13

 次の週の土曜日、俺は慎一郎さんの喫茶店を訪ねた。夕方、店が開いたばかりの時間帯に焦げ茶のドアを開けると、店の中はほぼ満員状態だった。

 やっぱりな、珈琲美味しいもんな。

 そんなふうに思いながら、慎一郎さんに案内してもらって、カウンターに座る。慎一郎さんの表情からは、俺がやってきたことをどう思っているのかどころか、俺のことを覚えているのかすら読み取れなくて、鞄を差し出す手が、少し震えた。

 「鞄、返しに来ました。」

 「ありがとうございます。」

 慎一郎さんは、鞄をカウンターの中に置くと、俺の前に珈琲を出してくれた。俺はそれからしばらく、慎一郎さんが珈琲を淹れたり、忙しく客席の間を行き来する姿を眺めて過ごした。お客さんは常連が多いようで、人が多い割に店内は落ち着いていて静かだった。お客さんは入れ替わりながらもずっと多くて、これは慎一郎さんにお礼を言おうにも迷惑になってしまうな、と察した俺は、珈琲を飲み終わるとすぐに席を立った。

 レジカウンターで会計をしてくれながら、慎一郎さんがごく控えめな声で言った。

 「この時間は、混んでいるんですよ。」

 「そうみたいですね。」 

 「亮輔さんとお話したくても、そうもいかなくて……。」

 「あ、えっと、はい。」

 このひとは、俺と話したいと思ってくれているのか。こんな俺と、話したいと。

 俺は、じわりと胸が暖かくなるのを感じた。

 「あの、いつ、空いてますか?」

 ぎこちない口調を自覚しながら訊くと、慎一郎さんはレシートを渡してくれながら、少しだけ笑った。

 「夜中や、雨の日。……来てくださいって、言いずらいですね。」

 「来ます。あの、今夜。」

 「今夜?」

 「ご迷惑じゃ、なかったら。」

 「まさか、迷惑なんて。」

 「じゃあ、来ます。」

 慎一郎さんは穏やかに目を細め、小さく頷いてくれた。俺は、それが嬉しくて嬉しくて、レシートを受け取ると、弾む足取りで店を出た。一回家に帰って、少し仮眠でも取ってからまた店に来ようと思った。

 駅に向かって歩きながら、自分が浮かれているのが分かって、一気に絶望的な気分になった。あのやさしいひとは、俺を心配してくれているだけだ。あの、銀色の指輪をはめたひとは。それなのになんで、こんなに俺は浮かれているのか。

 「……馬鹿だな。」

 思わず小声で言いながら、駅の改札をくぐった。自分の感情にどんな名前が付くのか、それを認めたくなかった。ただ、あのやさしいひとに少し甘えたいだけ。それだけだから、許してほしい。額の奥の方で鈍く光る銀色の指輪に向かって、頭の中でそう呟いた。

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