第35話

 ホテルから届いていたコーヒー粉で、マスターがコーヒーを入れてくれた。


 マスターが歩美あゆみ早苗さなえに告げる。


「お砂糖とミルクもあるけど、君たちもコーヒーにする?

 それとも、紅茶にしておく?」


 二人はちょっと悩んでから「コーヒー!」と応えていた。


 ダイニングテーブルに座る私たちの前に、マスターがカップを置いて行く。


 私は思わずつぶやいてしまう。


「なんか、『コーヒーを出される』のって久しぶりの感覚かも?」


「あ、わかるー! いつもお出ししてる方だもんねー!」


 早苗さなえが笑いながら応えていた。



 コーヒーで体を温めながらのんびりしていると、インターホンが鳴った。


 孝弘さんがエントランスに出てドアを開ける。


 ヨモギ色のカーディガンを羽織った秘書さんが、笑顔で立っていた。


「九時にコテージ前に集まってください。

 九頭竜神社へ向かいます」


「おう、わかった。

 早苗さなえ歩美あゆみの両親は?」


「今日の午後に到着予定です。

 全員が揃ってから、湖畔でバーベキューをすることになっています」


 そう言い残し、秘書さんは頭を下げて立ち去った。


 孝弘さんが席に戻って私たちに告げる。


「聞いた通りだ。

 昼飯は、神社の近くにレストランがあるはずだ。

 たぶんそこで済ませるだろ」


 スマホを確認すると、まだ八時前だ。


 コーヒーを飲み終わった私たちは、リビングでスマホをいじりながら時間をつぶしていた。





****


 午前九時ちょっと前、コテージの前には全員が集合していた。


 浜崎のお爺さんが私たちに告げる。


「予定は聞いてると思うが、これから歩いて九頭竜神社に向かう。

 湖畔を楽しみながら、散策していこう」


 お爺さんが先導する様に歩きだすと、みんながその後を追った。


 朝日の中で、湖畔がキラキラと輝いている。


 ちょっと風が冷たいけど、それも心地良く感じた。


「首都圏からちょっと離れるだけで、こんなに空気がきれいなんだね」


 孝弘さんがニヤリと笑った。


「ここは森に囲まれてるからな。

 そのせいだろうさ」


 湖の水音、森から聞こえる鳥の声。


 夜とはすっかり違う姿に、私はワクワクと胸を躍らせていた。


 前を歩くお母さんは、浜崎のお爺さんとすっかり仲良くなってるみたい。


「ねぇ孝弘さん、昨日は何時までお酒を飲んでたの?」


「あー、たぶん午前二時ぐらいじゃないかな。

 朝陽あさひのかーちゃんとクソ爺の酒が止まらなくてな」


 お母さん……おごりで高いお酒が飲めるからって、飲み過ぎなのでは?!


 早苗さなえが湖を見ながらぽつりとつぶやく。


「今朝は朝霧が出てないんですね」


「この時期じゃ、あんまり霧は出ないんじゃねーかな」


 朝霧か……夢だけど、思いっきり見てきたばかりだ。


 雲の中にいるみたいな、不思議な感覚だったなぁ。



 しばらく歩いていると、遠くに神社が見えてきた。


 ちらほらと環境客らしき姿が見える。


 私たちも観光客に混じって、九頭竜神社に足を踏み入れた。


「よお、数時間ぶり」


 その声に目を向けると、紫色した長髪の男性――秀一さん。


 彼は不敵な笑みを浮かべて、私を見つめていた。





****


 秀一さんは色あせたジーンズに黒いタンクトップ、柄物の半袖シャツを羽織っていた。


 靴は白いスニーカーで、これが神様とはとても思えない。


 私はため息をついて告げる。


「何の用なの?」


 秀一さんが肩をすくめた。


「つれないことを言うなよ。

 せっかくこの地に来たんだ。

 一緒に行動しようと思ってな。

 ――そのくらい、構わんだろう? 辰巳たつみ


 マスターの顔を見上げると、不機嫌そうに眉をひそめていた。


「何が狙いなんだ? 秀一」


「それだけのかんなぎを独り占めしようってのか?

 そいつぁ少し、虫が良すぎるだろう。

 朝陽あさひには、俺の巫女になってもらえないかと思ってな」


 マスターの眉間にしわが寄った。


「俺が大人しくしてるうちに消え失せろ」


 ――また『俺』になってるよマスター?!


 秀一さんが不敵に微笑んだ。


「なんだ? 久しぶりにガチでやり合うか?

 ホームグラウンドで朝陽あさひの血を飲んだばかりの俺に、勝てるとでも?」


 マスターと秀一さんの間に、変な緊張感が満ちていた。


 私はそれに割り込むように体をねじ込んだ。


「ストップ! 喧嘩はよくない!

 それ以上喧嘩をするなら、私はもう帰るよ?!」


 秀一さんがフッと笑った。


「冗談だ、朝陽あさひ。そう興奮するな。

 だが共に行動するくらいは構わんだろう?。

 ついでに辰巳たつみの代わりに、俺が周囲の奴らから守ってやろう」


 マスターが小さく息をついた。


「『いらん』と言っても貴様はついてくるのだろう?

 好きにしろ。俺は追い払わん。

 ――ただし、朝陽あさひには指一本触れるな」


 ――『朝陽あさひ』! 『さん』なし!


 私は謎の感動で身を震わせていた。





****


 歩美あゆみがぽつりとつぶやく。


「ほんとに美形だわ……」


 早苗さなえもまじまじと秀一さんをみつめていた。


「マスターと似てるね……」


 孝弘さんは機嫌悪そうに告げる。


「クソ爺どもにおいてかれるぞ。

 早く行こうぜ」


 お母さんたちを見ると、もう本殿の方に向かってるみたいだ。


 私たちも本殿に向かって歩き始めた。


 秀一さんも、機嫌良さそうに私の左隣をついてきた。


 私の右側では、マスターが秀一さんをけん制するように歩いている。


 早苗さなえ歩美あゆみは、マスターのそばを歩いていた。


 私の前を歩く孝弘さんが、こちらに振り返って告げる。


「秀一って言ったっけ? あんたは危険じゃないんだな?」


 秀一さんは孝弘さんを無視して、私に話しかける。


「なぁ朝陽あさひ、このあと一緒に抜け出してボートに乗らないか。

 俺が一緒にいれば、水に落ちることもないぞ」


 私は眉をひそめて秀一さんに告げる。


「私の友達を無視する人と、ボートに乗る気はないよ」


「つれない奴だな。

 だがそういうところも、またそそられる」


 秀一さんが私の左手を手に取ろうとした――のを、マスターがやんわりとブロックした。


 マスターが秀一さんを睨み付けて告げる。


「俺は『朝陽あさひに触るな』といったはずだ」


「俺は『わかった』と言った覚えはないが?」


 ピリピリし始めるマスターと秀一さんに向かって、私はため息をついた。


 後ろに振り返って私は告げる。


「じゃあ私、もう潮原しおはらに帰るから」


「――わかった、わかったからそうつれないことを言うなよ」


 秀一さんがあわてて私の腕を引っ張った。


 私の左手を掴む秀一さんをジロリと見ながら告げる。


「ほんとにわかったの? なら手を放して」


 秀一さんがパッと手を放して両手を上げた。


「ほら、これで満足か?

 『俺はなるだけ朝陽あさひに触らない』。

 これは約束してやろう。辰霧たつぎりにいる間はな」


 私はため息をついてマスターの横に並ぶ。


「ごめんねマスター、変なことになって」


 マスターが私に優しい笑顔で応える。


朝陽あさひさんのせいじゃないよ。

 気にしないで」


 ……朝陽あさひ『さん』か。


 なんだか残念な気持ちを抱えながら、私たちは本殿前のお母さんたちに合流した。





****


 境内を一回りした私たちは、入り口に戻ってきた。


 浜崎のお爺さんが告げる。


「これからレストランに向かう。

 また少し歩くから、のんびりついておいで」


 ゆっくりと神社の外に向かうお爺さんとお母さんは、秀一さんを気にしてないみたいだ。


 秘書さんも秀一さんには目もくれない。


「どういうこと? なんで誰も何も言わないの?」


 秀一さんがフッと笑った。


「あいつらの意識をそらしてるからな。

 目に入っても気にならない――そういうことだ」


 早苗さなえがニヤニヤと私に告げる。


「モテモテだね。良かったじゃん、朝陽あさひ


「良くないよ! こんな面倒な人にまとわりつかれても困るだけだってば!」


 歩美あゆみがふぅ、とため息をついた。


「ぜいたくな悩みよね。

 そのレベルの美形をはべらして、言うことがそれなんて」


 他人事だとおもって!


 なんだか納得がいかないまま、私たちは近くのレストランに入っていった。

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