第21話 マグナスとの外出
「マグナスさん、敬語の練習を終わりにしたい、です」
ヴェラがそう切り出したのは、冷たい秋の風を感じる頃のことだ。次の満月の日になれば新年祭が始まる。
ヴェラに求婚したアルテオからの連絡はない。エテルファム家が安宿の娘との結婚を、そう簡単に許すわけがない。
連絡がないことにヴェラは安堵の思いを持っていた。アルテオに対する印象は良いものではなく、できれば会いたくないとさえ思うのだ。しかし、本当に許しを得てヴェラを迎えに来たら、断ることはできないだろう。裕福な商人との縁談など、二度とあるものではない。
ヴェラが他の人との結婚を望めば、アルテオとの話はなかったことになる。叔母ベルカが示したこの条件はただの夢に過ぎない。ヴェラが結婚したいと望むマグナスには思いを寄せる人がいるのだから。
敬語の練習はヴェラがマグナスに会いたいがために言い出したことだ。面倒見がいいマグナスは、ヴェラの思ったとおりに付き合った。
責任感の強さのせいか、マグナスはより頻繁に宿を訪れるようになった。会いたいとはいえ、そこまでしてもらうのは悪い気がしていた。
「敬語を話せるようになりたいんだろ?」
マグナスは困惑の表情を浮かべる。
「もうすぐ新年祭だから、です。マグナスさんは武芸大会に出る、ます」
「そこは『出ます』だよ」
「うーん。武芸大会に出ます。練習に集中してほしい、です」
「じゃあ、それまで敬語を使わないってことでいいんだな?」
「敬語だけじゃなくて、ここに来ないでほしい、です」
「そう言われてもな。来るよ。おれはヴェラちゃんに会いに来る」
ヴェラは首を横に振って答えた。
「どうして?」
「次は必ず優勝してほしいから、です」
「もう敬語はいい。ちゃんと理由を言ってくれ。優勝のために来るな? そんなの納得できるわけないだろ」
ヴェラは答えに窮した。
敬語なんかどうでもよくて、マグナスに会いたかっただけで、それが心苦しくなったから。そんな本当の理由を言えば、マグナスは軽蔑の目を向けるだろう。
「マグナスさんは来すぎるのよ。疲れてる時だって、ここに来るんだもの」
「どんなに疲れてても、ヴェラちゃんに会うと元気になれるんだよ」
「じゃあ、あたしに会わなくてもいいようにしなきゃ。どうせ結婚したら会えなくなるんだから」
ヴェラが言った途端、マグナスの表情は苦いものを口に入れたように変わる。そして、しばし思案顔を浮かべた。
「今度、一緒に出かけよう。おれにヴェラちゃんの一日をくれ。そしたら武芸大会が終わるまで来ない」
決意を感じさせるマグナスの言葉に、ヴェラは「いいわよ」とうなずいた。
約束の日、ヴェラはいつもより丁寧に髪を編み込み、良い服を着てマグナスを待った。
「変なところはない?」
家族に何度も尋ね、体をひねって自身の目でも確認する。
「あんまり動くと崩れちまうよ」
ベルカに言われて、やっと動きを落ち着けた。
とはいえ、そわそわするのを抑えきれず、バスケットを持つ指が動いてしまう。バスケットにはマグナスに頼まれたパイが入っている。それと、ヴェラからの贈り物も。
身なりを整えたマグナスがヴェラを迎えに来た。騎士の服ほど堅苦しい印象ではないが、いつも宿で見る気楽な服でもない。色気を感じさせる男の姿は、ヴェラの胸をうるさいほどに鳴らす。
「楽しみにしていた、です」
ヴェラはたどたどしく敬語で話した。
「『いました』な。でも、今日は敬語を使わないこと」
「どうして、ですか?」
「今日は楽しむ日なんだから難しい顔はしないでくれ。ほら、ここに皺が」
そう言ってマグナスは人差し指でヴェラの眉間に触れた。
「何をするの、ですか?」
ヴェラはわずかに後ずさったが、さらに鼻筋をすっとなぞられる。
「もうっ、やだ、くすぐったいわ」
耐えきれずにヴェラは笑い出した。
「そうそう。今日はとびきりの笑顔をおれに見せてくれ」とマグナスは目尻に皺を寄せた。
マグナスはヴェラをとっておきの場所に連れていくのだという。
歩きながら普段のように雑談を交わすが、マグナスの表情には少し緊張感が見える。
大きな門の近くにヴェラは導かれた。王都ブラシェルトの東門だ。
ブラシェルトは石積みの高い壁で囲まれている。その外側に繋がる四つの門が東西南北にある。ヴェラの住む地区は東門に近いので東門地区と呼ばれるし、東門地区に配置された騎士隊を東門隊と呼ぶ。マグナスが属するのも東門隊だ。
門の両側に塔がそびえ、そこから左右に壁が巡らされている。
塔の扉の前に二人の騎士が立っている。マグナスがひっそりと声をかけると、騎士の視線はヴェラに向けられた。そして、ふざけるようにマグナスの背中を軽く叩く。
扉が開かれると、中には上へ続く階段が見える。
「あたしが入ってもいいの?」
おずおずとヴェラは尋ねた。
「ちゃんと許可はもらってるし、他の騎士だって特別な人と来てるんだよ」
マグナスがそう言うのだから平気なのだろうと思う。しかし、特別な人とはどういう意味なのかと新たに疑問が浮かんだ。
ヴェラは息を切らしながらゆっくりと階段を上った。後ろからマグナスが余裕のある声で励ましの言葉をかけ続ける。
「おれが抱えて上るよ」という提案を拒否したのだから仕方ない。体力に自信のあったヴェラだが、塔の階段を上るのは思ったより大変なことだ。
マグナスにバスケットを預けていなければ、落としてしまっていたかもしれない。
階段を上り切ると、大きな鐘が目の前に現れた。時を告げる礼拝堂の鐘とは違い、人を集めたり危険を知らせるために鳴る鐘だ。
そこにも騎士の姿があり、マグナスがヴェラの前に出て声をかける。下にいた騎士と同じく視線をヴェラに向け、マグナスの背中を軽く叩く。騎士ならではの挨拶なのかもしれないとヴェラは思った。
壁の上は通路になっていて、通路の両側にはマグナスの胸の高さくらいの壁がある。ヴェラは少し爪先立ちをして壁の向こうをのぞく。
高い所から見る景色に「わあ」と詠嘆の声をあげた。
壁の外側に延びる大きな道は街道だろう。遠くに目をやると畑や森が広がり、小さな集落もある。ずっと先には山が見える。
壁の内側では所狭しと建物がひしめいている。そこから空に向かってそびえる礼拝堂の鐘楼はよく目立つ。中央付近の小高い所に建つのは王城とヘラルマ神殿だ。ぐるりと壁で囲まれ、それはブラシェルトを囲む壁に似ている。
「気に入った?」
「うん。すごいわ」
気分が高揚したヴェラは、あれやこれやとマグナスに尋ねた。その一つ一つにマグナスは丁寧に答える。
景色からマグナスへ視線を向けると、その表情は喜びに満ちているようだった。うっとりするほどに麗しく、ヴェラは心を奪われる。
きっとマグナスへの思いを忘れることなどできない。ヴェラはそれほど切に焦がれているのだ。
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