第58話
バイトが終わり、駅に向かう夜道を歩く。
今日も私は、潮騒の中でマスターの手を握った。
「……どうしちゃったの、
「恋人と手をつなぐのが、そんなに不思議かな?」
「ハイ二人とも、笑って笑って~」
私は
カシャリと音がした後、
「本当に笑ってる……なにがあったの?」
「んー、なんとなく」
マスターは黙って私の手を握り返してくれている。
その顔を覗き見ると、ニコニコと幸せそうな笑顔をしていた。
「ちょっと、私が余るじゃないの」
「
「なんでそこで孝弘さんがでてくるのよ!」
賑やかなふたりの会話を聞きながら、潮騒の中を歩いて行く。
こうしていられるのも、あと三年くらい。
大学進学するなら、もっと短いかもしれない。
孝弘さんが言うように、本当にあっという間なんだな。
私は黙って、宝石のように輝く時間を味わいながら歩いた。
駅に着き、みんなでマスターに笑顔で告げる。
「それじゃ、また明日ね!」
「うん、気を付けて」
私たちは手を振りながら、改札を通過した。
****
晩御飯を食べながら、お母さんに尋ねてみる。
「もしもの話なんだけどさ、私があの喫茶店に就職するの、どう思う?」
お母さんが私を見つめて告げる。
「
「どこかに就職するなら、選択肢の一つなのかなって」
お母さんが小さく息をついた。
「
私はおずおずと応える。
「まだ決めた訳じゃないけど、その場合は結婚するのかなって」
「あのお店、きちんと利益は出してるの?」
「マスターは『黒字経営だよ』って言ってた。
それに浜崎のお爺さんが、助けてくれるって言ってたし」
お母さんが小さく息をついた。
「だとしても、大学くらいは出ておきなさいよ?
飲食業なんて不安定で、いつ潰れるのかわからないんだから」
やっぱり、普通に考えたらそうなるよね。
これ以上、何をどう説明したらいいのかわからない。
私が肩を落としていると、お母さんが優しく告げてくる。
「今度、
「……わかった。言ってみる」
私は静かに晩ご飯を食べ終わると、「ごちそうさま」と言って部屋に戻った。
****
お風呂上りにお水を飲んでいると、お母さんが私に尋ねてくる。
「ねぇ
「働くとかまだよくわからないし、私はあの喫茶店が大好きなんだ。
せっかく働くなら、好きな所で働けたらいいなって」
「
「……きちんと大学を出て、普通に就職しなさいって」
お母さんがため息をついた。
「それでも喫茶店で働きたいの?」
「だって、他の会社に就職したらもう、あの喫茶店で働けなくなっちゃうし」
お母さんが私の目をしばらく見つめた。
「……わかったわ。
近いうちに、
進級して二年生になったら、もう大学進学の準備もしないといけない。
その頃には自分のキャリアも考え始めた方がいいもの」
「うん……」
私は「おやすみ、お母さん」と告げて、部屋に戻った。
****
ベッドに倒れ込み、マスターにメッセージを送信する。
ふぅ、とため息をついて、秀一さんにメッセージを送信してみる。
秀一:幸せは自分で見つけるものだ。
秀一:他人から与えられた幸せでは、人は満足できん。
秀一:自分で選ぶことが大事なんだ。
『自分で選ぶ』か。
あの喫茶店は、私にとって大切な場所。
マスターにとっても、とても大切な場所。
あそこを守っていきたいと思う。
だけどやっぱり、まだ結婚はわからなかった。
「あーもう! 高校生って忙しすぎない?!」
思わず一人でぼやいてしまった。
子供で居られる、最後の時間。
それを過ぎたら、私は大人にならなきゃいけない。
怖い気持ちと、楽しみな気持ち。
二つの気持ちが揺れ動いてる。
私は『自分の幸せ』を見つけられるのかな?
喫茶店で働く以外の職業なんて、わからないし。
スマホを枕元に置き、布団をかぶって目をつぶった。
マスターと一緒に喫茶店を経営するのって、現実的な道じゃないのかな。
****
朝の通学路、いつものようにマスターが青い巾着袋を渡してくる。
「はい、お弁当。
源三が次の土曜日、
そこで話し合いをしてみようか」
「ありがとう……話し合いって、何を話すの?」
「
大丈夫、源三が巧くやってくれるさ」
私は「うん」とうなずいて、立ち去るマスターの背中を見送った。
ホームルーム前、
「
「だって、嫌でも考えなきゃいけないじゃん……」
「一年生の間は別に遊んでていいじゃん!
大学なんて三年生からでいいし。
就職なんて大学に入ってから考えれば!」
「あのね。大学選びも重要なのよ?
キャリアプランにあわせた大学に行かないなら、お金と時間の無駄よ。
ゆっくりしていられるのは一年生の間だけなの。
進級したら、キャリアプランに向けて資格も取っていかないと」
「
せっかくの女子高生を楽しまないでどうすんの?!」
「
私は「あはは……」と愛想笑いを浮かべていた。
もっと遊んでいたいっていう
だって就職とか、実感ないし。
「あ、先生来たよ」
****
『カフェ・ド・ビジュー・セレニテ』のカウンターで、マスターが私たちに告げる。
「土曜日は臨時休業するよ。
「え?
「ちょっと
だからお店を閉めて、源三と
「大丈夫なんですか?
ちゃんと
マスターが困ったように微笑んだ。
「僕としては、
その辺りも、土曜日に話し合おうかなって」
私は落ち着かない気分でコーヒーを一口飲み、一息ついた。
「今から進路のことを言われても、わかんないよ」
「だけど
「だって、お母さんが『大学くらいは出ておきなさい』っていつも言ってるから」
「自分で考えていたわけじゃないってことね。
やっぱり
「
マスターが明るい笑い声をあげてから、私たちに告げる。
「君たちは今、『宝石のような時間』の中にいる。
その大切な時間を、無駄遣いしないようにね」
いつもはお客さんに提供していると思っていた『時間』。
私たちも本当は、そんな時間の中にいる。
マスターの言葉で、それだけは心に染み入るように実感していた。
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