第39話 ルートルとコリネ

 若かりし頃のルートルは直系の役目に嫌気が差していた。エスター家当主の息子であったルートルも、よく知らない「妻」と呼ばれる女性たちと交わらなければならない。とても億劫だったが務めを怠らず、補佐神官になった二十歳の時には十七人の子をもうけていた。


 当主が父から兄に代わり、ルートルは傍系となった。「兄」と言っても多数いる中の一人だから、兄弟という実感はない。

 ちょうどその時、〈聖女の庭園〉では男性の補佐神官が交代の時期を迎えていた。正直なところ、聖女に仕えたがる者は少ない。庭園に入ってしまえば、外界との関わりが制限されるからだ。しかし、心が疲弊していたルートルには、閉鎖的な〈聖女の庭園〉が理想の場所に思えた。

 ルートルの他にも手を挙げる者はあったが、役に就くために熱弁を振るった。そのかいあって、補佐神官に任ぜられた。新任の補佐神官は引退する者の下で教育を受ける。約一年の教育期間だけ、三人の補佐神官が庭園にいることになる。


 ルートルより少し年上のコリネは、弟ができたようだとかわいがった。その清麗な笑顔にルートルは魅せられた。貴族の中にあっては、笑顔とは冷たく汚らわしいものだと感じていた。

 庭園に入るまで聖女に懸想するなど考えたこともない。侵してはならない崇高な存在だった。それが、聖女が求めれば体を重ねてよいというのだ。逆に言えば、聖女が求めなければ交われない。

 ルートルはコリネに求められたいと切望した。しかし、聞くところによるとコリネは誰にもそういった態度を見せたことがないらしい。ルートルよりずっと魅力的な聖騎士にも関心を持たないのなら、機会が訪れることはないかもしれない。そう考えて思いを胸の奥底にしまい込んだ。


 ルートルが思いをひた隠そうとしているのに、コリネから近づいてくるのだから困ったものだ。

 ある日、コリネに「レシピを書いてほしい」と頼まれた。庭園に来ていなければ神殿で写字生になっていただろうと話したのが発端だ。

 引き受けたのはいいが、既にある文章を書き写すのとは訳が違う。コリネから材料や工程を聞き取り、自身で書き起こさなければならない。

 ただ、それによってコリネと二人で過ごす時間が増えたのは喜ばしかった。何を、どれくらい、どのように。詳細を聞く中で、コリネが体を寄せたり、手に触れてくることもあった。

 ルートルは心をかき乱されるとともに、期待で胸を膨らませた。それだけ密に接してくるのだからコリネも同じ思いを抱いているのかもしれない、と。

 しかし、コリネがルートルに男女の関係を求めることはなかった。


 ルートルが庭園に入って数年が過ぎた頃、エスター家当主とその子らが急死した。直系と呼ばれる人が突然に絶えたのだ。

 知らせを聞いて誰もが動揺したというのに、ルートルはコリネのことばかり考えていた。直系だとか英雄の子孫だとか、そんなことはどうでもいいとさえ思った。

 欲にまみれたせいで罰を受けたに違いないと思った。神は次の当主にルートルを選んでいた。そうなると補佐神官ではいられないし、庭園を出ることになる。それでもまだ、コリネと離れたくないなどと愛執を断てずにいた。


 ルートルが当主になったと知り、コリネは祝いのベリータルトを焼いた。ちょうど聖域ではベリーが実りの季節を迎えていた。

「セレーラにも手伝わせたのよ。わたしの大切なルートルのお祝いだもの」

 そう言って見せたとびきりの笑顔がまぶたの裏に残る。

 ルートルは庭園を去る前にベリータルトの作り方を聞いた。最後にどうしても二人きりで過ごしたかった。

「よくわかりません。もっと詳しく教えてください」とコリネに迫った。もう今までのように会うことはないのだからと、ルートルから触れようとしたのだ。

 指を絡ませた。髪をなでた。息が混じるほどに近づいた。唇が触れようかという時、コリネは「セレーラが呼んでる」と言った。いつもなら眠っているはずの時間なのに。しかし、その真偽をルートルは知りようもない。

 強引に唇を合わせればよかったと悔やみながら、ルートルは庭園を後にした。


 当主の仕事は楽ではないが苦でもない。コリネがセレーラに仕えるように、ルートルもエスタリアの民のために力を尽くそうと努めた。

 ただ、再び「妻」という存在と交わるのが苦痛だった。頭の中にコリネを思い浮かべながら妻を抱いた。

 ルートルは行為を手早く終わらせて、ベリータルトのレシピを書いた。コリネとのわずかな甘いひとときに浸り、不快感から逃れようとしたのだ。




「そうして書き上げたのがこのレシピです」とルートルはレシピを胸に抱いた。

「あの、あたし・・・・・・」

 ヴェラはかける言葉をうまく見つけられなかった。

「醜い感情をさらけ出しすぎて、がっかりさせましたかな」

「ううん。恋をするってきれいなことばかりじゃないもの。あたしだって・・・・・・」

「ヴェラさまもずいぶんと恋い焦がれているようですなあ」

 こくりとうなずいてヴェラは答えた。


「このレシピはあたしが持っていてもいい? コリネさまが一緒にいてくれるような気がして心強いの」

「はい。どうぞ持っていてください」

 ルートルはすっきりとした顔をしている。秘めていた思いを吐露して、心が晴れたのかもしれない。

「他の遺品はわたしが受け取ってもいいですかな?」

「いいわ。きっと庭園に残っていた物は一緒に埋葬できたのよね?」

「埋葬はしていません。聖女は聖域の中で最期を迎えますので、神殿に名を刻むだけの葬礼が行われます」

 奇妙な場所で迎える聖女の死とはどんなものなのだろう。聖女以外は聖域に入れないのだから誰にもわからない。聖域内に入れるヴェラでさえ、コリネの亡骸もセレーラが埋めたような跡も見ていないのだ。

「聖女が亡くなったら、風が吹いて教えてくれるのよね」

「そうですな。ですが、わたしは『風になる』と言うのが好ましいと思っています。神から解放された聖女が風になって行きたい所へ旅をする、と考えたいのです」

「そうね。あたしもそう言うのが好きだわ」

 いつかヴェラも風になって、懐かしい場所を渡るのかもしれない。


「どうやらセリオスが気をもみすぎて堪えかねているようですな」

 ルートルがセリオスに視線を向けた。ヴェラもそちらを見ると、落ち着かない様子のセリオスが目に映った。体を小刻みに動かし、服が傷むのではないかというほど自身の腕をさすっている。

「セリオスったら寒がりなのね」

「そうではないと思いますなあ」とルートルがくすりと笑う。

「そろそろ部屋の中に——」

 言いかけて「あっ」とヴェラは思わず声をあげる。ある考えが頭をよぎったのだ。

「もしかして、ルートルさまは執務室で中庭が見える机を使っていなかった?」

「よくおわかりになりましたな。特にレシピを書く時は明るさを求めて戸の近くに机を寄せたものです」

「コリネさまがこのベンチに座っていたのって、ルートルさまを見るためなんだと思うわ」

「わたしを?」

 セリオスの立つ後ろには執務室がある。暖かい季節には戸を開け放しているから、中で励むルートルの姿が見えただろう。

「あたしが同じように座ったら、きっとセリオスを見ると思うもの」

 ただの気休めを言ったのではなく、ヴェラは心からそう口にした。

「コリネさまがわたしを見ていてくれたのなら幸いですな」

 ルートルの目から一粒の涙がこぼれ落ちる。しかし、その表情はとても幸せに満ちているようだった。


 ヴェラはルートルの手を取り、応接室に向かって歩き出した。離れて見守っていたルシアと聖騎士が緩やかに動き出した。セリオスだけは勢いのある歩調で近づいてくる。

「聖域でベリーがなったら、ルートルさまのためにタルトを焼くわね」

「お気持ちだけで十分です。思いがけずコリネさまの遺品を手にすることができましたし、これ以上は望みません」

 ルートルの弱々しい声を聞いて、きっと体が冷えてしまったのだろうとヴェラは思った。

 この時のヴェラは、ルートルが声を細くした理由をまだ知らないのだ。

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