1-2 季節外れの桜
冬が終わりに向かっているとはいえ、まだ空気は冷たい。それなのに馬車の中で眠ってしまったのは、彼がストールとひざ掛けを与えてくれたお陰だった。武陽から新浜まで、初めて蒸気機関車に乗って、初めて黒船を見て、初めて縁談のお相手と顔合わせをして。初めての事が多すぎて緊張していたせいもあるだろう。
そんな言い訳をしてみても、それでも殿方に、それも初めて逢うお見合いのお相手に無防備な寝顔を晒すなんて余りにも気が抜け過ぎている。
「着きましたよ」
馬車を降りる時自然に差し出された彼の手を取りながら、流石にこれ以上の失態は見せてはいけないと強く思うのだった。
清春様に連れてこられた、雪景色の中に桜が咲き誇るという寒村は、実に寂しい場所だった。
ご維新が成り世の中が大きく変わっても、大きな都市や主要な街道から外れるとまだこうして昔ながらの景色が広がる。粗末な掘っ立て小屋の様な住まいからは、こちらを覗く村人たちの姿が見える。
じろじろと余所者に向ける遠慮の無い視線の中を、清春様はすたすたと歩いていき私はその後ろについていく。
「鴉宮家の者です」
村人の注目が集まる中、初老の、この村の村長と思われる人がついと出てきて、その方に清春様が告げた。
清春様の言葉に村長という人が警戒を問いた様子で表情を崩す。「ようこそおいで下さいました」と、早速件の季節外れの桜の元に案内されることになった。
雪解けの踏み固めただけの道はぬかるんでいて、陽も暮れて足元が薄暗がりになっているせいもあって、履き慣れない雪下駄では思うように進めない。そんなもたついた様をみかねて、清春様がそっと手を差し出してくれた。
「だ、大丈夫です」
思わず断りの言葉が出てしまったのは、自分を強く見せたかったから。けれど、言葉がついて出た後に失礼な事をしたかななんて思いがとぐろを巻いて、清春様の背中に彼がどんな表情をしているのかと不安が募る。けれでも彼が何も言わず歩く速さを私に合わせてくれたことに、一人で勝手に顔を赤くしていた。
ぬかんだ道を行き、少し小高くなっている丘を登る。そうして、件の桜の前にやってくる。
写真では村の中央に聳えるように見えたけれど、実際には村はずれに、廃墟の傍にぽつんと生えた一本桜で、桜の廻りを取り囲むように、篝火が焚かれている。
「言われましたようにこの篝火から中には誰も入っていません。では、私はこれで」
今まで案内をしてくれた村長が、それで足早に去っていく。冬の寒空に満開に咲き誇る桜なんて気味が悪くて仕方がないと言わんばかりに。
村から丘までの道中は雪が空かしてあるのに、この辺りからは雪が降り積もるままになっている。篝火を境界に本当に村人達は誰も立ち寄っていないようだった。
まるで結界にみたいに、人が立ち入らない禁域。
満開に咲く桜と私達だけがここにいる。
宵闇に、季節外れの桜は静かに鮮やかに咲き誇っている。
「どう思いますか? 舞香さん」
「とても綺麗ですよ」
清春様に返した言葉は嘘ではなかった。
煌々と焚かれる篝火に桜の花が艶やかに照らされている。きっとそうでなくとも、冬の寒空に狂い咲く桜なんて幻想的で美しい光景だ。
時期を間違えた早とちりで咲く爛漫なお転婆ではなく、まるで人を誑かす悪女のように妖艶で人を惹き付けてやまない、心を搔き乱すような美しさが彼女にはある。
清春様の前だから、あえて口にすることは無かったけれど。
私の目は、時折、邪なものを写す。
子どもの時分は、この目のせいで色んな面倒事を引き起こした。分別がついてからはできる限り視ないように関わらないようにとしていたけれど、今回はこの眼ではっきりと視てしまっていた。
艶やかに咲き誇る桜の下に、一人の白い着物姿の女性が佇んでいる。
桜の下の雪原に、人の足跡はない。
あの艶やかに咲き誇る桜の下で佇む女は、人ならざるもの。
「……折角、清春様が用意してくれた美しい景色ですけれど。私には刺激が強すぎるようです。戻り、ましょうか」
桜の下に佇む魔性とは決して目を合わせないように注意を払いながら、清春様に絞り出した言葉を告げる。清春様は何か言いたげな様子だったけれども、何も言わずただ頷いてくださった。
桜の下には死体が埋まっている。
村の人達の話題は、そんな噂でいっぱいだった。
今晩の宿にと村長さんの家を宛てがわれ、旅人も立ち寄ることのない村だからか、晩御飯は自然と村民の人達が集まってきて宴会の様になった。
食事は想像以上に豪勢なものだった。
こんな寒村での怪異がどうして清春様の耳に届いたのかと不思議に思っていたけれども、もしかしたら元はこの辺りを所領とするお侍様だったのかもしれない。食事を無感情に口に運びながらそんなことを思った。
宴会の話題は、ご維新の話や武陽の変貌ぶりの話題が挙がったけれど、結局、あの桜の話題を口にし始める。
虚ろに聞き流そうとするけれど、やはり耳に入ってきて。幕府の開闢時に植えられた桜だから、維新に反抗する祟りで狂い咲いているとか。維新の内乱時に負傷した兵士が人知れずこの村に逃げ込んできて、その血を吸って魔性を得たとか。皆好き勝手なことを言う。
あの桜の下に佇む妖は女なのだから、そんな恨みつらみで咲き乱れている訳ではないのに。
清春様は、村人たちのそんな話にもいちいち相槌を打って熱心に聞いておられる様子だった。時折、私の方を向いて様子を伺ってくれていたけれど、久しぶりに大物の魔性を視てしまった性で、心を落ち着けるのが精一杯だった。味のしない食事を口に運び、話しかけられれば笑顔を作って、賑やかな宴をやり過ごす。
どんなに心象が悪くなったとしても、あの妖を視た後ではそれが精一杯だった。
「気分は少し、落ち着きましたか?」
「ふぇっ、は、はい。大丈夫です」
いつの間にか宴は終わりを迎えていて、馬車の中であれだけ眠りこけていたというのに、また私はうとうととしてしまっていたらしい。
私達の他には誰も居なくなった宴会場はがらんとしていて、微かにお酒の匂いが漂っている。
そっと清春様がお水の入った盃を渡してくれて、そんな心遣いに嬉しさと、自分のみっともなさが際立つ。
「あ、ありがとうございます」
そうお礼だけを何とか口にして、盃に入った水を飲む。緊張でからからに喉が乾いていたみたいで、お水の冷たさが心地よかった。
「……あの、すみません。私なんかの為に色々として頂いたのに……」
「いえ、そんなことは。それに、俺の方こそ配慮がなくすみません」
言って、清春様がほんの会釈の様にだけれど頭を下げてこられた。思わず頭を下げさせてはいけない、なんて思いが働いて私のほうが強く頭を下げていた。
「いえ、本当に私のほうが悪いんです。折角珍しくて美しい光景なのに、妖なんて視てしまって」
「……え、妖?」
「あ……」
じぃっと、目の前に私の目を覗き込む清春様の目がある。
気味悪がられることがないようにと。私はこれだけは隠さなきゃと思っていたことを、1日も隠し通すことが出来なかった。
思えば、こうして清春様とまっすぐに相対するのはこれが2度目の事で、1度目の最初の顔合わせの時よりもずっと近くて。睫毛が長いなとか、瞳の色がほんの少し栗色だとか、そんな現実逃避のような事を考えていて。その切れ長の瞳が真剣に私の目を覗き込むのを、止めることが出来ないでいた。
彼が何を考えているのかなんて思い測れない、ただ覗き込まれるままに瞳を覗き込んでいる。
どんな言葉を次に彼が紡ぐのか、気になって、でも聞きたくもなくて。潤したばかりの喉が、またからからに乾いていく。
「妖が、視えたのですね?」
彼の言葉には、怒気も呆れもなくて。それどころかこちらを案ずるような柔らかさがあった。
それが、痛々しいものを見る同情からではないことを願う。
本当なら言い繕うことだって出来たのだろうけれど、何だかもう破れかぶれの様な気持ちで、下手なごまかしはしないことにした。
彼の優しさを信じた、なんて甘いものではなく。愚図な私が、誤魔化し続けるなんて器用なことは出来なかったんだ、という諦めからのもの。
それでも、この綺麗で優しい顔が、見下すような冷たいものに変わってしまうかもという恐怖はあって、喉はきゅっと嗄れる。
「…………は、はい」
それだけを精一杯に絞り出して。次の言葉は紡ぐことは出来なかった。
仰ぎ見る清春様の表情は真剣なものに変わっていて、口元に手をあてて何か思案されている。私のこんな世迷言に、呆れることも、怒るような事もなく、じぃっと遠くを見つめるように、何かを思い描いている。
「なるほど。合点がいきました。それは、怖い思いをさせてしまいましたね」
返ってきた彼の言葉は本当に柔らかいもので、そっと伸びた左手が私の頭に触れられていた。まるで子どもをあやすような扱い。けれども、嬉しいと強く喜んでしまった。何だか許されたような、認められたような気持ち。ずっと喉の奥につかえていた物が無くなったような思い。
妖を視るとき、両親はいつだっておぞましいものを見るように私に視線を向けていた。
この人は決してそんな視線を向けていない。
「信じていただける、のですか?」
「嘘、でしたか?」
「そんなことはない! ……ですけど」
「なら何も問題がないですね。それに嘘つきは目を見れば分かりますから」
そう言って清春様がにかりと歯を見せて笑ってみせてくれた。ずっと涼しい顔ばかりで、笑ってもどこか表面的に見えた綺麗な顔立ちの人だったけれど、そうして笑うと何だか少年の様なあどけなさも残っていて、初めて清春様の心の柔らかい部分を垣間見たような思いがした。
「実は、あの桜を斬ってしまおうか、という話が持ち上がっているんです。単純に狂い咲いているならともかく、何か魔性を帯びてしまったのであれば、害にならない内にと」
”教えていただけて良かった”そう清春様が続ける。
笑顔を浮かべながらそんな物騒な事を仰るから、冷水をかけられような思いになる。
あんな大物が居る桜の樹を伐ってしまう。そんなことをすればどんな障りが、災があるか分からない。
「斬って、しまわれるのですか?」
「えぇ、村人も難儀しているようですから」
そうしてすくりと立ち上がり、瞳を冷たく細められて、感情のない怖い顔をなさる。
今にもあの桜の怪異の元に行ってしまいそうになる剣呑な雰囲気に思わず息を呑んで、それでもお止めしなくてはと想いが奔る。刀では決して樹は斬れないと理解っているのに、今にも妖菓子のもとに向かってしまいそうだった。
目には見えないものを斬る。
そんな事が当たり前のように出来る。常人を寄せ付けない雰囲気が清春様にはある。
妖が纏う、景色が揺らぎ決して人が踏み入れてはいけない異質感が漂う雰囲気ではなく。幕末に時折見かけた、血の匂いと底の知れない薄暗さを纏う戦人の雰囲気。
ずっと濃く深く。戰場を渡り歩いた人の雰囲気。
ぎゅっと、思わず清春様の裾を私の手は掴んでいた。
「ま、待ってください」
考えるよりも前に体が動いて、言葉が出ていて。訝しげな清春様の表情が目の前にある。どうしてそんな事をしてしまったのかと、今更に頭の中を駆け巡る。
思い至るのはある1つのこと。
ずっと昔、子どもの折。神隠しに遭った事がある。何とか還って来ることが適ったけれど、家族中を巻き込んだ大騒動があった。妖が視えても関わらない事に決めた1つの事件があった。
あの事件で得た教訓は、ああいうものに人の理は通じないということ。
清春様がいかに優れた武人で、どんなものでも斬ってしまう刀の達人だとしても。あれが黙って受け入れるとは思えない。
そんな記憶と思いとが働いて、むざむざこの方を危険な場所に往くのを見過ごす訳にはいかないと思ってしまったのだ。
けれど愚図な私は、そんな思いを言葉にすることは出来なくて。
清春様の服の裾を掴んだまま、沈黙だけが続いた。
でも何か口にしないといけなくて、そうしてこの口は思ってもいない事を口走ってしまう。
「害が無ければいいのですよね。私が一度お話してみようと思いますから、斬ってしまわれるのは、それからにしては貰えませんか?」
本当に、どうしてそんな事を口走ってしまったのだろうか。
これでは、あの妖の助命を乞いているようにしか見えない。
けれど、私の頭ではそれが一番円満な解決だと思ってしまったのだった。
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