」
「伯爵様がもたらした恵みが大きすぎるがゆえ、その正統者を名乗りたい者が後を絶たないのでしょう」
ノビルは顔を上げ、窓の外に広がる大地を眺めた。広大な小麦畑が夕日に照らされて黄金色に輝いている。ススル川の流れは穏やかに蛇行しながら、その豊かな水を農地に届けている。
「最初は平和だったんだがな…」
ノビルの目に、五年前の光景が浮かんだ。
---
ウィート地方は洪水の常襲地帯だった。
王国の中でも最も豊かな可能性を秘めた平野でありながら、暴れ川ススルの猛威の前に、人々は安定した農業も定住もままならなかった。王国内では「泥の海」と呼ばれ、誰も見向きもしない辺境地だった。
「こんな土地を引き継いでも…」
当時二十九歳だったノビルは、父の死により突如ウィート伯爵となった日、領地を見渡して呟いた。雨季になれば水浸しとなる農地、その周りに点在する貧しい集落。そして嘆きと諦めに満ちた民の顔。
しかし、ノビルには他の貴族が持ち合わせない武器があった。
前世の記憶。
「ススル川の流れを変えるんだ」
提案した当初、長老たちから嘲笑を受けた。何世代もの伯爵が挑んでは挫折してきた治水事業。それを若造が成し遂げられるはずがない。
「前世では『三面張り』と呼ばれる工法があった。川底と両岸をコンクリートで固める…いや、この世界では石材と粘土で代用できる。消波に……」
前世の土木知識と、この世界の技術を融合させたノビルの指示は、時に混乱を招いた。しかし、彼の熱意と確信に満ちた態度は、徐々に人々を動かし始めた。
「堤防はもっと高く! 水路はこの角度で! 排水口はここに!」
三年の歳月と領内総出の労力を経て、ススル川はついに人の手によって治水された。雨季が訪れても洪水は起きず、豊かな水は計画的に農地へと届けられるようになった。
そして現在。ウィート領は見違えるほど変わっていた。
「今年の収穫量は…前年比で三倍だ!」
喜びに沸く民の声。王都からの監督官も視察に訪れ、フード王国の食糧問題を解決する切り札として、ノビルと彼の領地に大きな期待が寄せられた。
しかし、ノビルの野心はそれだけにとどまらなかった。
「小麦粉をこねて、棒状にのばし…」
ある日、料理長のムギオが驚きの声を上げた。
「伯爵様、その調理法は!」
「ああ、これか? 『麺』と呼ばれるものだ。前世では様々な形で食べられていた」
ノビルは麺の作り方を丁寧に説明した。小麦粉と水を混ぜ、こね、熟成させ、のばし、切る。そして湯でて食べる。
「なんと…単純な」
「しかし無限の可能性がある」
ノビルの指導のもと、ムギオが作り上げた最初の麺は、「ウィートヌードル」と名付けられた。シンプルな塩味のスープに浮かぶ麺。
領内の貴族、村民たちが初めて口にした時の表情を、ノビルは今でも鮮明に覚えている。
「これは…神の食べ物か!」
「喉を通る感覚…なんという快感!」
「伯爵様、このレシピを分けていただけませんか!」
その後、ノビルはさらなる麺のバリエーションを紹介していった。
「これは『パスタ』と呼ばれるもので、小麦の風味を最大限に活かした麺料理だ」
「そしてこれは『うどん』。太めに作って、コシを重視する」
「『蕎麦』は蕎麦と小麦を混ぜて作る。香りを楽しむ麺だ」
貴族たちは我先にとその技術を学び、各自の領地で発展させていった。パスタ派は独自のソースを開発し、うどん派は麺の太さと喉越しを極め、蕎麦派は香りの高い品種改良に力を入れた。
そして古代パン派も生まれた。彼らは麺よりも伝統的なパンこそが小麦の真の姿だと主張した。
最初は異なる味覚を楽しむ程度だった各派の主張は、次第に教義のようになっていった。
「うどんは朝に食べるべし」
「パスタは夕刻に味わうもの」
「蕎麦は立って食べると良い」
「パンは一日三度の食事の中心であるべき」
そして、ついには政治的な色合いを帯び始めた。
各派閥は自分たちの麺料理を「正統」とし、ウィート伯爵家の公式料理として認めさせようと画策するようになったのだ。
「伯爵様、お茶をお持ちしました」
回想から引き戻され、ノビルは目の前に差し出された茶碗を見つめた。
「ありがとう、ヴェルミ」
茶と言っているのに何故か蕎麦湯であるものを一口すすると、ノビルは疲労を感じる目元をこすった。
「私がただ懐かしい味を再現したかっただけなのに…」
「それがこの地方に革命をもたらしたのですよ」とヴェルミチェリは静かに言った。「ウィート領は今や『麺の国』として王国中に知られています。他領からの視察も絶えません」
確かに治水事業の成功により農業生産は飛躍的に向上したが、領地の評判を決定的に高めたのは、ノビルが導入した麺文化だった。それは単なる食べ物を超え、ウィート領のアイデンティティとなっていた。
「問題は、その恩恵に与りたいと思う者が多すぎることですね」とヴェルミチェリは続けた。
「麺の正統な継承者を名乗れば、あなたの威光の一部をいただけると考えているのでしょう」
ノビルは窓際に立ち上がり、沈みかけた夕日を眺めた。ススル川の水面が赤く染まっている。
「本当に大事なのは…」ノビルは呟いた。「麺そのものじゃない」
「伯爵様?」
「前世で食べた麺は、確かに美味しかった。でも、それだけじゃなかったんだ」
ノビルの脳裏に、前世の自分が家族や友人と食卓を囲み、笑いながら麺をすすっていた光景が浮かんだ。
「麺は人をつなぐものだった。分断するものじゃない」
ヴェルミチェリは静かに微笑んだ。「まさにそのとおりです。ひとつなぎの麺。しかし…」
彼の表情が急に曇った。
「どうした?」
「実は報告があります。一ヶ月後、ミール第一王子がウィート領を訪問されることになりました」
ノビルは眉をひそめた。「王子だと? なぜ突然?」
「公式には治水事業の視察とのことですが…」
「裏があるな」
ヴェルミチェリは頷いた。
「王都の情報によると、王子は各地方の力関係を再編する動きを見せているそうです。特に成功した領地には…」
「直轄化の話でも持ってくる気か」ノビルは冷たく言った。
「可能性はあります。また、当然ながら…」
「各派閥も王子の目に留まりたいだろうな」
ノビルは窓から離れ、デスクに戻った。「全員を呼べ。明日の朝一番。朝食より早く」
「派閥の長たちを?」
「ああ。それと、ムギオも」
「料理長も?」
ノビルは初めて笑顔を見せた。「そうだ。麺で争うくらいなら、麺で団結してみせようじゃないか」
「…何をお考えで?」
ノビルは言った。「全ての派閥の技術を結集した、究極の一杯を作るんだ」
「!? それは…可能なのですか?」
「わからん。だが試す価値はある」ノビルは立ち上がり、部屋の隅に置かれた本棚から一冊の本を取り出した。それは彼自身が書き記した、前世の料理の記録だった。
「私は麺で人々を分断するつもりはなかった。それは前世の記憶の中にある麺の本質に反する」
彼は本をパラパラとめくった。麺の種類、作り方、食べ方…前世の記憶を頼りに書き記した知識の数々。
「しかし、もしかしたらこの分断は、真の団結への過程なのかもしれない」
ノビルは窓の外を見つめた。ススル川の向こうでは、すでにランプの明かりが点り始めていた。各家庭の食卓には、今夜も様々な麺料理が並んでいることだろう。
「ヴェルミ、明日は忙しくなるぞ」
「はい、伯爵様」
「そして…今夜の私の食事は何だ?」
ヴェルミチェリは小さく微笑んだ。「本日は料理長特製の『ラーメン』です。」
前世でいうところの『中華そば』か。
「ふむ、いいタイミングだ」ノビルは本を閉じた。「さあ、食べに行こう。明日から本格的な麺の戦いが始まる」
執務室を出るノビルの足取りは、到着した時よりも軽やかだった。苦労の連続ではあるが、彼がもたらした麺の文化が今、新たな段階へと進もうとしている。
「ウィート領…いや、麺の国の歴史は、まだ始まったばかりだ」
ノビルはそう呟きながら、夕食の間へと向かった。彼の脳裏には、すでに王子を驚かせるための「究極の一杯」の姿が、おぼろげながら浮かび始めていた。
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