幻想と耳鳴り

 肌寒い秋風に吹かれながら、入り組んだ住宅街を歩いている。雑多に干された洗濯物や置き離されたボールが、平凡な俗っぽさを残して、写実絵画のように沈黙している。遠くの方に目を遣っても、続く量産型の家屋と一面の曇天が広がるのみ。この街にはもう、誰もいない。

 人が消えた、という説明は些か不適切である。むしろ、のだ。生活感の残滓も、文明的な景色もすべて、ただの無機物の構造群でしかないのだから、そこに歴史など存在しない。

 そんな町の残骸を訪れたのは他でもない、完全な静寂を手に入れるためだった。喧騒もしがらみも届かないような、世界で一番遠い場所。特別な幸せなんて要らない。僕はただ、静寂の音色を知りたかったのだ。

 細道を抜けると、辿り着いたのは摩天楼の迷路だ。ネオンライトもイルミネーションも、当時の輝きを保ったまま、しかしどこか寂しそうに市街を彩っている。色とりどりに照らされる路地裏も、星の輝きを押し付けられた街路樹も、もはやその意味を失っていた。

 横断歩道の吊り橋を渡り、アーケードのトンネルを抜けて、僕は一番高いビルに辿り着いた。ガラス張りから覗くショーウィンドウは滑稽な布切れを展示し、入口近くのカフェにはコーヒーの湯気が漂っている。それらをじっと眺めていると、人間の仕草や話し声が連想された。もっと遠くへ行かないと。

 エスカレーターに乗り込んで、並ぶ生活雑貨店を眺めながら上に向かった。時折そのどこかに立ち寄っては、奇妙なファッションを手に取ってみたが、どれも僕の目には奇抜にしか映らず、遂に探索も辞めてしまった。

 ようやくルーフテラスに着いた頃には、せっかく晴れた空も臙脂色えんじいろに滲んでいた。遠くに揺れる木々の囁きも、斜陽を横切る鴉の群れの会話も、ここまで届くことはない。きっとここが、世界で一番静かな場所なのだ。

 僕は芝生に寝転んで、瞼を閉じて、地球の重力に身を委ねた。ここには誰もいない、誰も見えない、誰も聞こえない。には、生物の痕跡は何一つ残っていない。だからきっとこの場所だけは、どんな音も存在しない。そう思っていたのに。

 僕の瞼の向こうに広がる暗晦に、両耳を塞いでも消えない耳鳴りが残響している。どんなに叫んでもそれを掻き消すことは叶わず、どんなに強く両目を瞑っても暗闇の色はへばりついたまま。耳鳴りは激しさを増して、遂に僕の幻想を拭い去ってしまった。

 この町には人がいる。人が消えた、という説明は些か不適切である。ただ、という幻想を抱いていたのだ。人々の雑踏が、会話が、生活音が、僕の耳鳴りも暗闇も、すべて奪い去った。

 僕の杞憂は、葛藤は、誰の遺物でもない。僕の世界に最初から存在していた、僕の世界そのもの、僕自身だった。

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