第18話 決勝前夜の恋心

 マグナスは順調に勝ち進み、決勝に残った。

「必ず来てほしい」という言葉とともに、ヴェラは二枚の観覧札を受け取った。騎士であっても武芸大会の観覧札を手に入れるのは難しいらしい。

 ヴェラと叔父オーバルが行くことになっている。


 決勝は新年祭の最終日に行われる。新年祭が終わりを告げるのは、満ちた月の昇る日だ。

 その前夜、ヴェラはなかなか寝付けずにいた。寝室の窓の向こうから月の光がかすかに入り込む。ほんのわずかに明るさを感じるだけで、室内の様子を映すほどではない。

 家族五人が並ぶ大きな寝台の端にヴェラはいて、隣で叔母ベルカが横になっている。その向こうでオーバルと兄弟が眠る。寝返りを打つ音と呼吸をする音が聞こえた。


「ヴェラ、どうしたんだい?」

 ベルカが心配そうにそっと声をかけた。

「どうもしてないわ。ちょっと眠れないだけなの」

「そんなわけあるかい。泣いてるってのに」

 言われるまでヴェラは自身が泣いていることに気がついていなかった。

「あれ? どうして?」

 手で拭っても拭っても、涙が止まらない。


「明日、行きたくない」

 ヴェラは胸のうちにあるものをぽつりと口にした。

「どうしてだい?」

「見たくないの」

「何を見たくないんだい?」

「マグナスさんが誰かに愛を捧げるのを見たくないの」

「その理由はわかるかい?」

「えっと、よくわからないわ。考えるだけで悲しくて、すごく苦しくて、胸が張り裂けそうになるの。明日になんてならなきゃいいとさえ思うのよ」

 ヴェラの目からさらに涙があふれ出る。

「マグナスさんに勝ってほしいけど、勝ってほしくない。あたし、どうしちゃったんだろう」


 ベルカがヴェラの背中を優しくさする。

「ヴェラはマグナスさんが好きかい?」

「うん。好きよ。親切にしてくれて、あたしの料理をおいしそうに食べてくれて・・・・・・」

 ヴェラの脳裏にマグナスの姿が浮かぶ。低い声も、柔らかな温もりも、すぐ近くにいるかのように思い出した。

「ずっと一緒にいたいわ」

「ヴェラはマグナスさんと結婚したいかい?」

「そんなの・・・・・・ありえないことだわ。マグナスさんは騎士さまだもの」

「じゃあ、マグナスさんが騎士さまじゃなくて、どこかの職人だとしたらどうだい?」

 ヴェラは想像した。見慣れた食堂で開かれる結婚の宴。笑い合うマグナスと子どもの姿。

 きっと、マグナスとの生活は幸せと輝きに満ちていることだろう。

「マグナスさんと家族になりたい。マグナスさんがあたし以外の人と結婚するなんて嫌よ。どこにも行かないで、ずっとあたしと一緒にいてほしいわ。マグナスさんの全部があたしだけのものになればいいのに」

 ベルカの胸に頭を強く押し当てて、ヴェラはむせび泣いた。


「ヴェラはマグナスさんに恋をしてるのさ。自分じゃわかってないみたいだけどね」

「恋?」

「そうさ。マグナスさんのことで頭がいっぱいになって、心が苦しくて、泣いちまうくらい好きなんだろ? それが恋じゃなきゃ、何だって言うんだい」

「これが恋なら、あたしは恋なんてしたくないわ。こんなにも苦しいだなんて」

「それでも、ヴェラの心はマグナスさんを思わずにはいられなくなっちまってるんだ。あらがおうとすればするほど、余計に苦しくなるだけさ」

「じゃあ、どうすればいいの?」

「受け入れるのさ。嬉しいことも悲しいことも全部。そして、相手の幸せを願うんだ。好きな人には笑っていてほしいもんだからね」

「母さんもそういう恋をしたの?」

「したさ」

 ベルカが言うと、その向こうでオーバルが咳をするのが聞こえた。

「父さんに?」

「まあ、初恋は別の人だったね。苦しい思いもしたさ。でも、好きでいて良かったと思うよ」

 幸せそうに懐かしむ声でベルカは言った。


「父さんは?」

「最初はただの親が決めた結婚相手だったんだ。けどね、この人の妻になるんだって意識したら胸がときめいちまったんだよ。他の女が話しかけようもんなら、あたいの男に手を出さないでおくれ、なんて嫉妬することもあったさ」

「母ちゃんにも女の子みたいな時があったんだな」と笑うフィレルの声がした。

「黙ってろよ。母さんとヴェラが大事な話をしてるんだぞ」

 すぐに兄であるオーティがたしなめる。兄弟も起きているようだ。

「父ちゃんは母ちゃんに恋したのか?」

 フィレルがさらに続けた。

「お、おれは、ずっど好ぎだ。ご、ごの宿に来でがら、ずっど好ぎだ」

 オーバルはベルカをその腕の中にいるヴェラごと抱きしめた。

「お、おれだっで、すごぐ妬いだ。だ、だがら早ぐ一人前の料理人になりだいど思っだんだ」

 感情を高ぶらせたオーバルは熱く言葉を連ねる。いつもは寡黙で静かな人だが、時に気持ちを抑えきれなくなることがある。特に家族のことになると話し方への劣等感など問題ではなくなるようだ。

「あ、愛しでる」と息を荒くした。ベルカの後ろでもぞもぞと動く気配がする。

「ああ、あたいも好きさ。でもね、今は欲情してる場合じゃないだろ。ヴェラが心配じゃないのかい?」

「そ、そうだな。わ、悪がっだ」

 オーバルはしょぼくれたような声で謝った。


「さて、ヴェラは本当に試合を見に行かないつもりかい? 行っても行かなくても、勝てばマグナスさんは愛を捧げちまうんだよ。それなら行って見届けた方がいいんじゃないかい?」

 ヴェラはしばし考えた。誰も何も言わず、ヴェラが答えるのを待っている。

「行くわ。マグナスさんの望みだもの。行かなきゃいけないと思うわ」

「よし。じゃあ、スカーフを渡した騎士さまの勇姿をちゃんと見ておいで」

「うん。でも、きっと明日の夜も泣くんだと思うわ」

「いくらでも泣けばいいさ。みんなもそう思うだろ?」

 ベルカが家族に向けて声をかけると、三人分の同意する返事が聞こえてきた。

「今日だってあたしのせいで、まだみんな起きてるじゃない」

「そんなこと気にしないで、今は自分のことだけ考えてな」


 家族の優しさに触れ、ヴェラの心はじんわりと温かくなる。いつしか涙は止まり、眠りに落ちていた。

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