第20話 欲する心

 武芸大会から帰ったヴェラはビスケット焼きに取りかかった。この日は手の空いた人が焼くことになっていたが、早めに戻ったためその役目を引き受けた。

 温かい竈の前はヴェラにとって心が安らぐ場所だ。




 ビスケット焼きは終わりに近づき、竈に入っている分の焼き上がりをヴェラは待っていた。厨房から中庭へ出る戸の向こうには薄暮が迫っている。

「やあ」と聞き慣れた声がした。目を向けるとマグナスの姿がある。

 ヴェラは驚いた。武芸大会の後、騎士は酒場に集まって宴を開くのが通例だ。だから、今日は来ないと思っていた。

「えっと、どうしたの? 今夜は宴があるんじゃないの?」

「ああ、まあ、そうだな」

「じゃあ、どうして来たの?」

 マグナスは布の包みを出した。

「ヴェラちゃんにこれを」と包みを開く。中には一切れのパンが入っていた。

「パン?」

「そう。聖女さまのパンだよ。ヴェラちゃんに食べてもらいたくて持ってきたんだ」

 武芸大会の優勝者に聖女がパンを授与する。その特別なパンは大きく、同じ隊の騎士で分け合うのだという。


「槍術で優勝したのが東門隊の騎士でさ、おれももらったんだよ」

「それは騎士さまが食べるパンでしょ? あたしが食べるなんてできないわよ」

「おれがそうしたいんだ。ほら、口を開けて」

 マグナスはパンをちぎり、ヴェラの口元へ近づける。

「自分で——」と口を開くと、唇にパンが押し当てられた。ヴェラは一片のパンを受け入れた。

 マグナスの指がすっとヴェラの唇をなぞる。頭がうっとりとして、そのままもてあそばれてもいいとさえ思った。


「おいしい?」

 マグナスの声でヴェラは我に返った。口に広がるパンの味に集中する。

「柔らかくて、甘くて、すごくおいしいわ」

「だろ?」とマグナスは嬉しそうな笑みを浮かべた。この笑顔をいつまでも近くで見ていられたらいいのに。ヴェラの胸はきゅっと痛んだ。




 オーバルがポタージュの入った器をそっとマグナスに差し出す。

「ぎ、今日は寒いがら温がいうぢに食え」

 気遣うような声でぼそりと言った。

 マグナスは器を受け取り、一口飲んで「うまい」とつぶやいた。

「きっと体が冷えてるから元気がなさそうに見えるのね。飲んで温まったら宴に戻るといいと思うわ」

「ここで休んでてもいいか?」

「あたしはいいけど。疲れてるなら帰って休んだら?」

 マグナスは何か言いたげにしながら視線を揺らした。


「お、おれは」とオーバルが口を開いた。

「お、おれはヴェラをぢゃんと思っでる男と結婚させだい」

「ちょっと、父さん。何を言い出すのよ」 

 唐突な発言にヴェラは戸惑った。

「ぎ、急に現れだ男じゃなぐ、ヴェラの近ぐにいる男がいい」

 オーバルは熱のこもった口調で言葉を続ける。

「が、格好づげだいのはわがる。で、でも言うべぎごどは早ぐ言え」

「落ち着きな」と割って入ったのはベルカだ。オーバルの背中をぽんと叩いて下がらせた。




 片付けや翌日の仕込みに動く厨房の隅で、マグナスはいつもの木箱に座っていた。ぼんやりと遠くを見るように、うつろな視線を漂わせる。

 何か声をかけようか。どんな言葉をかけたらいいのか。ヴェラは思い煩った。


「帰らなくていいの?」

 作業を終えたヴェラはマグナスに尋ねた。

「ああ。でも、迷惑なら帰るよ」

「どうしちゃったの? いつもなら遠慮なんてしないのに。まだいていいわよ」

 元気のないマグナスを励まそうと、ヴェラは努めて明るく振る舞った。

「ずっといたい。帰りたくない」

「えっと、うちに泊まってくの? 客室はいっぱいのはずだけど、母さんに聞いてみようか?」

「あ、いや、ちょっと言ってみただけだよ」

 マグナスは力なく笑った。

「本当に困った騎士さまね。今日は思い切り甘やかしちゃおうかしら」

 ヴェラは冗談めかして言ってみせた。

 マグナスに触れようと伸ばした手がぴたりと止まる。恋していることを自認すると、前のように気軽に触れられなくなった。望みのない恋だというのに、マグナスへの好意が抑えきれなくなりそうで怖い。


「じゃあ」とマグナスはヴェラの手を引き、自身の膝の上に座らせた。

「寒いから、温めて」

 そう言ってヴェラを背後から抱きしめる。

「これじゃ、あたしが温めてもらってるみたいだわ」

「いいんだよ。すごく温かい」

 ヴェラは右肩に重みを感じた。視界の端にマグナスの頭が見える。

 すぐ近くでマグナスの息遣いが聞こえる。髪が首に当たってくすぐったい。ヴェラの胸はどきんどきんと音を鳴らした。

 何も考えず、伝わってくる温もりに浸っていたい。ヴェラはマグナスに体を預けた。


 腹の前で組まれたマグナスの手にそっと触れる。もう十分すぎるほど接しているのだから、触れるのをためらうことはない。

 ごつごつした大きな手は少し冷たい。ヴェラは愛を込めて優しくさすった。

 この手はどんな貴婦人のために剣を振るったのだろう。考えると切ない思いが込み上げる。


「ねえ、マグナスさん。あたしに敬語を教えてくれない?」

 こぼれそうな涙をごまかすように、ヴェラは言った。

「敬語を? どうして?」

「その、ちょっと話せたらいいと思うのよ。マグナスさんは話せるでしょ? だから教えてほしいなって」

 ヴェラと話す時はくだけた口調のマグナスだが、改まった場では敬語を使う。

「構わないよ。でも、ヴェラちゃんが敬語で話すことなんてないだろ?」

「えっと、たとえば、裕福な商人さんと話したり、とかね。少しは勉強しとかなきゃ、と思ったのよ」

「ああ、そういうことね。・・・・・・いいよ。教えてやる」

 マグナスの声は少し震えているように聞こえた。ヴェラを抱く腕に少し力が加わる。

「ありがとう。お願いするわ。覚えが悪くても見限らないでよね」

「ヴェラちゃんこそ、おれの教え方が厳しいからって逃げるなよ」

「望むところだわ」

 ヴェラはマグナスの親切さを利用しようとしている。敬語を話せるようになるまで、きっと面倒を見ることだろう。


 マグナスの腕の中にいては、湧き出す感情を抑えるのが難しい。

 次の時を告げる鐘など鳴らなければいい。ずっとこのままでいたい。知らない貴婦人にマグナスを取られたくない。

 ヴェラは胸中にどろどろしたものが流れるのを感じた。

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