海は小さくさざなんで、水面に写る陽光がきらめている。

　ずっと続く水平線の遥か彼方、この大海原の果ては異国へと繋がっている。

　

　維新が成ってもう5年。私は黒船を見るのは初めてのことだった。

　その信じがたい光景に、ぼうっと心を奪われている。お城のような巨大な船が存在することも、そこから想像もしない品物や人々が現れることにも。

　多くの人が新しい文化に魅入られ羨望して、新しい時代の到来した理由が分かる気がした。

　新浜の港は、”海外との玄関口”と称されるだけあって、聞き慣れない言葉が日常の中に飛び交い、潮風に混じって馴染みのない食べ物の匂いが香る。船乗りや商家の方たちに混じって、髪や肌の色、衣裳もこの国の人とは違う異国の人々が多く行き交う。

　激しく交わる異文化の中に、この場所から海外に向かおうとする日の本の人々の姿も見える。

　

　波止場には、黒船に乗り込もうとする賑やかな声が響いていた。

　洋服を着た商家の方から、筋骨たくましい出稼ぎに向かうと思われる男の人の姿、女性の姿も幼子の姿まである。

　彼等のはしゃいだ声と姿に、少し目が細まる。

　私も、あの行列に並んだなら。

　彼等の様子に、そんな適わないことを思い浮かべてしまった。

　

　先日、１６になった私にも縁談の話が持ち上がった。

　幾ら文明開花でご維新で、女学校が出来るような時代になったとしても。親が決めた縁談に逆らうことは出来ない。

　縁談の話を聞かされた時も、”あぁそうか”と感想が溢れただけだった。

　潮風がざぁっと私の傍を通り過ぎてゆく。

　雪の下にずっと眠っていた枯れ葉がそうして舞い上がりどこかに消えてゆく。

　その様子に、重なった陽の眩しさに、思わず手をかざした。

　

　私の目は邪なものを時々写す。

　妖とか妖精とか、妖怪と、呼ばれるもの達。普通なら決して目にすることのないもの達をこの目は写す。そのお陰で両親には様々な面倒をかけてきた。

　お相手の方に失礼なのかもしれないけれど。だからこの縁談は、体の良い厄介払い、なのだった。

　思う所は様々にあれど、それでも生きていかなくてはいけない。

　黒船に乗り込む喧騒を横目に、私はまた、この大海原に、その水平線の果てに目を向ける。

　

　初顔合わせは旅館か何処かで行うものと勝手に思っていたけれど。新浜の波止場のこの場所が、待ち合わせ場所と聞かされていた。

　淡々と告げる父の言葉に少し奇妙な話で驚きもしたけれど。けれども、それが良かった。

　

　お陰で私は初めて海を眺めることが出来て、初めて黒船を拝むことが出来て。初めて新浜の街も訪れることが適った。

　きっと縁談のお相手は、この新しい世界が始まっていく場所を私にも見せたかったのだと思う。

　まだ会ってもいない人なのに。そんな切望を願っている。

　嫁ぐことになる人は少しでも素敵な人がいいと。

　鮮やかな紅色の晴れ着を纏っても、衣装に着られている様で落ち着かない。

　冬が終わろうとしているのに、風はまだ少し冷たい。でもそれが本当に心地よい。

　心臓が昨日からずっと強く鳴り響いているから。熱に浮かされたこの体にその冷たさは、心を落ち着けてくれているようだった。

　

　そうして約束の時間がやって来た。

　背後にそっと人の気配が訪れる。

「舞香さん、ですか？」

　少し低い、大人びた声にどくりと心臓が鳴る。

　声が裏返ったりしないように、精一杯落ち着けてから返事を返す。

「はい。貴方が清春様、ですか？」

　振り返った先に居た男の人は、背の高い、切れ長の瞳をした男の人だった。髷をしていない髪が艷やかで、洋装がとてもお似合いになる人だった。

　仕立ての良い洋装は商家の若旦那の様な装いだったけれど。腰に挿された刀が武士の末裔であることを告げている。

　ご維新から先、色んな事や物が変わったけれど。武士という人達ほど大きく変わった人達はない。

　そんな時代にお侍の家に嫁ぐだなんて、本当に大丈夫だろうかと一瞬思う。

　でも、一瞬だけ。

　私と目があったときにそっと微笑んでくれた旦那様の笑顔が優しくて、すぐにそんな想いは霧散していた。

　新浜の港で初顔合わせを済ませて、しずしずと清春様の後をついていく。

　この街にご自宅があるのかと思っていたけれど、清春様が向かったのは辻馬車の停留所だった。そこで言われるがままに馬車に乗せられる。

　小さな馬車だから、必然と私と清春様が並んで座る事になる。出会ったばかりだというのに、もうこんなに傍に居る。

　息遣いも体温も伝わりそうな距離に、気恥ずかしく顔が真っ赤になっていた。

　

　そっと横目で覗いてみる清春様の視線は真面目なもので、どこか遠くに意識を向けている。

　それがまた涼やかで、心臓が早鐘を打って壊れてしまいそうで、でも堪らなく相手を意識してしまうのは私だけのようだった。少しの寂しさと不安。

　彼が私よりずっと大人の男性だという現実に、平然としている彼の様子に思うのだった。

　

　馬車は新浜の街を抜けて、田園風景の中を進んでいく。

　一体何処に向かっているのだろうか。あの辻まで。あの峠の先までと先延ばしにしていたけれど。相手の言う事に黙って従いなさい、なんて父の言葉を無視して、耐えられず尋ねてしまっていた。

「…………あの、清春様。何処に、向かうのでしょうか？」

「えっと、家の方から聞いていませんでしたか？　ここに向かっています」

　決して呆れたような声音はなく、少しだけ戸惑いと驚きが混じったような様な声音。懐から一枚の写真を取り出し見せてくれる。

　雪景色。

　家の屋根や路肩に雪が積もった、何の変哲もない農村の光景。けれど１点だけありえないものが映っている。

　村の中央に聳える桜が満開だった。

　冬の景色に満開の桜が写った、不可思議な光景。

「奇怪な光景でしょう。こいつの原因を探りに行きます」

　何でもないことのようにさらりと清春様が言った。普段のお仕事を淡々とこなすかのように何の感情も思いもなく。

　高価な写真を無造作に取り扱う事にもだけれど、初顔合わせの直後に何処かに出かける、なんてことにも驚いてしまう。

　私の知る限り、お見合いの初日に何処かに出かける、そんな作法はなかったように思う。

　

　流石は洋装を着こなすモダンな方と思うべきなのか、破天荒が過ぎる人と思うべきなのか。判断に迷う。

　けれど逢引きに誘われているかのようでもあって、また顔を赤くしている自分もいる。

　

　そっと覗き込んだ彼の顔は涼しい顔で、照れを隠している様子もなく、背伸びして虚勢を張っている様子もない。

　とんでもない人のもとに嫁ぐことになったな、なんて思いながら、そんな強引な様子が嫌いとは思わなかった。