第20話

 木曜日の放課後、喫茶店の制服に着替えた私たちに店長が告げる。


「今日は計画の準備を進めるよ。

 僕と伊勢佐木いせざきさんはスタッフルームにこもるから。

 儀式が終わるまで、接客は清水しみずさんと荒川あらかわさんにお願いするね」


「はい!」


 私たちの声が店内に響き渡る。


 私はマスターに背中を押され、スタッフルームへと入っていった。





****


 中に入るとすぐに勝手口がノックされた。


 マスターが鍵を開けて勝手口を開けると、髪の長い白衣を着た女性が入ってくる。


「私まで呼びつけるとか、珍しいこともあるわね」


「やぁいらっしゃい薬師寺やくしじさん。

 頼んでおいたもの、持ってきてくれた?」


 白衣の女性――薬師寺やくしじさんが、黒い鞄を持ち上げて微笑んだ。


「採血用具一式、ちゃんと持ってきたわよ?」



 私はソファに寝かされ、ブラウスの袖をまくって不安を必死に紛らわせていた。


 注射って、苦手なんだよなぁ~?!


 薬師寺やくしじさんがフフっと笑った。


「気分が悪くなったら、すぐに言いなさい。

 少し多めに抜き取るから、無理はしないようにね」


「はい……」


 左ひじの内側を、アルコールをひたした脱脂綿で拭かれていく。


「それじゃあいくわよー。力を抜いてねー」


 言わないでいいよ! そんなこと!


 私は左腕以外を力ませて目をつぶり、痛みに備えた。


 プツリと鋭い痛みが走り、体から体液を抜き取られて行く感触がする。


 ――なんかもう、気持ち悪いかも。


 薬師寺やくしじさんが優しい声で告げる。


「もう少し頑張ってねー」


 一度針が抜ける感触がして、またアルコールで拭かれ――まだ抜くの?!


 二回目の痛みと共に、体から体液が減っていく。


 なんだか世界が回り出して、それでも必死に我慢した。


 マスターの声が聞こえる。


「おい瑠璃子るりこ伊勢佐木いせざきさんがもう限界だ」


「はいはい、わかってますよー」


 ふわっと体が温かくなって、気分が楽になっていく。


 針が抜ける感触がして、薬師寺やくしじさんの声が聞こえる。


「はい、もうおしまい。

 そのまま横になってなさい。

 回復するまで、もう少しかかるから」


 私がおそるおそる目を開けると、テーブルの上に試験管が二本立てかけてあった。


 ……あんなに血を抜かれたのかぁ。


 薬師寺やくしじさんが鞄の中から、紙パックのオレンジジュースを手渡してくる。


「寝ながら飲んでおきなさい。

 あとのことは、私たちに任せて」


 私は黙ってうなずいて、紙パックにストローを刺した。





****


 ソファで寝転ぶ私の目の前では、不思議な光景が広がっていた。


 テーブルがどかされた場所に大きな木のたらいが置かれ、その前にマスターが上半身裸で座り込んでいる。


 薬師寺やくしじさんが反対側で、私の血が入った試験管を持って座り込んでいた。


辰巳たつみ、いつでもいいわよ?」


「よろしくたのむぞ、瑠璃子るりこ


 突然、たらいの中にぼこぼこと水が湧きだしていく。


 その水がたらいを満たすと、今度は薬師寺やくしじさんが試験管から血を垂らし始めた。


 ぽたり、ぽたりと血を落としていくたびに、たらいの水が光り輝いていく。


 その光がマスターに移っていき、マスターの上半身も光り始めた。


 淡く青白い光に包まれたマスターは、静かな呼吸を続けてる。


 私はおそるおそるマスターに声をかける。


「あの、薬師寺やくしじさんもお知り合い?」


 マスターの代わりに薬師寺やくしじさんが応える。


「そうよー? 同郷の仲間って奴。

 薬師如来って聞いたことある?」


「あー、なんとなく聞き覚えが」


 薬師寺やくしじさんがクスリと笑った。


「私はその分霊、みたいなものね。

 大したことはできないけど、あやかしの間で医療に従事してるわ。

 医師免許はないから、『闇医者』だけどね?」


 いや、免許を持ってる神様とか、聞いたことないけど……。


 それにしても、マスターの周りの神様って、女性が多くない?


 たまたま男性の神様と会ってないだけ?


「あの、薬師寺やくしじさんはマスターから力をもらったりするんですか?」


「足りなくなったらもらうわよー?

 そこは綾子あやこと同じね」


 む、ということはべたべたひっつくのか。


 なんだか胸がモヤモヤする。


 でも薬師寺やくしじさんにとっては命綱みたいなものだし。


 仕方ないことだよなー?


 そう考えても、胸のもやもやが消えない。なんだろう? これは。


「マスターはそんなに力を分け与えて、大丈夫なんですか?」


辰巳たつみは私や綾子あやこより格上の分霊だからね。

 『本体により近い』って言えば、伝わるかしら。

 それに中国でもよく信仰されてたし、その分だけ力が強いのよ」


 これはもしかして――。


薬師寺やくしじさん、マスターって竜神じゃないんですか?

 本当は何の神様なんですか?」


「竜神よ? 竜の神様。そこは正しいわ。

 中国では皇帝の象徴として敬われていた竜。

 インドの辺りでは『ナーガ』って呼ばれてた神様ね」


「中国の竜?! あの細長くて、空を飛んでるやつですか?!」


「そうよー? 中国に渡った時に、そうやって力を大きく集めてたの。

 その中国の竜の分霊が辰巳たつみよ。

 日本に来てからは、水を統べる神様ってことになったわね」


 マスターが眉をひそめて口を開く。


瑠璃子るりこ、しゃべり過ぎだ」


「あら、ごめんなさい?

 儀式の邪魔をしちゃったわね」


 クスクスと笑う薬師寺やくしじさんに、私は尋ねる。


「でも、薬師如来って有名なお寺がありますよね?

 なんで薬師寺やくしじさんは力が弱いんですか?

 財部たからべさんだって、もっと力が強いんじゃ?」


「私や綾子あやこは、日本で別れた分霊なのよ。

 分霊の分霊の分霊の、それがいくつも連なった先の分霊。

 だから力が弱いの。

 私は奈良県で生まれた分霊。そこからこっちに流れ着いたのよ」


 ああ、『本体により近い』って、そういう意味か。


 ――あ、もしかして!


「ここのお客さんも、分霊だったりするんですか?!」


「あやかしのこと? そうよ?

 日本で古くから伝わるあやかしや、新しく生まれたあやかし。

 それぞれが分霊のような別れ方をしてるの。

 他の地域の分霊は、そのうち力尽きて消えてしまうわ。

 この地域だけは、辰巳たつみのお店があるから長生きしてる方ね」


 初めて知る、世界の裏側!


 薬師寺やくしじさんがクスリと笑った。


「興奮してると、また目が回るわよ?

 ちゃんと安静にして、大人しくしていなさい」


「はーい」





****


 私の血がすべてたらいに落とされると、光が収まっていった。


 マスターが深く深呼吸をしてから、口を開く。


「助かった瑠璃子るりこ

 お前は大丈夫だったか」


 薬師寺やくしじさんがニコリと微笑んだ。


「このくらいなら全然問題ないわ。

 でも、来月は二回くらい補給させてね。

 それくらいはいいでしょ?」


 マスターがうなずいた。


「わかった。お前の都合に合わせよう。

 ――伊勢佐木いせざきさん、具合はどう?」


 私はむすっとしながら応える。


「大丈夫だけど……」


 マスターがきょとんとして私に告げる。


「どうしたの? なんで怒ってるのかな?」


「……なんで私たちは苗字で呼ぶの?

 財部たからべさんや薬師寺やくしじさんは名前で呼ぶのに」


 薬師寺やくしじさんがクスリと笑みをこぼした。


「あらあら、やきもちかしら?

 大丈夫よ、ただの仲間意識だから。

 別に辰巳たつみを取ったりは――しない、つもりだけどね」


 ――なんか、遊ばれてる気がする!


「もういいよ!」


 ぷいっと壁際を向いた私の耳に、マスターのこぼす笑みが聞こえた。


「ごめんごめん。

 でも君たちを名前で呼ぶなんて、失礼だろう?

 僕らは古い知り合いだから、そのせいだよ」


「……なんか、仲間外れにされてるみたい」


「困ったな、そんなつもりは全くないんだけど。

 もしかして、子ども扱いされてるのが嫌になった?」


 カッと顔が熱くなるのを自覚しながら、マスターに顔が見えないように隠す。


「そういうことじゃないもん!」


 私はマスターと薬師寺やくしじさんの楽し気な笑い声に包まれながら、ソファに顔を押し付けていた。

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