第30話 愛する人を思う色

 春祭を翌日に控えた昼過ぎ、聖女就任の儀式を行うためヴェラは神殿に来ていた。

 エスタリア地域を治めるエスター公爵家の、主に直系の人々に新しい聖女を披露する場だという。

 完成したばかりの衣や装飾品を身に着け、見た目はすっかり聖女だ。しかし、ヴェラ自身はまだ実感が湧かず、同じ顔をした別人が鏡に映っているように思う。


 神殿の廊下を行くヴェラの前にセリオスがいて、後ろにルシアがいる。それを囲むように十二人の聖騎士が配置されている。

 いつも親しげに接してくれるルシアや聖騎士も青色を着ている。その姿を見ると、ヴェラは身の引き締まる思いになった。

 儀式が行われる大広間の扉の前で、老いた男性がヴェラを迎えた。白色のガウンに施された刺繍の豪華さから、高位に立つ人なのだと想像できる。

「エスタリア公ルートルさまです」とルシアがヴェラにそっと声をかけた。

 前方を歩いていたセリオスと聖騎士がやや後方に移動し、ヴェラはルートルと向かい合う。

「ヴェラさまにお会いできる日を楽しみにしていました」

 ルートルは目尻に皺を寄せ、優しげに微笑んだ。とても温かみを感じる人だ。

「あの、ええと、今日はよろしくお願いする、です」

 ルシアたちとの会話ではもう敬語を使っていないが、ルートルには使うべきだと判断した。エスタリア公はエスター家の当主でもあり、つまりとても偉い人物なのだから。

 セリオスが小さく咳払いをするのが聞こえた。また失敗したのだと思った。

「とてもかわいらしいですなあ。すぐ近くでお仕えできるあなたたちがうらやましい」

 そう言ってルートルはヴェラの後方に視線を向ける。

「はい。とてもかわいらしいお方なのですよ」

 ルシアが嬉しそうな声で答えた。

「ほっほっ」とルートルは柔らかな笑い声をあげ、再びヴェラを見た。

「扉の向こうにはエスター家の者が集まっています。その光景に恐ろしさを感じるかもしれません。ですが、自信を持って皆の前に立ってください。ヴェラさまはわたしたちとセレーラさまを繋ぐ唯一の存在なのですから」

 ルートルの穏やかな口ぶりはヴェラに安心感を与えるようだった。




 ヴェラはルートルの後ろに続いて大広間に入った。短期間で身に付けた聖女の所作には不安が残る。それでも、もうやり抜くしかない。

 大広間は白色のガウンを着た人で埋め尽くされている。ヴェラに向けられた目の多くから好意は感じられず、背中に冷や汗が流れたような気がした。


「聖女は今まで何をしておられたんだ?」

「そうですわね。新年の宴より前にいらっしゃったのでしょう?」

「きっと何か問題をお持ちなのだろう」

 ひそひそと話す声が聞こえてきた。歓迎されていないのがひしひしと伝わってくる。

 ルシアと聖騎士がとても親切なので、エスター家の人々も同じように迎えてくれるのだろうと思っていた。

「ヴェラさま、背筋を伸ばしてください」

 背後からセリオスがささやいた。丸めてしまった背中に意識を集中させ、ぐっと胸を張る。

 祭壇への階段を上っている途中、ヴェラの爪先がチュニックの裾を踏んだ。よろめいた体をセリオスに支えられ、転ばずに済んだ。

「ごめんなさい」

 怒られると思い、とっさに謝った。

「どこか痛めてはいませんか?」

 予想に反して、セリオスは温かみのある声でヴェラを気遣った。

「ううん。痛くないわ」

 ヴェラは体勢を立て直して、次の段に足をかけた。

「見てごらんなさいな。あのようなお姿では明日の儀式が務まらないのではなくて?」

 その声を発端に、せせら笑いがあちらこちらから湧き起こった。

「静かにしなさい」

 ルートルの一声でざわめきがぴたりと静まった。怒鳴り声をあげたのではない。穏やかながらも芯の強い声は、静かに燃える燠火おきびのようだった。


 祭壇の前でヴェラは聖女の冠を戴いた。ひりひりした雰囲気の中で、ルートルがヴェラに向ける優しげな眼差しが救いに思えた。




 神殿と〈聖女の庭園〉の間は馬車で移動する。歩ける距離だと思うが、聖女がそうするわけにはいかないようだ。 

「立派にやり遂げましたね」と同乗するルシアに声をかけられ、ヴェラは思わず涙をこぼした。

「ねえ、あたしはいつ聖域から出てくる予定だったの?」

 ヴェラが尋ねると、ルシアは眉間に少し皺を寄せた。

「そうですねえ・・・・・・。冬の初め頃には出てこられるだろうと考えられていました」 

 ルシアの説明によると、新しい聖女は聖域に入ってからおよそ三十日で出てくることがほとんどだという。セレーラの聖女だけでなく、他の四神の聖女も同様に。しかし、ヴェラは三十日をずっと過ぎても出てこなかった。

 予想どおりに出てくれば、就任の儀式はもっと早くに行われていたし、準備をする余裕もあったはずだ。

 ヴェラは不十分なままで儀式に臨み、醜態をさらした。


「待たせてごめんなさい。失敗してごめんなさい」

 ヴェラは首を垂れ、弱々しい声で謝った。震えるヴェラの手をルシアが慈しむようになでる。

「何も悪いことをしていないのですから、謝らないでください」

「ルシアはあたしに甘すぎると思うわ」

「そう思いますか? まだ甘やかし足りないですよ」

「え? 今でもすごく良くしてもらってるのに?」

「わたしはもっと甘えてもらいたいです」

 ルシアは冗談で言ったのではないという顔をしている。

「今以上に甘えたら子どもみたいだわ」とヴェラは思わず笑みをこぼした。

「子どものようでも構いません。わたしはヴェラさまに幸せでいてほしいのです」

 光の粒をまとったように輝くルシアの笑顔に、なぜだか母の面影が重なる。きっと髪色が似ているせいだ。それに、生きていれば同じくらい年をとっていたはずだ。




 この日、ヴェラは聖域に戻るまで手厚く扱われた。儀式の練習をしたいと言っても、疲れを取るのが先だと返ってくる。

 ヴェラの求めに応じたのは、意外なことにセリオスだった。聖域内でもできる練習方法を教えてくれた。

 皆とは違ってセリオスはヴェラと一線を引いている。それは良く思われていないからだと考えていたが、もしかすると違うのかもしれない。


「儀式は必ず成功します。わたくしが隣にいます。つまずいたとしても、つまずいたとわからないように対処します。ヴェラさまは堂々とした態度で臨んでください」

 聖域に帰る前、セリオスが聖炎を灯すランタンをヴェラに手渡して言った。

 頼もしさを感じる真っすぐな目だ。頬を赤らめ、口元にはわずかに笑みが浮かんでいるように見える。

 つまずいたヴェラを支えた腕のたくましさは、マグナスを思い出させた。

 腕だけではない。セリオスの瞳はマグナスに似ている。顔つきは違うけれど、瞳の色や宿る何かが似ているのだ。

 マグナスに会うことはもうないだろう。こんなことになるのなら、思いを伝えておけばよかった。悔やんでも悔やみきれない。


「どうしましたか?」

 セリオスの声で意識が引き戻される。

「ううん。どうもしてないわ」

「やはり不安、ですか。わたくしが未熟なばかりに・・・・・・」

「えっと、そうじゃないの。じゃあ、また明日ね」

 ヴェラはセリオスの瞳から逃げるように聖域へと入った。

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