第弐話 天正十年 三月・四月 甲州征伐

 天正九年の甲斐・信濃では、異例の重税が年貢や賦役として課せられた。

 ことの経緯は、新府城の普請に起因していた。

 昨年、急遽取り掛かった築城であったが、民衆には新府城築城の重要性が、浸透しなかった。

 民衆や有力豪族からの反感は、日々刻々と募っていた。


 そうした背景の元で二月一日には、信濃の名族木曾伊予守が謀反を起こした。

 これに激高した武田諏訪四郎は、甲斐に人質として在していた伊予守の母・嫡男・長女の悉くを処刑した。

 そして木曾征伐に、総勢一万五千の軍を新府城から出陣させた。


 その知らせを受けて、二月三日には安土城の織田前右府さきのうふから各諸将に対して、甲州討伐の陣触れが出たのだ。

 長篠の合戦から七年足らず、有力家臣を失った甲斐源氏の凋落振りは想像以上であった。

 直ぐさま、正親町帝からの勅命を求めるために奔走した。


 そして私は『東夷武田討伐の勅命』を得て、安土城の上様に届けさせた。

 これにより武田諏訪四郎はとして、織田軍勢にとっての大義名分を得ることとなった。


「名門甲斐源氏の命運もここまでか」


 戦況は甲府に近づく程に、迅速かつ詳細に上がってきている。


(この戦況下であれば、上様もご満足に違いない)


 三月十一日には岩村城に入城して、さらに詳細な戦況が届けられた。

 武田諏訪四郎父子は、僅かな供回りだけで天目山に落ち延びたと知らせが入った。


 そして翌々三月十三日には岩村城を出立し、十五日には飯田城に入城した。

 そこには、織田三位中将の指示で武田諏訪四郎父子の首級が届けられていた。

 上様は首実検もそこそこに、武田諏訪四郎、諏訪太郎、武田典厩、仁科五郎薩摩守の首級を京都に送り、獄門に掛けるように指示した。


 そして、三月十九日に上諏訪の法華寺に達すると、ようやく本陣を整えた。


 私は陣を転々とする度に、上様の在所を整えて回っていたので、さすがに法華寺で進軍を留めるに至り、心からホッとしていた。

 織田三位中将も上諏訪へ向けて、凱旋に向かっているとの知らせが入ったからだ。

 信濃・甲斐に散らばっていた諸将や、安土城を後発した後詰めの諸将も続々と、上諏訪に集結していた。


 私は織田前右府さきのうふ様に対して、恭しく戦勝のお祝いの言葉を奏上した。

「此度の朝敵成敗の儀、目出たき事と存じます。上様に於かれましては天下布武の大願も目前にして、日向守も骨折りの甲斐が有ったと言うものでございます」


 上様の御前で、平伏して深々と頭を下げた。


 すると上様の顔色が見る見る内に変わったかと思うと、いきなり立ち上がり日向守の頭を何度も蹴りつけたのだ。


「日向守の働きが、何の役に立ったというのだ!」


 私は普段は付け髪を付けていたが、今は遥か彼方に蹴り飛ばされている。

 諸将の前で恥をかかされた。

 私の顔は、恥ずかしさに紅潮している。

 そうした中でも、私は冷静に考えなければならなかった。


(ひょっとして、武田諏訪四郎との密約が漏れたのではないか?)


 そこに思いが至ると、ジッと制裁に耐え忍ぶしかなかった。



◆    ◇    ◆



 三月廿九日に、織田前右府さきのうふ様が論功行賞により知行割りを行うと、甲斐國・信濃國の“国掟十一か条”を定めて、各郡に発布した。

 この事により、甲信両国の領有権並びに行政権を天下に示したこととなる。


 一通りの仕置を済ませると、上諏訪法華寺に織田三位中将さんみちゅうじょうを残して、後の行政の一切を任せた。


 四月二日には法華寺を発ち、翌日には灰燼に帰した新府城跡を一瞥しただけで素通りして、その日の内に甲斐の中心である躑躅ヶ崎館に到着した。

 躑躅ヶ崎館は想像以上に荒れ果てており、事前に三位中将さんみちゅうじょうが普請を命じていた仮屋敷を在所とした。


 そこで恵林寺で、六角義治の嫡男義定が“佐々木次郎”と名を変えて、潜伏していたことが発覚した。

 六角家は上様が上洛の折に、真っ先に反織田の旗幟を鮮明にした因縁の敵である。

 また鞆公方が離反した折に、反織田包囲網を策謀したのも六角義治と伝え聞く。

 そのため即刻、“佐々木次郎”こと六角義定の引き渡しを命じたが、恵林寺はそれを拒否した。

 このことが上様の逆鱗に触れ、恵林寺は焼き討ちとなった。


 この時の住職が快川紹喜であった。


 快川紹喜は私にとっても因縁浅からぬ間で在った。

 元々が美濃土岐氏の末裔であったからだ。


 甲斐國の信玄公に招かれ、対美濃國との外交僧としても活躍しており、武田諏訪四郎の師でもあったのだろう。

 また前年の天正九年には、正親町帝より『大通智勝国師』という国師号を賜っている。

 正に朝廷と甲斐源氏、そして私とを結びつける因縁の人物であった。


 燃え上がる寺院の山門には、快川紹喜のほか高名な僧侶たちが一固まりとなっていた。

 快川紹喜は一歩前に進みだして、大声で喝を入れた。


「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」

 高らかに遺偈ゆいげを残した。

 

 そして、天正十年 四月十日。

 織田前右府さきのうふ様は安土帰陣のため、躑躅ヶ崎館仮屋敷を出立した。


 帰途は富士山見物を兼ねた落ち着いた行軍となった。 

 

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