第17話 複雑な胸中

 降って湧いた結婚の話にヴェラは困惑した。客の前で失敗を重ねてしまい、厨房でのビスケット焼きに専心するよう言いつけられた。

 ぼんやりとしながら黙々とビスケットを焼いていく。いつもと同じようにヴェラを照らす炎の熱と揺らめきに、心が少しばかり落ち着いた。

 これまで、たくさんの旅人の無事を願って、たくさんのビスケットを焼いてきた。あとどれくらいこの場所でビスケットを焼くのだろう。

 いつかは結婚するのだと思っていたが、まだずっと先のことのような気がしていた。少しも実感が湧かない。

 



「ヴェラちゃんっ」

 息を切らして厨房に駆け込んできたのは、とても浮かない顔をしたマグナスだ。何があったのかと心配になるほど、服装が乱れている。

 求婚された時、あまりの心細さからマグナスに付いていてほしいと思った。しかし、いざ顔を見ると今日ばかりは会いたくなかったようにも思う。

「そんなに慌ててどうしたの?」

「巡回中に話が聞こえてきて。常連客の・・・・・・名前は何だったかな。まあ、とにかく話してるのを聞いたんだよ」

「話って? どんな?」

 ヴェラが首をかしげると、マグナスはわしわしと自身の頭をかいた。乱れた髪がさらに乱れる。


 マグナスは深呼吸をして息を整え、不安げな目でヴェラを見つめた。

「なあ、エテルファムの商人に求婚されたって本当か?」

 おずおずと探るような声で言う。

「えっと、そうみたい」

「そうみたい、って・・・・・・。ヴェラちゃんのことだろ?」

「だって、よくわからないのよ」

「ヴェラちゃんはその商人と結婚したいのか?」

「わからないわよ。急に結婚だとか言われたって、どうすればいいのか・・・・・・」

「じゃあ、ヴェラちゃんの心は決まってないんだな?」

「決めるも何も・・・・・・本当にわからないのよ」

 ヴェラの目から涙がこぼれ落ちる。マグナスは慌てた様子でその涙を拭った。頬に触れた指が離れるのを惜しく思う。

「ごめん。泣かせるつもりじゃなかったんだ」

「マグナスさんのせいじゃないわ。ちょっと疲れちゃったのよ」

 ヴェラがマグナスの胸にしなだれかかると、大きな手が背中をなでさすった。温もりと匂いを感じ、いっそこのままマグナスの一部分になりたいとさえ思った。


「ヴェラちゃんが結婚を望む人がいれば、商人とは結婚しないんだよな?」

「そう言ってたわ」

「今、そういう相手はいるのか?」

「たぶん、いないんだと思うわ。考えたことなんてなかったもの」

 親が決めた相手と結婚するのが正しいことだとヴェラは思ってきた。恋によって罪人となった両親のようになってはいけないのだから。


「なら、まだ誰にでも可能性があるってことだな」

 マグナスはヴェラの前で片膝をついた。

「ヴェラちゃんのスカーフをくれないか?」

 とっさにヴェラは頭を覆う布を手で押さえる。

「こんなもの、どうして欲しがるのよ」

「試合で勝つために、ヴェラちゃんのスカーフが必要なんだ」

「慕っている人からもらえばいいじゃないの」

 武芸大会に出場する騎士たちは、思い人から贈られた装飾品を身に着けて試合に臨む。

「だから、それは・・・・・・」

 マグナスは目をそらし、もごもごと口を動かす。

 その様子から、何か言えない事情があることは察しがついた。

「わかったわ。いつもマグナスさんに助けてもらってるんだもの。負けてもあたしのスカーフのせいだなんて苦情を言うのはよしてよね」

 ヴェラはスカーフを頭から外し、マグナスに手渡す。栗色の髪があらわになった。

 普通、女が家族以外の男の前でスカーフを外すことはない。しかし、髪を見せることに今はためらいを感じなかった。切迫したような表情のマグナスを眼前にしては、その願いに応えたいと思うばかりだった。

「必ず勝ってよね」

「ありがとう。ありがとう」とマグナスは受け取ったスカーフを胸元で強く握る。

「しっかりしてよ。ほら、騎士さまの髪がぐちゃぐちゃじゃかっこ悪いわ」

 ヴェラはマグナスの乱れた髪をなでつけ、はだけたマントを整えた。


「おなかすいたでしょ? すぐに食事を用意するわね。今日はマメのスープと——」

「あー、今日はいいや。帰って練習しないといけないから」

 マグナスが食事を断ることなどないと思っていた。ヴェラよりも大切な人がいるのだと思い知らされる。

「食べないなら、スカーフは返して。練習するのと同じく、食べるのも大切なのよ。食べないと動けないんだから」

 ヴェラは心に広がる悲しみを隠そうとして強がった。

「そう言われたら敵わないな。わかった。食べてくよ」

「ちゃんと食べて、いつもみたいに笑ってよね。マグナスさんがおいしそうに食べてる顔、好きよ」

 ヴェラは「好き」と口にした途端、頬が熱くなった。マグナスに言う「好き」は他の人に言うのと違って感じる。

「お、おお、そうか」

 マグナスは両手で顔を覆ってうつむいた。


 マグナスと過ごす時間はもうすぐ終わる。意中の人と結ばれたら、ここには来なくなる。

 いつか去っていくマグナスを思い出した時、真っ先に浮かぶのは笑顔がいい。だから、一つでも多く幸せな記憶を残したいとヴェラは思った。

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