第32話 騎士とパン

 春祭の最終日、ヴェラは儀式のために広場に立った。初日に焚いた聖炎の篝火かがりびが勢いを弱めることなく燃えている。

 この日の儀式は武芸大会で優勝した騎士にパンを授けるというものだ。エスタリア公が執り行い、ヴェラは合図を見てパンを手渡していく。

 武芸大会には八つの競技がある。一つは神殿騎士隊の競技で、二つは騎馬隊の競技、あとの五つは警備隊の競技だ。

 名を呼ばれた騎士がヴェラの前でひざまずく。パンを受け取るとヴェラに言葉をかけるのだが、難しい言葉を使っていてよくわからない。セリオスに教わったとおり、ヴェラはただ笑顔を返した。

 マグナスも同じようにヘラルマの聖女からパンを授かっただろうか。思い人に愛を告げたのだろうか。騎士の姿を見て、そんなことを考えてしまう。




 儀式で騎士に渡すパンはヴェラが焼いた。聖炎の儀式の翌日からパン焼きの練習を重ねてきた。

 必ずしも聖女が焼く必要はないと言われたが、焼きたいとヴェラは願い出た。聖女が焼かない場合は神殿で用意するらしい。

 儀式の練習もしなければならないし、パン焼きをしている余裕がないのはわかっている。それでも、騎士に授ける特別なパンは聖女の手で焼くべきだと思った。という大層な理由は名目に過ぎず、心の奥にはパン焼きがしたいという欲があった。

 ヴェラのパンが基準に達しなければ神殿にお願いする。そんな条件付きで焼く練習を始めた。

 パン焼きを最後にしたのは村に住んでいた時だ。王都で焼いていたのはビスケットで、パンとは違う。久しぶりのパン焼きに胸が躍る一方、両親との記憶が思い起こされて切ない気持ちにもなる。


 地域が変わると使う麦粉や竈で燃やす木の種類が違う。それらの扱い方をヴェラに教えるのは、先代の聖女とパン焼きをしてきた聖騎士だ。

 パン焼きの少しの空き時間に聖騎士と交わす会話は、ヴェラの心を和ませた。

 儀式の練習やセレーラとの暮らしに多くの時間を使う。聖女としてやらなければならないことだと理解している。パン焼きを望んだのはヴェラで、忙しさは自身が招いたものだ。しかし、おしゃべりをする憩いのひとときも大切だった。


 ジェリとアクリスとパン焼きをしている時、新しい聖女が神殿に来るまでの話を聞いた。

「早駆けは聖女を運ぶ訓練ですのよ」

 ジェリは三十歳を過ぎた色気が漂う女性だ。そのあでやかさには同性のヴェラもどきどきさせられる。

「そうなの?」

「聖女の代わりに貴婦人を乗せて駆けるのですわ」

「あっ、じゃあ、あたしを乗せた騎士さまがブラシェルトからここまで連れてきてくれたの?」

「違うっすね。いくつもの隊が引き継いでヴェラさまをここまで送り届けてくれたんっすよ」

 軽い印象を与えるのはアクリスという男性だ。ジェリと同じく三十歳を過ぎていて、軽薄な見た目に反して中身はしっかりしている。


 都市を繋ぐ街道は聖女を速やかに神殿へ運ぶための道だ。このことは一般には知らされていない。聖女の代替わりはそうあることではなく、平時は人や荷物の移動に使われる。

 聖女は一日も欠かすことなく神に食事を用意しなければならない。務めを怠れば災いが起こる。しかし、聖女が代替わりする時だけはしばらく食事がなくても問題ないらしい。といっても限りがあり、新しい聖女の到着が早いに越したことはない。

 訓練を受けた馬が力走できる距離ごとに騎馬隊は配置されている。各隊が昼夜を問わず聖女を送り届けるべく神殿へと繋いでいく。

 街道の点検を担うのが乗合馬車だ。ただ旅人を乗せて走っているのではなく、道の傷みを見る役割がある。傷みがあれば職人たちが直ちに補修する。

 騎馬隊や職人のために礼拝堂が建てられ、集落ができた。それが街道沿いの宿場町として発展した。


 聖女が亡くなると風が吹くという。死を知らせる風を感じ取れるのは、それぞれの神が祝福を与える地域を治める家門の直系だけだ。セレーラの聖女の風を感じられるのはエスター家の直系だ。他の人にとってはただの風に過ぎない。

 各都市に屋敷を所有し、直系の一人が常に滞在している。聖女の風を感じるとすぐに屋敷の鐘を鳴らす。これを合図に、ドラゴンの邪気へ警戒を呼びかける鐘が鳴らされる。

 強まるドラゴンの邪気を防ぐには、聖女が神に命を捧げなければならない。一般にそう伝えられているし、ヴェラもそうだと信じてきた。しかし本当は、聖女の死後に新しい聖女を早く迎えなければ神の祝福が弱まり、ドラゴンの邪気が強くなる。ということらしい。

 どちらにしてもドラゴンの邪気が人々の心をむしばむことに変わりはない。それが強まるのだから、より速やかに対処する必要がある。


「どうして本当の理由を隠すの?」

「人を外に出さないためっすね。新しい聖女がどこかにいるってなれば、みんな見たくなるじゃないっすか」

「うーん。そうかもしれないわね」

「道がふさがれたら騎士の手間が増えるんっすよ。だから警鐘が聞こえたら近くの建物に入れって決めてるんっす」

「それだけじゃありませんわ。聖女を早急に保護するためでもありますのよ」

 得意げに話すアクリスに、ジェリが不十分だと言わんばかりの目を向ける。

「聖女を保護するって、どういうことなの?」

「〈聖女の兆し〉を持つ者は神に呼ばれて、無意識に聖域へ向かいますの。警鐘が鳴っても外を歩いている人が聖女の可能性が高いのですわ」

「みんなが家の中に入れば見つけやすいってことなのね」

 二人の話を聞き、ヴェラは感心して「へえ」とうなった。

 聖女に選ばれなければ知り得なかったことがたくさんある。きっと知らないことがまだまだあるのだろう。




「ヴェラさま、集中してください」

 セリオスのささやく声を聞いて、ヴェラはぼんやりしていた意識を儀式に戻した。

 八人の騎士にパンを手渡し、儀式は無事に終わった。広場から去る時、ヴェラは願った。騎士たちがヴェラの焼いたパンをおいしく食べてくれますように、と。

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