26

 俺はまず、翔真を追って電車を降りようとして、なんとか思いとどまった。それはさすがに間抜けすぎる立ち振る舞いだと自分でも分かった。その次に、今すぐ引き返す電車に乗って、慎一郎さんに会いに行こうと思った。会って謝らないといけないことがあるし、それに、奥さんはもう亡くなっていると、翔真は言った。いきなりすぎて全然現実感はないけれど、もし本当なのだとしたら、俺が頼み込めば、慎一郎さんは指輪を外してくれるのだろうか。そして最後に、このまま永遠に電車に乗り続けていたいと思った。誰にも会わず、どこでも降りず、ずっとずっとこの電車に乗っていたい。そうすればもう、予想外の事態に遭遇して戸惑ったり、自分の間抜けさや愚かさに悲しくなったり、悲しい出来事や辛いことにあって傷ついたりしなくて済むのではないかと。

 両手で吊革につかまって。じっと窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。思いつめた目をした、うつくしくもなければ醜くもない、取り立てて特筆することもないつまらない顔。まるっきり、俺の人間性をそのまま表しているみたいだ。

 いったん、家に帰ろうか。帰って、心を整理して、頭の中も片づけて、それからどうするか考えようか。ただ、そうすると俺はもう、動けなくなるような気がした。戸惑ったり、悲しんだり、傷ついたりするのが嫌で、一歩も動けなくなり、また自宅と職場の往復で日々を消費することに神経を費やすのではないかと。

 これは最後のチャンスだ。自分でもちゃんと理解している。翔真がくれた、慎一郎さんの側に戻れるかもしれない、最後のチャンス。これを逃したらもう、俺はあの店に近づけない。商店街から店の様子を窺うこともできない、完全な離別だ。

 もし、そうなったら、俺は慎一郎さんを忘れられるだろうか。また、必死で仕事をこなしていけば、いつかは。いつかは、忘れられるかもしれないけれど、もしそうなったとしたら、俺は俺を許せるだろうか。

 分からない。楽にはなれるかもしれないと思う。もう、母親の夢を見てうなされることもなくなるのではないかとも。でも、このチャンスは、翔真がくれたものだ。翔真が、最後にくれたものだ。どうしようもない俺に、最後に助言をくれた翔真。彼を裏切ったら、俺は俺をきっと許せない。

 結局俺は、吊革にぶら下がってじっと目を閉じて一駅分の時間をやり過ごした後、降車し、慎一郎さんの店に向かう電車に乗り込んだ。車内は空いていたのだけれど、座る気にはなれず、やはり吊り革を掴む。

 このまま帰ったら俺は俺を許せなくなる。

 そう念じながら、だんだん慎一郎さんの店が近づいてくる実感に、じりじりしながら耐えた。

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