第参話 天正十年 五月・六月 安土饗応と連歌の会と中国出兵

 五月十五日に徳川蔵人佐と穴山玄蕃は安土城に到着した。

 謁見の儀は、安土城々内の遠景山摠見寺にて執り行われた。


 徳川蔵人佐と穴山玄蕃は上様の前に恭しく進み出ると、甲州征伐のお祝いを改めて奏上した。

 上様も、此度の徳川蔵人佐と穴山玄蕃の功績を讃えて、その働きぶりを労うとともに予てから約していた、安土にての饗応を執り行う旨を下知された。


 その晩、私は上様に呼びつけられた。

「日向守よ!いったい何時に成ったら、徳川蔵人佐と穴山玄蕃に毒を盛るのじゃ?」


 私は謹んで申し上げた。

「此度の両名の登城は供回りも少なく、上様に恭順の意を示しております。このような場では……」


 上様は話の途中で席を立ち、言い放った。

「明日の饗応で必ず毒にて誅せよ!始末出来ぬ折には坂本に戻り武力を以って、徳川蔵人佐と穴山玄蕃を逆賊として討伐を命ずる。これは上意と心得よ」


 翌日、上様は終始不機嫌であったが、饗応の膳を見るや日向守を座敷に呼びつけた。

 私が饗応の御座敷に入ると、上様は膳に乗せられた“鯛のあつ物”を指さすと、大声で怒鳴りつけた。

「日向守は昨日出した物を再び出すとは、儂に恥をかかせる気か!こんなものは、腐っておるに違いない」


 鯛は腐りにくく味噌漬けにしたものを煮付けていて、早々腐るものではない。

 そもそも饗応の膳なのだから、再度作り直したものを饗している……が、本旨はそこでは無いのであろう。


 上様は膳ごと蹴とばすと、続けて申し付けた。

「日向守の饗応役を解任致す。直ぐに坂本に戻り、中国攻めの支度を致せ!」


「ははっ」

 私は深々とお辞儀をした上で、徳川蔵人佐と穴山玄蕃には饗応の不始末を深く詫びると、座敷を退出して、急ぎ坂本城に向けて馬を走らせていた。

 

 そして五月廿六日には亀山城に入ると、重臣に喜多村出羽守を加えて軍議を開いた。

「私は、堺にいる逆賊徳川蔵人佐と穴山玄蕃を討伐する。しかし……徳川蔵人佐は喜多村出羽守が案内いたし、伊賀を抜けて浜松まで送り届けよ。穴山玄蕃は武田の残党により、我が手で打ち取る。これを以って上様にはご納得頂く積りじゃ」


 重臣一同は深く頷き、細かい陣立てを協議した。



◆    ◇    ◆



 翌日、私は愛宕神社に到着すると、拝殿して戦勝祈願を奉納した。

 更に上殿すると、御簾越しにお神籤を所望した。


(この奥に居られるのは、止ん事無き御方に相違ない)


 そして差し出されたお神籤を、恭しく開いた。

『凶 ・注すべし』


(こっこれは……。京にて、誅すべし。なのか……)


 額から一気に汗が噴き出してきた。

 謹んでお返しして、新たなお神籤を所望した。


 暫らくすると、改めて差し出されたお神籤を、恭しく開いた。

『凶 ・分れ解れた布を治すべし』


(京から離れ、恐らくは関東にて幕府を開いて治めよ……との思し召しか?)


 こんな事を上様に、奏上出来る訳がない。

 そもそも、荒れ果てた京をここまで復興成されたのは、上様に他ならない。

 公卿どもは、どうして此処までも浅ましいのか。

 そして再々度、ご再考を祈願してお神籤を所望した。


 暫らくすると、改めて差し出されたお神籤を、恭しく開いた。

『末吉 ・三色は望み薄く選ぶべし』


(吉報を待つ。三職推認について、多くを望むな……という事なのか?この条件で上様には承諾頂くばなるまい)


 お神籤を懐に収めて、この後予定されている、愛宕山西之坊威徳院で執り行われる連歌の会に出席した。


 本日は私が発句を賜った。

「ときはいま あめがしたたる さつきかな」


(時は今の 帝が下知する 五月哉)


 間違いなく、近く帝からの宣旨を賜るに相違ない。

 私はその覚悟の程を、発句に込めた。

 しかし……周りの公卿たちは別の読み方をしていた。


(土岐氏が今 天下を下知する 五月哉)


 惟任日向守は此度、ようやく謀反を決意したぞ。

 公卿たちは、内心歓声を挙げている……皆、大きな勘違いをしていた。



◆    ◇    ◆



 六月一日夜、私は亀山城から兵一万三千を以って出陣した。


「それにしても、斎藤内蔵佐は軍議で、最後まで謀反に固執して奏上しておったな……」

 出陣が夜半に延びたのも、軍議の打ち合わせが、中々収まらなかったからである。


(あとは徳川蔵人佐が委細を承知すれば、穴山玄蕃を討つのみで、今回の大坂攻めは完了だ。後は穴山の首級を以って、上様に三職いづれかの推認をお受け頂かねばなるまい)


 全軍が老の山から左へ下り、桂川まで辿り着くと一路京を抜けて堺に軍を進める旨を、全軍に下知した。

 全軍が洛外の鳥羽まで進んだところで、後方の部隊が遅れてるようであった。

 鳥羽は洛中から、南に二里も先へ進んだところである。

 残軍の指揮を息子の明智十五郎に任せると、馬周り衆数百を率いて、後続の様子を確認に向かった。


(斎藤内蔵佐が、二心を持っておらねば良いが)


 私の杞憂は現実の物となっていた。

 斎藤内蔵佐と息子与兵衛が独断で、後続二千の兵に対して、上様の御前で馬揃えの儀を執り行う事になったと申し付けて、本能寺に向かったとの事であった。


(しまった!軍議の場で、あれだけ言い含めておいたものを……抜かったわ)


 急ぎ兵千名を引き連れて、京の都に取って返した。

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