第30話 孤月に乞う
願っても、祈っても、何一つ世界は変わらない。
だから、やめたのだ、いもしない神に縋ることは。
まあるい月が静まり返った
風も音も死に絶えた夜。
煌々と、皓々と、銀とも金とも言いがたい色彩で月は照る。
月影の中を、
人は皆、楓を無能のバケモノだと呼ぶ。
霊力がないことは悪いことなのだ。霊能力がないのに、夜徒を凌駕する戦闘能力と回復能力を持つことは悪いことなのだ。こんなバケモノは存在してはいけないのだ、と。
消えてしまいたかった。どうせなら、綺麗な月の下で。
やがて楓は刀を抜いた。刃こぼれひとつない刀身に、涙の他には何の表情もない楓の顔が映っていた。無造作に刃を己の心臓に向ける。そして、躊躇いもなく一息に刺し貫いた。
血が勢いよく噴き出し、水が赤く染まった。水鏡に閉じ込められた望月が紅く色を変えた。
自らの手で心臓を刺した痛みに呻く。心臓からどくどくと血はこぼれ続けているのに、楓はまだ息をしていて──。
震えながら固くつむっていた目を開ければ、満月と同じ色の瞳があった。
痛くて痛くてたまらないのに、息は止まらない。心臓は再生しようと蠢くばかり。ずるりと、血みどろの刀を引き抜いた。身体がすかすかする。穿たれた心臓はゆっくりと治っていく。
ああ、死ぬことさえできないのか、この身体は。
……ささやかな願いすら、叶えられない。
だから、きっと。
この世界に、神はいない。
***
誰かが名前を呼ぶ声を聞いたような気がした。
──バケモノの身体は、こんな傷でさえ死ねないのだから。
身体の再生が始まる。死が楓を絡め取るよりも先に治癒が完了する。ほどけてしまった長い黒髪が根元から色を変えていく。漆黒から、目が醒めるくらいの銀色へ。耳は銀狼のそれへと
そして、楓は目を開いた。
「……そっか、今夜は……満月か」
月が満ちるときは陰の気が強くなる。加えて、致命の傷という条件を以て楓は姿を変えるのだ。そうでなくとも満月の日は、いつもよりも傷の治りも早く力も強くなる。楓がヒトから最も遠ざかる日。
にぃ、と唇は楓の意志とは関係なく深い笑みを形作る。鮮血の雨が降っていた。鉄錆の匂いが立ち込め、楓の利きすぎる鼻はおかしくなっていた。理性はとっくに奪われて、今の楓は獣と何一つ変わらない。美しい銀色はとうに血に汚れきっていた。
「あはははははははっ!」
縦横無尽に駆けて、楓は残る
ああ、でもあとひとつ残っている。
血に狂った獣はかくんと首を回し、そして地面に膝をついた少年に満月色の瞳を向けた。嗤えば尖った歯が覗く。頬に跳んだ血をぺろりと舐めて楓はただ、鋭利な爪を振るった。
ぎぃん……。金属音とともに蒼い火花が散った。
「……!」
霊力を纏った刀に爪を弾かれ、楓の身体はその衝撃で跳ね返される。構うものか、と楓は地面を蹴って獲物との距離を詰めた。爪をもう一度伸ばす。蒼い火花が散る。少年は歯を食いしばって、楓の攻撃を防ぐ。けれど、次で終わりだ。
一際高い金属の音で、少年の手から刃が離れる。くるくると放物線を描いて刀が岩の間に突き刺さった。
「ぐ、ぁ……」
楓に首を掴まれて地面に引き倒された獲物が呻く。青みがかった黒い双眸が苦しみに歪む。あと少し、ほんの少し楓が力を指先に加えれば、鋭利な爪が少年の首に沈み込むだろう。だというのに、少年は一片の抵抗もしなかった。代わりにその唇がゆっくりと動く。
「……み、や」
掠れた声がした。楓はようやく理性を取り戻して、己のしようとしたことを自覚する。楓が命を奪おうとした獲物は、光希の顔をしていた。
「ぼ、くは……、ッ!」
今、自分は何をしようとした?
「く……ぁ……っ」
顔を両手で覆う。喘鳴が聞こえる。それが自分のものであると気がつくのに随分と時間がかかった。
「……あ、ま、み、や」
一音一音確かめるように名前を呼ばれ、楓は
「見るなっ!」
唸る。血に汚れた楓は醜い。理性を手放し殺戮に笑みすら浮かべた。光希さえ獲物と見た。殺そうとしたのだ。怖がられて当たり前なのだ。だって、この手には光希の血すらついている。
楓の爪の形の傷を首に負った光希は、けれど、楓に手を伸ばした。そっと、顔を隠す楓の手を光希は下ろしてしまう。楓の方がむしろマシなくらい、楓に組み敷かれたままの光希は傷だらけだった。
「見ないで……。ボクは、醜い。バケモノなんだって、おまえも、おまえだって、そう、思うだろ? ──相川」
そうだ、と肯定してほしかった。頷いてくれさえすれば、諦められる。
「あまみや」
泣いているような声で光希は楓を呼んだ。それから、くしゃっと笑う。いつもしかめ面や仏頂面ばかりしていた光希のあまりにも少年じみた笑顔に、楓は動けなくなっていた。
「おまえが生きてて、よかった」
「……だめ、だ。それじゃ、だめ」
光希を殺そうとした楓が息をしていることは間違っている。
「ころして。お願いだから、ボクを──」
光希がぐいと楓を引き寄せた。ボロボロで目を開けているのもやっとのくせに、どこからそんな力が出てくるのか不思議なくらい強い力だった。そのまま楓は躊躇いがちにそっと、抱き締められた。大きく目を見開く。ズタボロなくせに光希の身体は温かかった。そのせいなのだ、楓の目から熱いものがこぼれたのはきっと。
「殺さない。そして、絶対、誰にも殺させない」
「でも──! ボクはバケモノで──」
「……だから、おまえは馬鹿なんだ」
溜息に似た吐息と一緒に光希は言った。
「ばっ、なっ!?」
「おまえがヒトであろうがなかろうが、おれにはどうでもいい。それに、おまえは醜くなんてない。おまえ、鏡でその姿見たことないだろ。すごくきれいだぞ?」
「はっ、はあ!? な、な、何言ってんだよ!? お、おまえ、バカなのか!?」
楓は真っ赤になった。だというのに、光希はきょとんとして、なぜ罵られたのか分からないという顔をしている。自覚なしだなんて、タチが悪すぎる。
「帰るぞ」
楓の頭を撫でて、なんでもないことのように光希はさらりと口にした。楓の手を引いて、覚束ない動きで立ち上がる。
「っ、なんで、こんなところまで来たんだよ? おまえ、だって、ボクのこと嫌いなんじゃないのか? 護衛なんて、やらないって」
光希が頭をかいてそっぽを向く。
「……いいだろ、べつに。それに、おれはおまえのこと嫌いじゃないし」
「へ?」
それは知らなかった。けれど、あとひとつ、楓には光希に訊かなければならないことがあって。
「……なあ、相川」
ん、と光希は首を傾ける。
「ボクは、生きていても、いいの、かな……?」
ヒトでなくても、バケモノであっても、霊力を持たない無能でも、
「当たり前だろ、ばか」
即答だった。照れ隠しのように添えられた馬鹿という言葉の響きが優しすぎて、噛みつく気にもならなかった。
「そっか」
へへへっ、と楓はふにゃっとした笑みを浮かべる。あちこち怪我をしてふらふらになりながらここまでやってきた光希が言うのなら、そうかもしれない、なんて。
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