第29話 応えたい思い

 ヴェラは寝台に肘をつき、すやすや眠るセレーラの顔を見た。ルシアの話によると、この女の子がエスタリア地域に祝福を与える神なのだという。これまでの奇妙な出来事が神のなせる業だと考えれば、納得できるような気がする。

 どっと疲労感が押し寄せ、頭が働かず、まぶたが重い。ここに来たばかりの頃は不安にさいなまれていたはずなのに、今では安心できる場所だと思える。




 体を揺すられてヴェラは眠りから覚めた。

「ねー、起きてー。お腹すいたー」

 セレーラがいつもの調子で食事を催促する。

 すっきりした目覚めではなく、まだ寝ていたいと思うくらいに気だるい。幸いなことに鍋には豆のポタージュが入っている。森からすぐに戻れなかった時のために作っておいたものだ。


 さっと食事の用意をしてセレーラと一緒に食べる。

 味の薄いポタージュを口にすると、前日に食べたパンとポタージュのぜいたくな味が思い出された。セレーラにも食べさせたかったのに、持たずに帰ってきた。

 着ていた服なども置いてきた。目印にしようと持ったはずのセレーラの髪の毛は、いつの間にか消えていた。


 食材の調達をするため、セレーラが眠るのを待って家を出た。ヴェラが王都から着てきたであろう青色のマントを持って。

 森に足を踏み入れてみると、やはり森ではなく建物が姿を現した。

 門の前でヴェラは立ち尽くす。セリオスと顔を合わせたくないと思うと、声をかけるのも入っていくのもためらわれるのだ。


 少しするとルシアがやって来て、ヴェラを招き入れた。

 周りをきょろきょろと見回すが、ルシア以外の姿は見えない。

「昨日はセリオスが失礼な態度をとってごめんなさいね。今日は執務室で仕事をするよう言ってありますので、会わないと思いますよ」

 ヴェラが憂慮していることを知っているかのような話しぶりだ。

「今日はわたしとお話をしませんか? 知りたいことがたくさんあるでしょうから」

 ルシアの柔らかな笑みにヴェラの緊張感は少し和らぐ。

「はい」とヴェラはうなずいた。

「お部屋の中もいいですが、天気がいいので回廊のベンチに座るのもいいかもしれませんね。ヴェラさまはどちらがいいですか?」

「かいろう?」

「中庭を囲む廊下のことです」

 ルシアが中庭の縁をなぞるように指さした。その指し示す先を目で追うと、途中にいくつかのベンチがあるのが見える。

「えっと、ベンチがいい、です」

 外を選んだのは、部屋の中よりも多くの音が聞こえると思ったからだ。セレーラの家がある場所は静かすぎる。いつも生活の中にあった鐘の音が聞こえないのは寂しいことだった。




 近くのベンチに座るなり、ヴェラは青色のマントをルシアに差し出した。

「これは聖女さまのマント、ですか?」

「そうですよ。説明を始める前に一つ。ヴェラさまは敬語を使わなくていいのですよ」

「えっと、あたしの敬語が下手だから、ですか?」

「いいえ、そうではありません。きっと使い慣れていないのですよね? 気を楽にして話しましょう」

「でも、ルシアさんは神官さま、です」

「今は立場を考えず、聞きたいことをどんどん聞いてください。まずはヴェラさまに状況を把握してほしいのです」

 ヴェラは少し考えて、ルシアの言うとおりにすることにした。使い慣れていない敬語で話そうとすれば、ゆっくりとした話し方になる。わからないことが多いのに、このままではまた疑問を残して一日が終わってしまうと思った。

「じゃあ、いつもみたいに話すわね」とヴェラは言いながら、ルシアの顔色をうかがった。

「はい。そうしてください」

 柔和な笑みを浮かべたままのルシアを見て、ヴェラは一安心した。


「どうしてあたしが聖女に選ばれたの?」

「その質問にお答えするのは難しいですね。神がどのように聖女を選ぶのかは誰にもわかりませんので」

「なのに、どうしてあたしが聖女だとわかったの?」

「ヴェラさまの目に〈聖女の兆し〉が現れたからです」

「えっと、兆し?」

 マグナスも同じ言葉を口にしていたのを思い出す。

「ヴェラさまはご自身の瞳が銀色になっているのを鏡で見ましたよね?」

「見たわ」

「神に選ばれてから聖域に入るまで、聖女の瞳は元の色と銀色に繰り返し変わります。それを〈聖女の兆し〉と呼びます。聖域に入ると完全に銀色の瞳になるようです」

 たぶんマグナスも〈聖女の兆し〉をヴェラの目に見たのだ。

 しかし、どうやって聖域まで行き着いたのだろう。

「あたし覚えてないの。騎士さまの馬に乗って、知らないうちにセレーラの家にいて・・・・・・」

「聖女は皆そうなのです。神の声が頭の中で響き、気づいた時には聖域内にいるのだと聞いています。聖域への門までは騎士たちが送り届けているのですよ」

「じゃあ、あたしの名前は連れてきた騎士さまに聞いたの?」

 どうして知らない人たちがヴェラのことを知っているのか。疑問に思っていた。

「それもありますが、〈聖女の兆し〉が現れてからエスター家が身元を調査したのです。ヴェラさまは知り合いの騎士と一緒にいたため、確認が早くできました」

 最後に見たマグナスの悲痛な顔が、ヴェラの脳裏に浮かんだ。




 回廊に面する扉から一人の女性が出てきた。皆と同じ服を着ていることから、聖女に仕える者なのだろう。

 ベンチに近づき、ヴェラとルシアの間に飲み物と菓子を置いた。女性はにこりとして、部屋に戻っていった。

「ハーブ湯と揚げ菓子です。どうぞ食べてください。もちろん、お代は必要ありませんよ」

 ルシアは優しく息を吐くように笑った。その笑う声に母親が幼子のおでこに口づけするような慈しみを感じた。

 甘い匂いに誘われ、ヴェラは盛られた揚げ菓子を一つつまんで口に入れた。さくっと音を立てたかと思えば、ほろりと口の中でほぐれる。


 あまりにもおいしくて手が止まらず、気づけば揚げ菓子の山は小さくなっていた。

「たくさん食べてごめんなさい」 

「全部食べていいのですよ。ヴェラさまのために用意したのですから」

 ルシアは嬉しそうに笑って、器をヴェラの方に寄せた。

「あたしのため?」

「昨日、ヴェラさまが聖域に戻った後で聖騎士が話し合ったのです。次に何を食べてもらおうか、と。それはそれは張り切っていましたよ」

「騎士さまが作ったの?」

 騎士が料理をするなんて聞いたことがない。ヴェラは耳を疑った。

「そうです。現在、この〈聖女の庭園〉では二人の補佐神官と十二人の聖騎士が暮らしています。昨日のように職人を呼んだりすることもありますが、原則として自由に出入りができない場所です。なので、多くのことを自分たちでしなければなりません。神官や騎士としての仕事もありますが、それ以上に、聖女を支えることがわたしたちの重要な役目なのです」

 ルシアの手がヴェラの手に重なる。

「すぐにとは言いませんが、わたしたちのことを家族だと思ってほしいのです」

「家族?」

「これからヴェラさまはこの場所で暮らしていきます。立場上は主従の関係ですが、家族のように接してもらいたいのです」

 切々と語りかけるようなルシアの声が、ヴェラの胸に響いた。

「えっと、まだよくわからないわ」

「今はそれでいいのです。ヴェラさまに親しんでもらうために、わたしたちが尽力しますので」


 一呼吸おいて、ルシアが表情を引き締めた。

「とても言い出しにくいのですが・・・・・・」

 雰囲気が重くなったのを感じ、ヴェラは息を呑んだ

「もうすぐ春祭が始まります。そこでヴェラさまは民衆の前に立たなければなりません」

「春祭・・・・・・」

 ヴェラは自身がノヴァテッレ国の東部エスタリア地域にいるのだと思い知った。セレーラはエスタリア地域に祝福を与える神なのだから当然だ。落ち着いて考えればわかることだが、気が動転していてそこまで考えが及ばなかった。

「初日の儀式まであまり日がありません。セリオスが焦っていたのはこのためなのです」

「儀式って、聖炎を灯す?」

「はい。それと、最終日には騎士にパンを授ける儀式があります」

 セントリア地域の新年祭で聖女が行う儀式と同じだ。

「あっ。もしかして、次の満月が春祭の初日?」

「そうです」

 ヴェラの心に動揺が広がった。聖域で見上げた月の形から察するに、春祭が始まるまであと十日ほどしかない。

「どうしよう」とうろたえるヴェラの手をルシアが力強く握った。

「不安に思うのは当然のことです。わたしたちがついていますので、どうか頼ってください」

 そう言われても、ヴェラの胸に気弱な思いが浮かぶ。聖女として儀式を行う自身の姿が想像できない。

 しかし、自信が持てないなどと言っていられないとも思う。人々は神が授ける聖炎を待ち望んでいる。王都で聖女が聖炎を灯すのを見て、どれだけヴェラの心が震えたことか。もしエスタリア地域に新たな聖炎が灯らないとしたら、絶望が人々を襲うだろう。そう考えると恐怖で背筋が寒くなる。

「教えて。どうすればいいのか。あたしが聖女だなんて、まだ信じきれないわ。でも、やらなきゃいけないのよね」

「ヴェラさまの決意に感謝します」

 ルシアは目を潤ませながら、喜びに満ちた笑みを浮かべた。期待に応えたいという思いがヴェラの心に芽生えた。

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