単位は足りる

 図書館で資料を整理する英人の背中に懐っこくも鬱陶しい声がかかった。

「センパ~イ卒論の調子どうっすかぁ?」

 英人は振り返る素振りすら見せず、纏わりつく蠅を追い払う様にシッシッと手を振るが、何処かまんざらでもなさそうにその顔は穏やかだ。

「ぼちぼちだよ、ぼちぼち」

 あれから半年以上。

 今の彼には、こんな何でもない平穏な日常がエメラルドよりも貴重に感じていた。

「本当っスかぁ~。実は漫画でも読んでるだけじゃないんスかぁ~?」

 振り払う手を?い潜り、英人の腕の下から顔を出した初葉が、彼の読んでいた資料を覗き顔をしかめた。

「うわぁっ!本当に真面目に卒論書いてるっ!?」

 肩肘を張るのをやめた英人は、大人しく准教授の進める物をテーマにして資料集めをしていた。

 何だかんだ言って始めてみると予想していたように准教授に利用されている感はなく、むしろ調べれば調べるほどに興味関心が涌いてきた。

 見失っていた何かを知る楽しさ、調べる楽しさを取り戻していた。

「何だったら、お前の卒論のテーマは俺が決めてやろうか?」

 そう言うと英人は集めている内に楽しくなり、脱線してしまった資料の束を初葉の前に差し出した。

 彼女は微妙な顔でそれを受け取るとペラペラと捲る。

「うへぇ。何スかこれ。読むだけで眠れる魔法の紙っスか?」

 初葉はうんざりした顔で英人を見上げた。

「いやいや、ちゃんとよく読んでみろ。一見関係なさそうに見えて、しっかりと関連性が──」

 あれこれと聞かれてもいない事説明する英人に初葉は呆れつつも安心したように優しい笑みを浮かべた。

「センパイ変わりましたね」

 その言葉に英人は一瞬固まり、しかしすぐにいつもの態度に戻ると資料に向き直った。

「そうか?気のせいだろ」

 そう言いながら、彼は資料ではなく資料を持った自分の手を見つめた。

 あの時、何度も何度も醜く潰されたはずの手は、今は傷一つなく目の前で紙束を掴んでいる。

 この手は見た目こそ人のそれだが、中身は化け物の同類であると告げている。

 いや、手だけではなく英人の体は最早人ではない。

「そんな事ないっスよ!前はこう、やる気もないし何しても楽しそうじゃなかったのに、今は何でも楽しそうに一生懸命みたいなっ!」

 初葉は英人がその変化に後ろめたさを感じている事を感じ、足りない語彙と素直に褒めれない羞恥心が邪魔をしつつもそれが良い事だと素直に必死に思いを伝えようとした。

 英人は少し心が軽くなった。

「そうか!そうだとしたらそれは俺が変わったんじゃなくて、お前の見る目が変わったんじゃないか?……なんか拾い食いでもしたろ?」

「そういう所は全然変わってないっスね」

 ふざける英人に初葉はどうしようもない物を見る目で言うと溜息を吐いた。

「そう言うお前は──」

 英人は意地悪そうに初葉の顔を見た。

「なんスか?」

 英人は初葉の顔をまじまじと見た。

 知り合って三年目になるが、実は彼女の顔をしっかりと見るのはこれが初めてである事に英人は今気づいた。

「そんなに見られると流石にハズいっスよ……」

 テレ隠しに頬を掻く初葉の頬は仄かに赤みがかっている。

「──こうしてみると結構可愛い顔してたんだな」

 初葉の顔が紅葉の様に一気に赤くなる。

「っっっっ!?な、な、なに馬鹿なこと言ってんスかっ!!?」

「……すまん。そう思ったからつい」

 英人も自分が言うのは何か違うと気づき素直に謝ったが、逆にそれが初葉に軽口言い難くさせてしまった。

「ううぅっ……」

「いや、本当にすまん」

 褒めた英人が何故か謝る展開。

 本来静かでなくてはならない図書館で騒がしいと思えば、野イチゴのような雰囲気に周囲も無意識に聞き耳を立ててしまっていた。

「変っスよ。センパイ半年くらい前から……春休みしばらく会わないうちになんかあったんスか?困ってるんなら相談してほしいっス」

 勘の鋭さ、相談できない後ろめたさ、あんな真実彼女に教えたくないという思いが、英人の中でぐるぐると回った。

「なんでもねーよ。そんな事より昼飯行こうぜ!昨日バイト代出たらからラーメン奢ってやるよ」

 話題を逸らそうと露骨な誘い、さすがの初葉もこれにはテレよりも苛立ちが勝った。

「自分だってそんなんじゃ誤魔化されないっスよ!てか、バイトしてた事も聞いてないっス!だから最近付き合い悪いんスか!?」

 誤魔化すつもりが藪をつついて蛇を出した。

 自身の迂闊さを悔いながらも勢いに任せ荷をまとめた英人はカバンを手に席を立つ。

「ほら行くぞ」

「そんなんで──」

 逃げるように外へ向かう英人を捕まえようと初葉が英人の手を取る。

 ~~♪~~~♪

 その時、着信音が鳴った。

 これ幸いと英人は携帯端末を取り出し画面を確認した。

 表示画面にを見た英人の笑みが苦虫を噛み潰したような顔に変わった。

「悪い。今からバイトだ」

 突然の事態に初葉は驚きの声を上げる。

「ラーメンは!?」

 初葉は遊んでいる途中に出勤準備を始めた飼い主を見る犬のような瞳で英人を見上げる。

「ぐ、悪いがまた今度だ」

 しかし、初葉は納得できないと手を放さず、数秒英人と睨めっこをしてこう言った。

「じゃあ、その代わり自分にもそのバイト紹介してほしいっス。そしたら許してあげるっス」

 英人は振り返り、複雑な表情で口を開いた。

「ウチだけは止めとけ」



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暗黒御伽草子 ~不死者の島~ 名久井悟朗 @gorounakuoi00

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