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 珈琲を飲んだ後、不動産屋に行くと、マンスリーではなく、即日入居可能な物件があった。職場に近いし、なによりこの街を離れられる。ここへは、翔真の職場に近いからという理由で住んでいた。だからもう、この街にとどまる理由はない。

 「なにからなにまで、お世話になりました。これ、すぐ返しに来ますから。」

 荷物を詰めた、借り物の鞄をふたつ持ち上げて見せると、店の前まで見送りに出て来てくれた慎一郎さんは、穏やかに目を細めた。

 「それは、使っていないものだからいいんですけど、でも、また来てください。必ず。」

 必ず。その言葉に驚いて、俺は慎一郎さんを見上げた。そんな強い言葉を使うような人には思えなかったのだ。

 「気になるんですよ。」

 ぽつり、と、慎一郎さんが呟くように言った。俺は、心臓がとくりと弾むのを感じた。そして、急いでその鼓動をかき消すみたいに、来ます、と言葉を吐きだした。

 「来ます。ありがとうございました。」

 「いいえ。」

 よく晴れた夕方だった。俺は、溶け残った雪をそっと踏みながら、駅までの道をたどった。翔真がいる街。また来ると約束した。翔真にばったり会ってしまう可能性を考えると怖いのだけれど、それでも俺は、またここに来るだろう。慎一郎さんと、約束したから。

 駅の改札を抜け、丁度ホームに滑り来んできた電車に乗り込む。いつも、通勤に使っている電車だったけれど、今日は土曜日だし、時間も半端なので、空いているのが新鮮だった。大したものは入っていないはずなのに荷物が重たく感じられて、青いシートに腰掛ける。このまま、立ち上がれなくなるかもしれないくらい疲れている、そう思っていたのに、案外自分がそれほど疲れ切ってはいないことを意外に思った。荷物を二つまとめて、膝に乗せてみる。この重みが、翔真と暮らした五年間の全てだと思うと、さっきまでは重たく感じられていたはずのそれが、拍子抜けするほど軽いような気がした。これっぽっちか、と思う。たった、これっぽっちか。

 電車は静かに走り続ける。乗客もなぜだか、全員無口だ。俺は軽く眼を閉じて、少し眠ろうとした。眠ってでもいなければ、翔真の街から遠ざかって行くのが辛かった。でも、眠気はいっこうに訪れてくれない。目を閉じて、意識は覚醒したまま、俺は新しい街へと運ばれていった。

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