神威

 英人は明日香の手を握り、常闇の支配する深淵なる洞窟を恐怖のまま一心不乱に駆け抜けた。

 幾度足を取られたか、幾度地面を舐めたか、幾度岩壁にぶつかったか、幾度血を流したか。

 悍ましい音、悍ましい姿、悍ましい存在。

 幾多の狂気が彼を取り巻き、どれほどの時間走ったのか。

 どれほどの距離を走ったのかすらわからない。

 それでも英人は彼女の手を掴んだまま走り続け、やっと心が戻り始めた時──

「まさか本当に無事だったとは……おかえり。きっと生きていてくれると信じていたよ」

 天の采配か、神の意志か、何かの因縁か、再び地上に這い出た彼等を目のくらむ眩しい光と共に螢の白々しい讃辞が出迎えた。

「こんなに盛大なお出迎えなんて恐縮ですね」

 英人よりも早く日の光になれた明日香が、周囲を見渡し顔をしかめた。

 それもそうだ。

 彼女等のいる洞窟の出口を囲むようにいくつもの足を持つ昆虫を模した独特な姿のドローンが何体も周囲を這いまわり、機体に装着した銃口を二人に向けている。

 明日香は洞窟の方をチラリと振り返るが、すでにそちらにも壁を伝って数体のドローンが待ち構えている。

「なになに、年長者に敬意を払うのは当然の事だろ?」

 螢は心にもない事を言いながら、何も塗っていない白パンを齧る。

「どうして俺達がここから出てくるとわかっていたんだ?」

 目も光に慣れどれほどかぶりに他人の姿を見て安心し、僅かに正気を取り戻した英人が訪ねた。

「なに簡単な事だよ。特殊なソナーで地下を探索して、何処か(・・・)に繋がっていると思わしきルート全てに網を張っただけさ」

 螢はパンの最後の一片を上に放って口でキャッチする。

「どうだい?大人しく従ってくれれば悪いようにはしないよ?」

 そう言う彼女の背後には、百合佳と翁、そして銃器を構えた様々な服装の人達。

 皆、年齢も性別も違うが、その動き、その滲み出る空気は百戦錬磨のそれである。

「巫山戯るなっっ!!!!」

 明日香は激高した。

「お前達はそう言って、また私からこの人を奪うのかっっ!!」

 彼女は英人を庇う様に前に出ると狂気の色に目を染め憤怒の表情で螢を睨む。

「まあ落ち着きなよ?僕等も昔とは違う。捨て駒にするんじゃなくて、僕等の同僚になって欲しいってだけさ」

 今にも襲い掛からんとする明日香に螢の同僚が銃を向けようとするが彼女はそれを手で制した。

「もし、同僚になってくれるのなら、組織がこの島の支援をする。悪くない話だろ?」

 螢がチラリと翁に視線を送ると、彼はやれやれと半分諦めた表情で明日香に語り掛けた。

「言っても無駄だとは思うが、島の為に協力してはくれ──」

「巫山戯るなと言ったはずです!!何が島の為ですか!そう言ってあの人がどうなったか忘れたわけではないでしょう!!!」

 髪を振り乱し般若の形相で激高する明日香に翁は顔を歪めた。

「やはりまだ許してないか」

「当たり前です!!あの人は私の全て!優しく、流されやすく、島の為に大和に殺された!!それを再び繰り返すなんて私に出来るはずがないっっ!!!」

 叫んだ明日香は、大切な宝物を確認するように英人に目を向けた。

 英人の目は彼女を見つめていた。

 無理はするなと、俺がついてると励ますようなその目を彼女はあの人に似ていると思った。

 明日香が視線を落とすと、彼女が繋いだ英人の手が目に入った。

 その手は、乾き固まった黒い血に塗れている。

 それでも英人は決して離すまいと彼女の手を包み込むように握っていた。

 その手に幼きあの人が、初めて自分の手を握ってくれたのを思い出した。

 明日香は震えるように声を出した。

「英人さ──」

「明日香さん。大丈夫、俺が何とかするから──」

 英人の声も震えていた。

 しかし、それはかつて幾度も明日香を励ましてくれたあの人と同じだった。

 そう明日香には思えた。

 彼女にはあの人と英人が重なって見えた。

「──さん」

 明日香は英人を見つめ愛しいあの人の名を呼んだ。

「……誰?」

 とっさの事に英人にはそれが誰かわからなかった。

 しかし、明日香には英人とあの人が完全に重なって見えていた。

 その愛に溺れた目はあの洞窟よりも黒く、宇宙よりも深く、愛と狂気に染まり、涙のように溢れ出した。

「ヒィッッ!!?」

 その愛は濁流のように明日香の目より湧き出すとタールのように粘つき、煮え立つようにゴポゴポと音を立て酷い異臭を放った。

 明日香らの体はすぐに悍ましいタールに飲まれ、彼女の腕を伝ってそのどす黒い魔の手は英人に迫った。

「ってぇーーーっ!!」

 パパパパパパパッッ!!

 螢の指示と同時に無数の銃声が鳴り響き、ライフル弾が英人を掴む明日香の腕を吹き飛ばし、更にタールと化した彼女の体に穴を開ける。

 パパパパパパパッッ!!

 パパパパパパパパパパッッ!!

 ヒュンッ

 パパパパパッッ!!

 連続する射撃の中、投げ縄が明日香と切り離され倒れた英人にかかると、地面を引き釣り彼を螢の元まで寄せる。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛っあぅあ゛ーーーーーーーーーー!!!!」

 タールの塊に浮いた明日香の顔が悲痛な叫び声を上げ、ただ流れ出るだけだったタールが、意思を持ち触手状になって英人を追った。

「ちっ!焼き払えっ!」

 ゴッッーーーー!!

 螢の指示に今度はドローンが装着した銃口、火炎放射器から文字通り火を吐く。

 真っ赤な炎はタールを焼きその侵攻を抑える。

 タールは燃えるそばからドンドンとタールを吐き出し、燃えども燃えども英人に触手を伸ばす。

「GxaAAAAAAGROWWWwww!!!!!!」

 タールの塊に浮かんだ明日香の顔が、怨嗟とも憤怒ともつかない人外の咆哮を上げ、それに合わせて全身のタールが戦慄き冒涜的な咆哮を輪唱する。

「「「「GruuuXucrowwRrrAGROWW!!!」」」」

 ドローンの吐き出す爆炎と悍ましきタールの咆哮、燃える悪臭に英人は地べたを後ろへと這い、螢の足へとぶつかる。

「ケ、ケイさん」

「ん?」

 渋い顔でドローンとタールの膠着を監視してた螢は、顔を動かさずサングラスの隙間から英人を見た。

「お、落ち着いて話せばわかってくれるはずだから」

 英人も無理だとわかっていながらの見当違いな提案に螢は鼻で笑い、視線をドローンとタールに戻した。

 このわずかの間に拮抗していた争いは、徐々にドローン優位になりつつある。

 タールの吹き出す勢いは変わっていないが、島中に配置されていたドローンがこの地に集まりだし、火力が増えているのだ。

 螢等の勝利が見えてきている。

 人間同士の戦いであれば、ここで降伏勧告を出す策もある。

 しかし──

「アレと対話が可能だと思うかい?」

「「「GrowwwWrrrrrさんwwRrrAGwwxさ──」」」

 咆哮とも叫びとも鳴き声ともつかない音、それを幾重にも奏でるのはボコボコとタールに浮かぶ溶けかけた無数の貌。

 辛うじて人に似てはいるが、どれが明日香の貌かすら英人には判別がつかなかった。

 喚き、叫び、鳴り響くそれは、微かに知らない名前を叫び英人に触手を伸ばしては途中で燃え尽きる。

 それから知性は感じられず、既に何かを求めるだけの生物になり果てているように英人には見えた。

「本当にアレを説得できるなら考えてあげてもいいよ?」

 無理だろうけどと言いたげに螢は言った。

 英人は悩み、駄目だと思いながらも立ち上がり一歩前に出た。

「あ、明日香さん──」

 その時、ゴポリとひと際大きな音を立てタールの泡が弾けると中より明日香の体が浮かび上がった。

「明日香さんっ!?」

 誰もが驚き、逡巡した瞬間。

 弾けた飛んだタールが触手となって英人へと迫った。

「──なっ!?」

 鋭い円錐形の先端をした触手が英人へ触れる寸前、横殴りの衝撃が英人を襲った。

「させるかぁぁあっ!!」

 英人を突き飛ばした百合佳の腹部に鋭い触手が突き刺さった。

「ゆ、百合佳さん……っっ!?」

 驚く英人。

 百合佳の服を真っ赤に染め上げ滴る血液。

 しかし、彼女はその両足でしっかりと大地を踏みしめ、明日香の方を振り向くとそのまま腕を組んで仁王立ちをし、英人との間に立ち塞がった。

「「「おまえおまえおまえおまえっ!!才もない出来損ないがどうして私とその人との間を裂くぅCrrrwwっ!!!」」」

 タールの化け物の体表に浮き出たいくつもの明日香だった顔が恩讐の怒声を重ねて叫んだ。

 百合佳の腹から抜けた触手が、今度は殺意を持って百合佳に襲い掛かるが、それはドローンによって焼き払われる。

 彼女は触手が焼かれる悪臭、焼く炎の熱、腹よりこぼれる大量の血液にもどうぜず、額に脂汗を浮かべたまま明日香を挑戦的な目で見つめ勢いよく口を開いた。

「女の意地だよ!この色ボケババァっっ!!」

 その迫力に狂気に支配された明日香すら一瞬たじろぎ、しかし、すぐにドローンに焼かれながらも鋭い触手を掲げ百合佳に向けた。

「「「……っ、貴様っっ──っっ!!?」」」

 言いかけた瞬間、世界が制止した。

 鼓動したのだ。

 地面が、大地が、島が、海が、脈打つように一度鼓動したのだ。

 そして、それを感じた一帯の人、動物、怪異、全ての意志ある存在は圧倒的な存在に恐怖した。

 それが、次元の違う上位者の零れた意識の欠片だった。

「逃gっ──」

 螢が撤退の意思を叫び振り返ろうとした瞬間、深い深い洞窟の奥よりそれは溢れ出た。

 悍ましき悪臭を放つタールの如き触手の群れ。

 いや、触手の濁流が百合佳の目前に滝の如く降り注ぎ、明日香を文字通り呑み込んだ。

 そして、それは一度咀嚼するように脈動すると現れた時と同じように、潮の引くように、太陽の沈むように、風よりも早く、蝸牛の様にゆっくりと洞窟の奥に消えた。

 一瞬か。

 数分か。

 どれほどの時間がったただろうか。

「──撤退する」

 螢の指示に反対する者、意見する者は誰一人といなかった。

 すぐに無数のヘリ、垂直離陸機が蜘蛛の子を散らすように一斉に飛び立った。

 彼等が去った数時間後、破壊されチロチロと炎の燻ぶる島はゆっくりと沈んでいった。


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