第8話

 こつんと膝に青い巾着袋が当たった。


 おっと、そういえばお弁当箱を返してなかった。


 私は「ちょっと返してくるね」と早苗さなえたちに告げ、巾着袋を持ってカウンターに向かった。



「マスター、お弁当ごちそうさま!

 とっても美味しかったです!」


 巾着袋をカウンターに置くと、マスターがそれを受け取って嬉しそうにしていた。


「全部食べてくれたみたいだね。

 口に合ってよかったよ」


「あはは、早苗さなえたちからおかずを守るのが大変でしたけどね。

 ――そういえば、なんで二人はマスターの料理を美味しく感じられたんですか?

 前は紅茶もコーヒーも、『微妙な味』って言ってましたよね?」


 マスターは重箱を洗いながら応える。


「ああ、それはお守りの影響だよ。

 あれは君の髪の毛と僕の鱗で作ったお守りで、君の力の影響を受けるからね。

 今の清水しみずさんと荒川あらかわさんは、伊勢佐木いせざきさんと同じ味覚を持つんだ」


 マスターの鱗?!


「そんなことして、マスターは大丈夫なんですか?!」


「んー、ちょっと頑張ってみた。

 せっかく伊勢佐木いせざきさんのバイト仲間が増える機会だしね。

 それに小さい鱗だから、そこまで大きな負担じゃないよ」


 ほらー、負担あるんじゃんか……。


 私は小さくため息をつく。


「もう、そこまでしなくてもよかったのに。

 マスターに無理をさせてまで、早苗さなえたちをバイトさせたいとは思ってませんからね」


 マスターが私の目を見て、妖艶な笑みを見せる。


「どうしたの? 僕を独り占めにできなくなるのが惜しくなった?」


 何その顔?! 初めて見るんだけど!


 私は顔がカッと熱くなり、全身の毛穴が開いた気がした。


「~~~~?! なんでそんなことを私が思うんですか!」


「ハハハ! 冗談だよ。

 男の僕より、女友達が居てくれた方が君も退屈せずに済むでしょ?

 このお店は、あまり繁盛してる訳じゃないからね」


「――知らない!」


 私はマスターに背中を見せて、乱雑に歩いて早苗さなえたちのところに戻った。





****


 早苗さなえがきょとんと私を見て告げる。


「どうしたの? 大きな声を出して」


「なんでもない!」


 歩美あゆみが楽しそうに微笑みを浮かべた。


「さては大人のマスターにからかわれたの?

 朝陽あさひもまだまだお子様ね」


歩美あゆみだって同い年じゃん!

 なんで大人ぶるのよ!」


「あら、私は心だけは大人のつもりだもの」


 早苗さなえがあきれたように告げる。


「そういう奴に限って、いざという時に子供っぽくなるんじゃないの?

 見栄を張っても良いことなんてないよ?」


 歩美あゆみがクスクスと笑みをこぼしながら応える。


「見栄なんかじゃないわ。本当のことだもの」


 歩美あゆみは大人っぽい雰囲気を持つ子だけど、同じ十五歳なんだし。


 そこまで大人みたいに達観してるとは思えないんだよなぁ。


 ――そうだ!


「じゃあさ、歩美あゆみの好みの男性って、どんな人?」


「やっぱり落ち着いていて、包容力のあるタイプよね。

 クラスにいる男子はみんな、子供っぽくて相手にならないわ」


 私はニンマリと笑って告げる。


「じゃあさ、ちょっとカウンターに行ってマスターと話して来たら?

 マスターの大人っぽいところ、歩美あゆみの好みなんでしょ?」


 歩美あゆみはきょとんとしたあと、立ち上がって私たちに告げる。


「じゃあちょっと話をしてくるわね。

 ナイスアシスト、ありがとう朝陽あさひ


 そのまま歩美あゆみは、軽やかな足取りでカウンターに向かっていった。


 早苗さなえが私の肩を掴んで言い募ってくる。


「ちょっと?! 何をしてるのよ朝陽あさひ

 これでマスターが歩美あゆみに奪われたらどうしてくれるの?!

 あんただって、そうなったら悔しいでしょ!」


 私はニコニコと微笑みながらカウンターを見て応える。


「それはどうかな~?

 あのマスターが簡単に落とせたら、苦労はないと思うよ?」


「え~? そんなに手強い人なの?」


「あはは! まずは歩美あゆみのお手並みを拝見しようよ!」


 私たちは静かに、カウンターにいるマスターと歩美あゆみの様子を窺った。





****


 歩美あゆみが軽やかな足取りでカウンターに近づいてきた。


 食器洗いをしている辰巳たつみが、手元の食器から歩美あゆみに目を移す。


「どうしたの? 何か僕に用事?」


「ちょっと話をして来いって、朝陽あさひが言うものだから」


 そう言って歩美あゆみはカウンター席に腰を下ろした。


 辰巳たつみがフッと笑ってエプロンで手を拭く。


「やれやれ、若い子の遊びに僕を巻き込むのかい?

 それで君たちが楽しいなら構わないけど。

 ――紅茶が良い? それとも、コーヒーを飲んでみる?」


 歩美あゆみが少し悩んで応える。


「そうね、あっちに紅茶がまだ残っているし、コーヒーを頂いてみようかしら」


「了解。砂糖とミルクは付けるのかな?

 それとも――僕と同じ、ストレートで飲んでみる?」


 ニコリと妖艶な眼差しを向ける辰巳たつみに、歩美あゆみの胸が高鳴った。


 あわてて取り繕いながら、歩美あゆみが応える。


「そ、そうね! それじゃあマスターと同じ、ストレートをお願いするわ」


「わかった――でも、大人の味だからね。

 口に合わなかったら、素直に砂糖とミルクを使った方が良いよ?」


 そう言って辰巳たつみは、流れるようにコーヒーを入れ始めた。


 その動きに歩美あゆみは見惚れながら、心の中ではおそるおそる、辰巳たつみに尋ねる。


「マスターは、付き合ってる女性が居るのかしら」


荒川あらかわさんは、どちらだと思う?

 当ててごらん?」


 ――意地悪な質問ね。


「マスターみたいに綺麗な顔の人を、女性が放っておくとは思えないわ。

 引く手あまたなんじゃない?」


「ハハハ! そうだね、僕に興味を持つ女性は結構いるみたいだ。

 そう、たとえば君みたいにね」


 流し目で見つめられた歩美あゆみは、心の奥まで見透かされそうな眼差しで体温が上昇するのを感じていた。


「私は! バイト先の雇用主をリサーチをしてるだけです!」


「そうかい?

 それなら誠実に応えてあげるべきかな?

 ――昔、愛していた人ならいたよ」


 歩美あゆみは慎重に言葉を選んでいく。


「昔って、今は違うんですか?

 別れちゃったんですか?」


「人はいつまでも一緒にいられる訳じゃない。

 別れはどうしても訪れるものさ。

 だから一期一会、今ある縁を大切にしたいと僕は思ってる。

 ――さぁどうぞ、お嬢さん。当店自慢のコーヒーだよ」


 コトリと歩美あゆみの前に置かれたストレートのコーヒーを、歩美あゆみはまじまじと見つめた。


 コーヒーなんて飲むのは初めてで、それが苦いものだと知っている。


 それをいきなりストレートで飲むなんて、無謀だということも。


 なんで自分は見栄を張って、ストレートなんて頼んでしまったのだろう。


 そう思いはするが、ここで砂糖やミルクを使えば『負けた』ような気がして、おそるおそるコーヒーに口をつけた。


「にが――」


 『苦い』と言いかけて、あわてて口をつぐんだ。


 辰巳たつみがクスクスと楽しそうに笑みをこぼす。


「だから言ったでしょ。

 慣れない人は、砂糖とミルクを使いなさい。

 人の別れと同じ苦さが、そこにはある。

 いつかは味わうものだとしても、避けられるなら無理に味わう必要はないさ」


 真っ赤になりながら、歩美あゆみは大人しくスティックシュガーの封を切った。

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