第23話 ギオン草のオイル
アロイが私の家に来たのは、夜になってからだった。私は昼に採取してもらったギオン草の処理をしていた。家の中は清涼感のある香りで満ちている。大きな蒸留器でギオン草を蒸して、気化したエキスを冷却し、オイルとして保存するのだ。
「いい匂いだね。日本でいうミントの香りに似てるけど、僕が覚えているよりワイルドな香りがする。――セロは? もう寝てる?」
「客間で寝てるよ。本当に、アロイが予告した時間通りだった」
ぽたぽたと落ちるオイルを眺めながら私が答えると、アロイはそのまま客間に様子を見に行った。
私はお茶を淹れるためにお湯を沸かし始めた。
「リナがベッドに潜り込んで添い寝していたけど……」
戻ってきたアロイが言う。
「ああ、リナ曰く、自分の体を守ってもらったからお礼に抱き枕になってあげる、ってさ」
「そのベッドの下、床の上にベルナールの体が丸まっていたけど?」
「モモはリナについていったんだ。最初は同じようにベッドに入ろうとしたんだけど、男と添い寝する趣味はないってセロに怒られて、床に落ち着いたんだよ」
少し前の光景を思い出して、笑いながら私が報告すると、アロイも笑った。
お茶を淹れてアロイに差し出す。アロイは律儀に礼を言って受け取ると、ひと口飲んで、大きなため息をついた。
「はぁ……今日は疲れた」
それには同意見だった。昨日の夜から私たち3人は働きづめだった。その上、アロイはついさっきまで事故現場で人命救助もしていたのだ。
「事故現場はどんな感じだったの?」
聞いてみると、アロイは、うーんと唸るように言って、もうひと口お茶を飲んだ。
「まぁ、結果的に死者は出なかったよ。それはよかった。ただ、なんていうか……そうだね、昼間の件も含めてだけど、僕は自分の腕の未熟さを今、実感しているんだ」
ことり、とカップをテーブルに置いて、アロイは天井を見上げる。
「未熟? それはないだろう。フェデリカだって驚いていたよ」
アロイは小さく笑って、客間のほうへちらりと視線を向けた。次には、手元のカップに視線を落とす。
「さっきセロの様子を見に行ったけど、左腕は少し腫れていたし、気配に敏感なあいつが、僕が触っても反応さえしないほど深く眠ってた」
「あれだけの毒と怪我を、あの短時間であそこまで回復させられる術師はなかなかいないよ。医術院でもそうだろうし、冒険者の中でもそうだ」
半ばあきれながら私はそう言った。あれで未熟だと言うのなら、アロイは自己評価が低すぎる。
アロイが小さく笑う。
「それはその通りだと思うよ、自分でもね。でも、多分まだできる。たとえば、昼間なら、最初に毒への守りを入れたけれど、あれをもっと厚くできればもっとよかった。途中で一度、浄化の魔法をはさむタイミングがあったけど、あれももっと集中できれば高い効果が得られた。その2つがもっと上手くできていれば、今夜、あいつが熱を出すことはなかった」
自己評価が低い、と思ったがそれは間違いだったようだ。アロイは目標が高すぎる。
ギオン草の香りとお茶の香りが漂う中、アロイが続ける。
「さっきの事故現場もさ、僕たちが到着した時点で重軽傷合わせて8人いて……そんな顔しないでよ、ベル。さっきも言ったけど、誰も亡くなってないし、深刻な後遺症を残しそうな人もいない。術師側だって、誰も失敗していないよ」
私はどんな顔をしていたのか。ぺたぺたと自分の頬を触ってみるが、そもそも今の顔は、正確には自分の顔じゃないのでよくわからない。ただ、さっき、アロイは自分が未熟だと言った。彼なりの後悔が、その事故現場にもあるんじゃないかと思っただけだ。
そう聞いてみると、アロイはうーん、と曖昧に頷いた。
「ベル、回復術の基本を知ってる?」
「確か……自然治癒力の増加と異物の排除?」
首を傾げながらその問いに答えると、アロイはうん、と頷いた。
「そうだね。要は人体をあるべき姿に戻すわけだ。傷を塞ぐのも骨を繋ぐのも、基本は人間がもともと持っている自然治癒力を、馬鹿みたいに加速するのが回復魔法だ。いくつかの病気もこれで対応できる。症状の原因になっているものが体に悪さをする異物なら、それを排除してから回復魔法をかければ同じように対応できる。だけど、ベルの答えだと一番大事なのが抜けてる。それらを正確に見つけられるように、人体を精査する魔法が回復術には一番大切だ」
アロイの説明に、ふんふんと頷く。
「じゃあ、術師の腕の良し悪しっていうのは、その精査する魔法の腕っていうこと?」
お互いのカップにお茶のお代わりを注ぎながら聞いてみる。
「いや、それだけじゃないよ。たとえば自然治癒力の増加は、患者の体に負担をかけるものだから、その影響をいかに最低限にするかとかね。いろいろあるけど……まぁ、最初に全体を精査するのはみんな同じだね。これは詠唱も何もない、ただ手をかざすだけの魔法なんだけどさ。……見つけちゃったんだよね、よくない病気を」
アロイは普段からあまり表情を崩さないが、この時も特に表情は変えずに言った。
「それは、さっきの怪我人の中に?」
「うん。だから、手当てを終えて医術院に送り出す時に、回復術師にしかわからない暗号みたいなもので所見を書いて、必ずその紙を見せるように言っておいたけど」
あまりにも表情が変わらないので、私のほうが少しどきりとする。
「で、でも治せるんだろう? さっき言ってた魔法を組み合わせたり……そうだ、それに最近は外科手術も、魔法と組み合わせることで成功率がずいぶん上がったって聞いたよ。医療系の稀人が増えたんだろう?」
私の言葉には答えずに、アロイは少し口調を切り替えた。気軽な世間話をするかのように話し始める。
「そういえば、ベルには話したっけ? 僕は日本にいた頃、最後の数ヶ月間はベッドの上だったんだ。結局、病気で死んだんだけどさ。――あちらの世界には魔法なんてなくてね。それでも、発達した医学と薬学は、まるで魔法のように病気や怪我を治していたよ。ただ、検査も治療も手術も、ものによってはかなりの苦痛をともなった。だから僕は、転生して回復魔法があると知った時、それを覚えたいと強く思ったんだ。向こうで生きていた頃の僕は医者ではなかったけれど、転生した体は当時7歳だった。勉強ならいくらでもできると思った」
気軽な口調で言うような内容ではないと思った。
「……実際、アロイは勉強しているだろう? 高等院でもそうだし、医術院に実習にも行ってるじゃないか」
冒険者になったのだって、外傷に対応するための実地訓練だと聞いたことがある。
「そうだね。でも、治せない病気はあるんだ。向こうの世界でも、そしてこちらの世界でも。――僕は、見つけることしかできなかった」
回復魔法だって万能じゃない。魔法が何でも救えるものなら、世界の平均寿命はもっと長い。
「アロイ、それは……」
だから私は慰めようとしたのだ。
アロイだって魔法は万能ではないと知った上で、自分の未熟を嘆いているのだから、そんなことない、君はきちんと努力している、と。
「まぁでも仕方ないね。悔しいけれど、今は仕方がない。この世界での科学と魔法が今よりもっと発展すれば克服できるものは増えてくるし、僕が学ぶことで、将来、その発展の一助になれればと思っているよ」
アロイは自分で納得してしまった。しかも、私のふんわりとした慰めではなく、前向きに、世界全体の発展を見据えた上での納得だ。
「……無力だ」
私のほうが落ち込んでしまった。いや、アロイは未熟だと口走っただけで、落ち込んだ風ではなかったのだが。
「え、どうしたの、ベル」
「私は無力だよ、アロイ……」
昼間から、私の慰めは空振りばかりしている。今、アロイが私の慰めなど必要としていなかったように。昼間、リナを慰めようとしたら反論されたように。
「なんなの、急に。僕がセロなら、変な誘い受けやめろって冷たく言い放ってるところだよ?」
うぐっ。確かに言いそうだ。
「君たちは……稀人は強いよ。私には、セロとアロイ以外にも稀人の友人がいるけれど、例外なく、みんな強くて前向きだ。その上、有能だよ。稀人としての知識もある。稀人の知識は、間違いなくこの世界を大きく動かしている。私は……」
「待った、ベル」
言いかけた私をアロイが止めた。私は……何を言おうとしていたのだろう。うらやましい? ねたましい? それとも、自分は役立たずだと?
「君がその先を言葉にする必要はないんだ、ベル」
アロイが微笑む。優しく、というよりは、どことなく自嘲めいた微笑みだ。
「……どうして?」
「僕たち稀人は、そんなに優秀じゃない。君は……君たちは稀人のことを、異世界の知識を持っている人々として扱うけれど、そして、実際に、ある程度は本当なんだけれど、一部の職人たちを除いて、僕らの知識なんて切れ端なんだ」
それでも実際に、稀人の知識で私たちの生活はぐんぐんと変わっていっている。
そう思っていた私の表情を読み取ったのか、アロイが続ける。
「ベル、知識というのは積み重ねだよ。実際に表面に出てくるものはその一番上にあるもので、それも、そこまで積み重ねたものがないと役に立たないんだ。医療系の稀人が外科手術の新しいやり方を伝えたところで、解剖学の基礎がこの世界にないと、その手術が出来るのはその稀人だけになってしまう。でも、新しいやり方を聞いて、この世界では実際にそれが広まった。最後の一歩を稀人が背中を押しただけで、それまでの積み重ねがこの世界にはあるんだ」
それに……とさらにアロイが続ける。
「それにね、君も言葉だけは聞いたことがあると思うけれど、僕たちの世界にはインターネットというものがあった。目に見えない網で世界中が繋がっていたんだ。僕らはわからないことがあっても、ネットで調べればすぐに正解が出てくる世界で暮らしていた。だから自分の専門分野以外はみんな、表面的なことしか知らないんだよ。さっき例えた外科手術にしたって、僕は知らない知識だ。でも、ネットで検索したら、どういう術式で、どんな患者に適用されるのか、いろんな情報が出てくるはずだ。僕らの世界に魔法はなかったけれど、インターネットがあった。そして今、稀人たちはインターネットのない世界で生きている。ひょっとしたら君が、魔法のない世界で生きるのと同じかもしれない」
想像してごらん?とアロイは言う。
「そんな……何もできないじゃないか」
魔法がなかったら? 魔法がないってことは、魔道具ももちろんないってことだろう。想像もできないし、この世界の発展の大半を否定しなければいけなくなる。
「そうだよ、何もできないんだ。医療や土木、農業、機械工学……それぞれの専門分野を学んでいた稀人たちは優秀だよ。この世界の魔法と組み合わせて何ができるかを考えて、実際にこの世界を発展させている。けれど、稀人全員がそうじゃない。僕もセロも、日本での仕事はこちらで役に立つようなものじゃなかった。だから、君が引け目を感じることなんて何ひとつないんだ」
ぽとり、ぽとりとギオン草のオイルが瓶に溜まっていく音がする。爽やかな芳香が部屋に満ちているけれど、私の心の中は爽やかさとは無縁だった。
「……でも、私は君にもセロにも助けられている」
そう言うと、アロイは今度こそ優しく微笑んだ。
「ならそれは、僕ら個人の資質を褒めてよ。昼間のことなら、セロの反応速度とためらわなかった勇気を。僕の治療技術に関してなら、これまでの研鑽を」
それは、その通りだ。
「でも、稀人はそれだけじゃないと思う。君たちはとても前向きで強い。私のように、何かあればすぐに立ち止まってしまうような人間よりよほど」
自分で言って、少し落ち込む。
私は多分、気持ちの整理ができていないのだ。昼間、リナに言われた言葉が頭を離れない。つもりがなくても死んじゃうでしょ、と……。
「それは、君が昼間、自分で答えを言ったじゃないか」
アロイが笑う。少し面白がるように。
「昼間……?」
「僕らは命の重さを知ってるから。いや、重さとか、そういうかっこいい話じゃないんだ。――僕は何もできなかったんだ。だから、せめて2回目では何かやりたいのさ。何もできないまま、自分の人生が終わるなんて、もういやなんだ。それだけだよ」
そう言ってアロイはお茶を飲み干した。
それだけ、とアロイは言うが、そのたったそれだけのことさえ、自分で実感するのは難しい。自分の死についての実感を持てないことが、私と稀人たちの違いなんだろうか。
何の解決もしていないけれど、愚痴を吐き出したら少しすっきりした。
ふと見ると、ギオン草の色が変わっている。もう抽出も終わりに近い。私は蒸留器の火を消した。
「アロイも疲れたなら泊まってく? 客間はふさがってるけど、毛布の予備はあるよ。ソファでいいなら」
そう聞くと、アロイは首を振った。
「いや、着替えもしたいし、一旦家に戻るよ。また明日、セロの様子を見に来る。……盗み聞きする余裕があるようだから、もう大丈夫そうだけど」
立ち上がってコートを羽織りながら、アロイが天井を指さす。その指の先に視線をやると、そこにはセロの風妖精が浮いていた。
「うげっ、セロ!? いつから聞いてたんだ!」
『おまえの誘い受けから』
風妖精からセロの声がする。
アロイはそれを聞いて、珍しく声を上げて笑いながら出て行った。
なんだよもうっ!!
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