第43話 神殿へ

 ヴェラは厨房へ向かった。満月が白色の壁を照らし、夜だというのに回廊は明るい。

 ずいぶんと長くねやにいたらしく、月の位置から察するにあまり時間がないだろう。

 セリオスとの行為を悔いてはいない。しかし、もうルートルに会えないのかと思うと胸が裂けそうになった。


「ええっ? どうしたんですか?」

 リコルが慌てた様子で声をあげる。ヴェラの入浴のためにベンチに座って待機していたようだ。

 ヴェラは立ち止まらずにひた走った。だが、鍛えられた騎士の足は速く、あっという間に追いつかれる。

「お菓子を焼きたいの。竈を温めておいて。うーん、薄い焼き菓子を作る温かさがいいわ。お願いね」

 一息に言うと、リコルが「は、はい」と戸惑いながら返事をした。




 ヴェラは頭に思い浮かんだ食材を抱え、聖域の家に駆け込む。セレーラの寝姿を見ると、心に不安がじわりと広がった。

 セレーラの手を借りるには、まず起こす必要がある。これまでヴェラが意図的にセレーラを起こしたことはない。だから、神を起こすと何か良くないことがあるのでは、と迷いが生じる。

 それでも手を動かさずにはいられず、材料を混ぜて生地を作り始めた。セレーラには成形を手伝ってもらえばいい。麦粉、バター、卵、蜂蜜だけを使う素朴な菓子は、コリネが好んで食べていたらしい。

 生地を休ませる間に食事の用意もした。セレーラを起こした後のことを予想し、対応できるように準備しておく。


 一度だけ声をかけて反応がなければ諦めようと決め、セレーラの腕にそっと触れた。

「ねえ、セレーラ、起きて」

「うーん」

 セレーラは眠そうに目をこすり、ゆっくりと上体を起こした。

「なあに?」

「一緒にお菓子を作るわよ」

 ヴェラが言った途端、寝ぼけ眼をしばたたく。そして、ぱっちりと目を開けた。

「セレーラね、お菓子好きー」

 嬉々として寝台を下りるのを見て、ヴェラは胸をなで下ろした。


『セレーラに遊びだと思わせる』

 コリネのレシピに書かれていた手伝わせる秘訣だ。どうなるかわからないが、どうにかするしかない。

 ヴェラは小さく分けた生地を平たい丸形にして見せた。

「一緒にやろう。楽しいわよ」

 気が向かないようだったが、ヴェラが次々に作るのをしばし見ていた。

 興味が湧いたのか、セレーラも生地の一つを手に取る。見よう見まねで作った形は少し不恰好だ。でも、確かにセレーラが作ったのだと一目でわかる。

 

 作業が終わるとセレーラは食事をし、寝台で横になってすぐに寝息を立て始めた。

 家の外に出てみれば、さらに月が傾いている。まだ東の空は白んでいない。ヴェラは生地を並べた板を持ち、庭園に急いだ。




 門のすぐそばでルシアとリコルが待っていた。どうしてか儀式用の青色の服を着ている。

「ヴェラさま、焼くのはリコルたちに任せてください。その間にお体を拭きましょう」

 ルシアはゆとりのない声で言った。

「何かあったの?」

「セリオスから話を聞きました。しっかりと身なりを整えて神殿に行きましょう。ヴェラさまがご自身でルートルさまに渡せるかもしれません」

「本当に? あたしが行けるの?」

「取り急ぎ計画を立てました。支度をしながら聞いてください」

 期待で胸が膨らみ、ヴェラは従うことにした。


 セレーラからルートルへの贈り物があるという設定で神殿に行く。儀式に臨席するセリオスが話を通すために神殿で動いているらしい。

 庭園の外を警備する神殿騎士と話がついていて、馬車の用意はしてあるという。


 湯気の漂う浴室に入ると、どっと疲れを覚えた。気が緩んでしまったのかもしれない。

「セリオスがむちゃをしたみたいですね。お体は平気ですか?」

 あらわになった肌には、セリオスが残した跡がいくつも見える。

「うん。平気よ」

「もし痛いところがあれば言ってくださいね」

 ルシアが湯に浸した布でヴェラの体を拭いていく。


「神殿に行く前に、直系が臨む聖杯の儀式について話しますね」

 ルシアの重苦しい声を聞いて、ヴェラは思わずごくりと喉を鳴らした。

「えっと、血を捧げるっていう?」

 聖杯の話は幼い頃から礼拝で聞いてきた。

 ドラゴンの眠りを維持するために、英雄の子孫が聖杯に血を捧げ続けている。五神の授けた聖杯に王公五家がそれぞれ血を捧げる。セレーラの聖杯にはエスター家の血が必要だ。

 怠ればドラゴンが眠りから覚めようとして大地を揺らす。これは聖女が神に奉仕しないと大地が祝福を失うのに似ていると思う。


「一般にはほんの少しの血を捧げればいいと伝わっています。ですが、それでは全く足りないのです」

「足りないって、どれくらい?」

「とても多くの血が必要としか言えません」

「えっと、聖杯ってそんなに大きくないわよね?」

 神殿の祭壇には複製が飾られていて、ヴェラも目にしたことがある。片手で簡単に持てそうな大きさであり、それほど多くの血が要るとは思えない。

「聖杯は血を飲むと言われています」

「飲む?」

「はい。血を聖杯に落とすと染み込むように消えていくのだそうです」

 聖杯が欲する血の量をはっきりと知ることはできない。消えずに底に溜まり始めたところで、初めて満たされたとわかるのだ。昔はそれが明らかでなく、大地が繰り返し揺れたという。

 多くの血が必要なのに、聖杯が受け入れるのは直系の印を持つ者の生き血に限られる。これが直系が多くの子をなす大きな理由だ。人数が多ければ多いほど一人一人にかかる負担が減る。

 直系の印を持っていても、死者の血では意味がない。だから、先が短いとわかった者は聖杯に血を注ぎながら最期を迎える決まりになっている。 


「えっ、じゃあ、もしかして、今日の別れの儀式って・・・・・・」

 ヴェラは激しい胸騒ぎに襲われた。悪い予感が外れてほしいと願う。

「ルートルさまが永遠の眠りにつく儀式です」

「療養院に、行くんじゃないの? 遠くに行くって、セリオスは言ってたわ」

 声が震えてうまく言葉が出てこない。

「ヴェラさまが悲しむからと、本当のことを話せなかったそうです」

「そんなの、ちゃんと話してほしかったわ。後で知るのはもっと悲しいもの」

 ヴェラはうつむいた。きつく握った拳をルシアの手がそっと包む。

「お気持ちはわかります。わたしの娘も、聖杯に血を注いで直系の役目を果たしたそうです。それを知ったのはエスタリアに来てからのことでした」

 ルシアがぐっと涙をこらえるのを感じた。

 短命だったというルシアの子は、オスター家の直系男子との間に生まれた。どんなに幼くても直系の務めを負わなければならないのか。と、ヴェラは胸が苦しくなった。

「ですが、今は真実を知る者の気持ちもわかるのです。ヴェラさまが知らないままでいるのが最善ではないかと思い、わたしもお伝えしないつもりでした」

「でも、話してくれたのよね。ありがとう」

 二人分のすすり泣く声が浴室に響いた。




 身支度を終えたヴェラは、焼き菓子を入れたバスケットを持って神殿に向かった。

 山の向こうから夜明けの色がにじむ。当番でない者はまだ眠っていたはずなのに、聖騎士も皆そろっている。ここにいないのはセリオスだけだ。

 気がはやるといえども、〈聖女の庭園〉の外では正しく振る舞わなければならない。平静を装って悠然とした態度を保つ。

 大広間の扉が見える所まで行くと、騎士たちの姿が目に入った。白色の神殿騎士よりも赤色の騎士が目立つ。

 その赤色のマントは警備隊が身に着ける物と違いがある。派手な装飾が施されていて、当主の親衛騎士なのだとわかる。警備隊の中でも特に優秀な者が就く栄誉ある職だ。

 ルートルの親衛騎士にしては人数が多い。ヴェラは気後れしないように胸を張って前を見据えた。


 すると、扉が開いてセリオスが廊下に出てきた。ヴェラに向かって真っすぐに歩いてくる。駆け寄りたい気持ちを抑え、ヴェラもゆっくりと近づいた。

「儀式は?」

「まだ始まっていません」

「よかった。間に合ったのね」

「残念ですが、ルートルさまはヴェラさまとお会いにならないそうです」

 ほっとしたのは一瞬だけだった。視界がぐにゃりと歪んだ。

「先例のないことですので、反感を持つ者が出るかもしれません。今日の儀式には他家の当主も来ていますし、ヴェラさまが非難されるのを避けたいとのことです。このまま庭園にお帰りください」

 ルートルは大広間で儀式の準備に入っているという。会おうとすれば、ヴェラは大勢の目にさらされることになる。

 最後の最後までルートルはヴェラを気遣い、守ろうとしてくれるのだ。感謝の思いで胸がいっぱいになった。

「菓子は受け取るそうです。表向きは孫からの贈り物になりますが、ルートルさまはわかっていますから」

「うん。手を尽くしてくれてありがとう。ルートルさまにも『ありがとう』と伝えて」

「はい。確かにお伝えします」

 セリオスに差し出された小皿に、セレーラが作った不恰好な菓子をのせた。


 ルートルには会えなかったが、菓子を食べてもらえるだけで十分だ。

 後先なしに動いたヴェラに皆が力を貸してくれた。振り回してしまったのに、嫌な顔を見せない。

 だから、一安心するとともに申し訳ない思いにもなった。

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