第34話

 秀一さんが楽しそうにニヤリと笑った。


「なんだ、それほど馬鹿という訳でもないらしいな」


「馬鹿とは何よ?!

 マスターと違って、随分と失礼な人ね!」


 笑みをこぼしながら秀一さんが応える。


「あいつはそんなにお上品か?

 ちょっと見ない間に、大人しくなったもんだ」


 むー? その口ぶりは――


「秀一さん、マスターの友達なの?」


「知り合い程度だな。

 出会った頃はよく喧嘩をしたもんだが、今ではそれもなくなった。

 お互いが『縄張り』を荒らさなければ、だがな」


 私は楽しそうに微笑む秀一さんに尋ねる。


「出会った頃って、いつの話?」


「結構昔だよ。人間の感覚だと、千年くらい前か?」


 やっぱり! 神様の時間感覚は! 理解できない!


 私はなんだか疲れながら、秀一さんに尋ねる。


「ねぇ、『朝になったら迎えに来る』ってどういう意味?」


 秀一さんがフッと笑った。


「だからこうして『今』、迎えに来ているだろうが。

 見ての通り、日は登っている。

 辰巳たつみのガードが固くて難儀したが、お前が外に出てくれて助かった」


「え? 私は外に出てなんて――」


 ――あ?! まさか、『バルコニー』も外扱い?!


 私はあわてて辺りを見回してみる。


 コテージなんてどこにも見えない。


 湖畔のそばには森が広がるだけだ。


「ここ、どこなの?!」


「そうあわてるな。

 ただの夢だ。

 俺の記憶にある『葛城湖のかつての姿』でもある。

 ――それより朝陽あさひ、おまえちょっと腕を出せ」


 私はきょとんとして左腕を差し出した。


「これでいい?」


 秀一さんは私の腕を掴むと、浴衣の袖をめくって――噛みついた。


「――ちょっと?! なにしてるの?!」


 体から『何か』を吸われる感覚――これ、採血されてるときと同じ?!


 必死に暴れて、秀一さんの胸を突き飛ばした。


 二、三歩離れた秀一さんが、口から血を垂らしながらニヤリと笑う。


「美味い血だ。おかげで随分と力を得られた。

 ――どうだ朝陽あさひ、ちょっと俺の生贄にならないか?」


「なるか馬鹿!」


 私はあわてて自分の腕を見た。


 肘のそばに二つの穴が開いている。


 まるで蛇にでも噛まれたみたいだ。


 秀一さんを睨み付けると、彼も不機嫌そうに舌打ちをする。


「チッ、辰巳たつみに気付かれたか。

 ――じゃあな、朝陽あさひ。また会おう」


 朝霧の中に溶け込むように、秀一さんの姿が消えていった。


 私は呆然としながら、湖畔で立ち尽くしていた。





****


「――朝陽あさひ! 朝陽あさひってば!」


 歩美あゆみの声で目が覚めて、ガバッと起き上がる。


 あわてて周りを見回すと、そこは私たちの部屋の中だった。


「戻って、これたのか……」


 早苗さなえがドアに近づいて声をかける。


「マスター! 朝陽あさひが起きました!」


「わかった、着替えたら下においで」


 マスターの気配が階段を降りていく。


 私は歩美あゆみに尋ねる。


「どうしたの? 歩美あゆみ。何があったの?」


 歩美あゆみがため息をついて応える。


「そんなの、私が聞きたいわ。

 急にマスターがドアを叩いて『朝陽あさひを起こしてほしい』って叫ぶんだもの」


 枕もとのスマホを見ると、まだ朝五時過ぎだ。


 一息ついてから、私は自分の左腕を見た。


 ゆっくりと浴衣をめくり上げると、そこには二つの穴が開いていた。


「夢じゃないの?!」


 私の叫びに、早苗さなえ歩美あゆみがきょとんとしていた。





****


 洋服に着替え終わった私たちは、部屋から出て一階に降りた。


 リビングではマスターと孝弘さんが、ソファに座って待っていた。


 マスターが立ち上がり、不安げな表情で私に告げる。


朝陽あさひさん、無事だった?」


 私は苦笑を浮かべながら左腕を見せた。


「秀一さんに少し、血を吸われちゃった」


 マスターが私の左腕をそっと持ち上げ、指を噛み跡に添えた。


「……やはり駄目か。マーキングされてしまったな」


 私は小首をかしげてマスターに尋ねる。


「どういう意味?」


 マスターは私にソファに座るように促してから、私の隣に腰を下ろした。


「この傷はね、『聖痕』と呼ばれるものだ。

 少なくとも辰霧たつぎりにいる間は、この傷を消してあげることができない。

 これがある限り、秀一は僕の守りをすり抜けて朝陽あさひさんに接触することができてしまう」


 私は噛み跡をまじまじと見つめた。


「秀一さんって、竜神だよね?

 なんで噛んだ後が、蛇に噛まれたみたいになるの?」


 マスターが私の肩を抱きながら応える。


「僕ら竜神はね、とても古い時代、蛇に近い姿だったんだ。

 秀一は僕よりも蛇に近い時代の分霊。

 だから噛み跡がそうなるんだ」


「あー、秀一さんがマスターに似てるのって、元が同じ神様だからなの?


 歩美あゆみがピクリと反応した。


「――ちょっと朝陽あさひ?!

 あんたまさか、マスター並のイケメンと会ってたって言うの?!」


 私は歩美あゆみの勢いに気おされながらうなずいた。


「ちょっとワイルドって言うか、品がなかったけど。

 美形って言えば、充分美形だったよ」


 早苗さなえが不満げに告げる。


「そもそも、『秀一』って誰よ?」


 マスターがフッと笑って応える。


「『葛城秀一』。この湖の主だよ。

 辰霧たつぎり一帯を治める竜神だ。

 この辺の『あやかし』で、あいつに勝てる奴はいない」


 歩美あゆみがマスターに尋ねる。


「どんな人なの?」


「元が生贄を取っていた神だったからね。

 人間に一度負けてからは、生贄を止めたみたいだけど。

 少し荒っぽい神だよ」


 私はなんだか納得してしまってうなずいた。


「あー、それで私に『生贄になれ』って言ってたのか」


 孝弘さんがぽつりと告げる。


辰霧たつぎりには多頭竜の伝説がある。

 七つとか九つとか、いくつか説があるけどな。

 この葛城湖には『九頭竜神社』ってのがあってさ。

 そこに祀られてる神だよ」


「それっていつ頃の話なの?」


「奈良時代、千三百年くらい前かな」


 私はマスターを見上げて尋ねる。


「秀一さんと出会ったのって、いつ頃?」


「んー、千年くらい前だったと思うよ。

 その頃にはもう、生贄を取らなくなっていた。

 あいつは僕より先に日本に渡ってきた竜神なんだ」


「そっか……」


 孝弘さんがパチンと両手を打ち鳴らした。


「そろそろホテルから飯が届いてる頃だ。

 少し早いけど、飯にしようぜ!」


 私たちはうなずいて、ダイニングに移動した。





****


 電子レンジで温めたお弁当をみんなでつつく。


 焼き魚にオムレツ、煮物と湯葉、サラダにコンソメスープが付いていた。


 クロワッサンを頬張りながら、おかずの方にもお箸を伸ばす。


 私がもっぐもっぐと食べていると、早苗さなえがあきれたように告げる。


「朝からよく食べるね」


「なんか、お腹が空いちゃって」


 マスターが不安げな眼差しを私に向けた。


「秀一に力を吸い取られたからね。

 体が回復しようとしてるんだよ」


 孝弘さんがぶっきらぼうにつげる。


「それで、そいつは危険な奴なのか?」


 マスターが眉根をひそめて応える。


「もう生贄を取るような神ではなくなってる。

 朝陽あさひさんに言った言葉も、たぶん冗談のはずだ。

 今さら僕と本気で喧嘩をするとも思えない。

 そんなことをしてもお互い、損をするだけだからな」


「ふーん、じゃあ午前の九頭竜神社見物は、問題がないのか」


 マスターが私に優しい眼差しを向けながら応える。


「聖痕がある以上、どこにいても危険度は変わらない。

 大きな争いにもならないだろうし、気にすることはないだろう。

 むしろ早めに秀一の真意を問い質した方がいいかもしれないな」


 私はご飯を完食して「ごちそうさま!」と声を上げた。


「大丈夫! なんとかなるよ!

 少なくとも、怖い人じゃなかったし!」


 びっくりはしたけど、血を吸われた後も秀一さんを『怖い』と感じなかった。


 何を考えてるのかは、わからないけど。


 それを午前中に確かめてみよう!

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