第58話

 バイトが終わり、駅に向かう夜道を歩く。


 今日も私は、潮騒の中でマスターの手を握った。


 歩美あゆみが驚いたように目を見張った。


「……どうしちゃったの、朝陽あさひ


「恋人と手をつなぐのが、そんなに不思議かな?」


 早苗さなえがニンマリと笑ってスマホを構えた。


「ハイ二人とも、笑って笑って~」


 私は早苗さなえに振り向いて、ニコリと微笑んだ。


 カシャリと音がした後、早苗さなえが告げる。


「本当に笑ってる……なにがあったの?」


「んー、なんとなく」


 マスターは黙って私の手を握り返してくれている。


 その顔を覗き見ると、ニコニコと幸せそうな笑顔をしていた。


 早苗さなえが空いているマスターの手を握って「こっちは私がもらった!」と告げた。


 歩美あゆみが不満げに告げる。


「ちょっと、私が余るじゃないの」


 早苗さなえがのほほんと応える。


歩美あゆみには孝弘がいるでしょ」


「なんでそこで孝弘さんがでてくるのよ!」


 賑やかなふたりの会話を聞きながら、潮騒の中を歩いて行く。


 こうしていられるのも、あと三年くらい。


 大学進学するなら、もっと短いかもしれない。


 孝弘さんが言うように、本当にあっという間なんだな。


 私は黙って、宝石のように輝く時間を味わいながら歩いた。



 駅に着き、みんなでマスターに笑顔で告げる。


「それじゃ、また明日ね!」


「うん、気を付けて」


 私たちは手を振りながら、改札を通過した。





****


 晩御飯を食べながら、お母さんに尋ねてみる。


「もしもの話なんだけどさ、私があの喫茶店に就職するの、どう思う?」


 お母さんが私を見つめて告げる。


朝陽あさひ、本気なの?」


「どこかに就職するなら、選択肢の一つなのかなって」


 お母さんが小さく息をついた。


小金井こがねいさんとの関係はどうするの?」


 私はおずおずと応える。


「まだ決めた訳じゃないけど、その場合は結婚するのかなって」


「あのお店、きちんと利益は出してるの?」


「マスターは『黒字経営だよ』って言ってた。

 それに浜崎のお爺さんが、助けてくれるって言ってたし」


 お母さんが小さく息をついた。


「だとしても、大学くらいは出ておきなさいよ?

 飲食業なんて不安定で、いつ潰れるのかわからないんだから」


 やっぱり、普通に考えたらそうなるよね。


 これ以上、何をどう説明したらいいのかわからない。


 私が肩を落としていると、お母さんが優しく告げてくる。


「今度、小金井こがねいさんと浜崎さんの二人と会えるかしら。

 朝陽あさひが本気なら、詳しくお話を聞かせて」


「……わかった。言ってみる」


 私は静かに晩ご飯を食べ終わると、「ごちそうさま」と言って部屋に戻った。





****


 お風呂上りにお水を飲んでいると、お母さんが私に尋ねてくる。


「ねぇ朝陽あさひ。普通に就職しようとは思わないの?」


「働くとかまだよくわからないし、私はあの喫茶店が大好きなんだ。

 せっかく働くなら、好きな所で働けたらいいなって」


小金井こがねいさんはなんて言ってるの?」


「……きちんと大学を出て、普通に就職しなさいって」


 お母さんがため息をついた。


「それでも喫茶店で働きたいの?」


「だって、他の会社に就職したらもう、あの喫茶店で働けなくなっちゃうし」


 お母さんが私の目をしばらく見つめた。


「……わかったわ。

 近いうちに、小金井こがねいさんたちと話し合った方が良さそうね。

 進級して二年生になったら、もう大学進学の準備もしないといけない。

 その頃には自分のキャリアも考え始めた方がいいもの」


「うん……」


 私は「おやすみ、お母さん」と告げて、部屋に戻った。





****


 ベッドに倒れ込み、マスターにメッセージを送信する。



朝陽あさひ:お母さんが話を聞きたいって。


朝陽あさひ:浜崎のお爺さんと一緒に。


辰巳たつみ:わかった。源三にかけあってみる。



 ふぅ、とため息をついて、秀一さんにメッセージを送信してみる。



朝陽あさひ:私の幸せはどこにあるのかな。


秀一:幸せは自分で見つけるものだ。


秀一:他人から与えられた幸せでは、人は満足できん。


朝陽あさひ:そうなの?


秀一:自分で選ぶことが大事なんだ。



 『自分で選ぶ』か。


 あの喫茶店は、私にとって大切な場所。


 マスターにとっても、とても大切な場所。


 あそこを守っていきたいと思う。


 だけどやっぱり、まだ結婚はわからなかった。


「あーもう! 高校生って忙しすぎない?!」


 思わず一人でぼやいてしまった。


 子供で居られる、最後の時間。


 それを過ぎたら、私は大人にならなきゃいけない。


 怖い気持ちと、楽しみな気持ち。


 二つの気持ちが揺れ動いてる。


 私は『自分の幸せ』を見つけられるのかな?


 喫茶店で働く以外の職業なんて、わからないし。


 早苗さなえ歩美あゆみはどうなんだろう?



朝陽あさひ:二人は就職どうするの?


早苗さなえ:考えてるわけないじゃん。


歩美あゆみ:私はデザイナーかな。


早苗さなえ:お、すごーい!


朝陽あさひ:どういう仕事?


歩美あゆみ:服を作ってみたいのよ。難しい職業だけど。


朝陽あさひ:難しいんだ?


歩美あゆみ:競争率高いからね。


早苗さなえ:孝弘と結婚すれば、簡単なんじゃない?


歩美あゆみ:それは今関係ないでしょ?!


早苗さなえ:社長夫人がデザイナーとか、よく聞くじゃん。


朝陽あさひ歩美あゆみはすごいね。


歩美あゆみ:高校生だもの。考えるのが当たり前よ。


早苗さなえ:えー、もっと遊ぼうよー。



 歩美あゆみは偉いな。私なんてまだ、中学生の気分が抜けきらないのに。


 スマホを枕元に置き、布団をかぶって目をつぶった。


 マスターと一緒に喫茶店を経営するのって、現実的な道じゃないのかな。





****


 朝の通学路、いつものようにマスターが青い巾着袋を渡してくる。


「はい、お弁当。

 源三が次の土曜日、朝陽あさひのお母さんを迎えに行くよ。

 そこで話し合いをしてみようか」


「ありがとう……話し合いって、何を話すの?」


朝陽あさひのお母さんが不安に思ってることに応えるんじゃないかな。

 大丈夫、源三が巧くやってくれるさ」


 私は「うん」とうなずいて、立ち去るマスターの背中を見送った。



 ホームルーム前、早苗さなえ歩美あゆみが私の席に近づいてくる。


 歩美あゆみが微笑んで告げる。


朝陽あさひも将来を考える気になったの?」


「だって、嫌でも考えなきゃいけないじゃん……」


 早苗さなえが笑いながら告げる。


「一年生の間は別に遊んでていいじゃん!

 大学なんて三年生からでいいし。

 就職なんて大学に入ってから考えれば!」


 歩美あゆみがため息をついた。


「あのね。大学選びも重要なのよ?

 キャリアプランにあわせた大学に行かないなら、お金と時間の無駄よ。

 ゆっくりしていられるのは一年生の間だけなの。

 進級したら、キャリアプランに向けて資格も取っていかないと」


歩美あゆみは真面目過ぎるよー!

 せっかくの女子高生を楽しまないでどうすんの?!」


早苗さなえがお気楽すぎるのよ」


 私は「あはは……」と愛想笑いを浮かべていた。


 もっと遊んでいたいっていう早苗さなえの気持ち、わかっちゃうなぁ。


 だって就職とか、実感ないし。


 歩美あゆみはしっかり将来を見据えていて、偉いよなー。


「あ、先生来たよ」


 早苗さなえたちが席に戻り、今日のホームルームが始まった。





****


 『カフェ・ド・ビジュー・セレニテ』のカウンターで、マスターが私たちに告げる。


「土曜日は臨時休業するよ。

 早苗さなえさんと歩美あゆみさんはお休みだ」


 早苗さなえがきょとんとして告げる。


「え? 朝陽あさひは?」


「ちょっと朝陽あさひのお母さんと、今後のことを話し合うつもり。

 だからお店を閉めて、源三と朝陽あさひを含めて、四人で会おうかなって」


 歩美あゆみが眉をひそめてマスターに尋ねる。


「大丈夫なんですか?

 ちゃんと朝陽あさひのお母さんを説得できます?」


 マスターが困ったように微笑んだ。


「僕としては、朝陽あさひはきちんと就職した方が良いと思ってる。

 その辺りも、土曜日に話し合おうかなって」


 私は落ち着かない気分でコーヒーを一口飲み、一息ついた。


「今から進路のことを言われても、わかんないよ」


「だけど朝陽あさひは、大学進学を考えていたんだろう?」


「だって、お母さんが『大学くらいは出ておきなさい』っていつも言ってるから」


 歩美あゆみがクスリと笑った。


「自分で考えていたわけじゃないってことね。

 やっぱり朝陽あさひはお子様ね」


歩美あゆみがしっかりしすぎなんだよ!」


 マスターが明るい笑い声をあげてから、私たちに告げる。


「君たちは今、『宝石のような時間』の中にいる。

 その大切な時間を、無駄遣いしないようにね」


 いつもはお客さんに提供していると思っていた『時間』。


 私たちも本当は、そんな時間の中にいる。


 マスターの言葉で、それだけは心に染み入るように実感していた。

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