第11話 動かされる心
「そこまでにしておきな」
若い男の声が聞こえた。大きな背中がヴェラの前に現れ、中年の男を引き離す。
「痛えな。何すんだよ」
「嫌がってるだろ。それに、おれの前で騒ぎを起こさないのが賢明だと思うけど?」
若い男の何かに中年の男はおびえ、慌てた様子で逃げ出した。
「大丈夫か? 怖かっただろ?」
若い男が屈んでヴェラと目線を合わる。思わずヴェラは体をこわばらせた。
「あっ、ごめんな。おれも怖いよな」
若い男は自嘲気味に笑う。フードをすっぽりとかぶっているが、ヴェラに向けるまなざしが優しいことはわかる。
「違うわ。ちょっと驚いただけなの。助けてくれて、ありがとう」
「当然のことをしただけさ。この辺はよく通るけど、きみは見たことのない子だな」
近くの工房で働く職人なのか、体つきがたくましい。
しかし、マントは上質な布で作られているようで、ただの職人というわけではなさそうだ。裕福な工房の子息なのかもしれない。
「あたしの名前はヴェラ。表に出て働くようになったのは最近だから、見たことがなくてもおかしくないわ」
「そうか。おれはマグナス。新年祭が近づいてくると、ああいう人が増えるから気をつけろよ」
去ろうとするマグナスのマントを、ヴェラは無意識に引いた。
「うん?」と驚いた様子で、マグナスが足を止める。
ヴェラ自身も驚き、慌ててマントから手を離した。
「あ、えっと、リンゴタルトを焼いたの。よかったらお礼に、食べていかない?」
声が妙に裏返る。
「礼なんていらないさ。たまたま通りかかって、おれが勝手にしたことだから」
助けたのはどうということでもないかのように、さらりと言う。だが、ヴェラにとってはそうではない。
鼓動が高鳴ってやまないのは、どうしてだろう。経験したことのない感情がじわりと湧いた。
「あたしのタルトなんていらないわよね。ごめんなさい」
裕福な家では腕のいい料理人を雇っているはずだ。ヴェラのリンゴタルトなんて食べたいと思うわけがない。
そう考えると、途端に恥ずかしさが押し寄せる。
「せっかくだから、食べていくとしよう。ヴェラちゃんのタルトは、おいしいに違いない」
マグナスは爽やかな声で笑う。申し出が受け入れられたことを、ヴェラは嬉しく思った。
ベルカに事情を話して、一切れのリンゴタルトと一杯の飲み物をテーブルに出す。
「うちの娘が世話になったね。感謝するよ」
「感謝されるほどのことはしていないさ。しかし、この子を店に立たせるのは早いんじゃないか?」
視線がヴェラの頭から足へ、再び頭へと動いていく。
「はははっ。なるほどね。あんたにはヴェラがいくつに見えてるんだい?」
ベルカは豪快に笑った。
「そうだな・・・・・・十・・・・・・十一歳ってところか」
「やっぱりね。十四歳だよ」
「本当に? ちょっと小さいんじゃないか?」
ヴェラは年齢よりも幼く見られていることに気づいた。
「もうすぐ十五歳よ。あたしだって、ちゃんと働けるんだから」
腰に両手を当てて背伸びをする。
「そうか。立派だな」とマグナスはからかうように笑った。
マグナスの笑顔は、ヴェラの心を少しばかり騒がせる。
マグナスはリンゴタルトのリンゴの部分だけを食べて帰った。助けてもらった礼だと一方的に出したのだから、文句を言うわけにはいかない。
「おいしかった」と言ったのは単なる世辞だったのだろう。ヴェラは残念に思い、肩を落とした。
次の日にもマグナスは現れた。またリンゴタルトが食べたい、と。
「昨日、おいしくなかったんじゃないの?」
「いいや、おいしかった」
納得はできないものの、せっかく来た客を追い返すわけにはいかない。それに、また会えて嬉しく思う。
前日はあまり腹が減っていなかったのだろう。ヴェラはそう思うことにした。
しかし、マグナスはまたリンゴの部分だけを食べてタルト生地を残す。
「ねえ、どうしてリンゴしか食べないの?」
「どうしてって、タルトはそういうものだろ」
「じゃあ、生地のところは?」
「皿の代わりに決まっている」
疑問を持つのがおかしいとでも言うように、マグナスはさらりと言葉を返す。
ふと、幼い頃に父から聞いた話を思い出した。
裕福な人はパンを皿の代わりに使うのだ、と。
マグナスもそういう暮らしをしている人なのだと思い知らされる。悲しみと少しの怒りがヴェラの心に広がった。
「タルトっていうのは、全部食べなきゃタルトじゃないの。リンゴだけ食べるなら焼きリンゴでいいのよ。マグナスさんみたいな人にはわからないだろうけど、作物を育てるのって大変なんだから」
感情のままにあふれる言葉を止めることができない。記憶の奥に閉じ込めていた思い出がよみがえる。
「麦の出来が良かったなって。今年のリンゴもおいしいなって。ヌボートさまの祝福のおかげだって、みんな感謝しながら食べるのよ」
「ヌボートさま? ヘラルマさまじゃなくて?」
マグナスに指摘され、ヴェラは我に返る。
一気に言葉を並べ立てたせいか、強いめまいに襲われた。倒れそうになるヴェラをマグナスの腕が支える。
「おい、大丈夫か?」
「ごっ、ごめんなさ・・・・・・」
言葉がうまく出てこない。
マグナスの胸に手を当てると、マントの下に銀色の記章が見えた。瞬間、ヴェラは恐怖で体が震える。ヴェラに声をかけた中年の男も、これを見て逃げ出したのだろう。
「騎士、さま?」
ヴェラが見たのは、騎士の所属を表す記章だ。
ヴィード家の象徴であるライオンと、交差した二本の槍。これと同じものが、通りを巡回する騎士のマントにも描かれている。
ライオンは英雄とともにドラゴンと戦い、命を落としたとされる伝説上の獣だ。
どうして気がつかなかったのだろう。薄暗い食堂の中でも、一つに束ねた髪は蜂蜜のように輝いているというのに。
騎士をなじったことを、ヴェラは激しく後悔した。罰を受けることになれば、家族に多大な迷惑をかけることになる。
頭の中が凍りついた。
ベルカに体を支えられなければ、椅子に座ることもままならない。
「ヴェラはオスタリア地域で育ったのさ。だからヌボートさまなんだろうね」
「ああ、なるほど」
「あたいの兄さんの娘なんだ。まあ、事情があってここを離れて・・・・・・。四年前の大災害で、ヴェラの両親は死んじまったのさ」
「あの〈神の嘆き〉か。多くの人が犠牲になったからな」
「ヴェラから話してくれるまで、昔のことを聞かないでいたんだ。だから、タルトにそんな思いがあるなんて知らなかったよ」
ベルカの腕がヴェラを包む。柔らかな胸に顔をうずめて、静かに涙を流した。
マグナスは残っていたタルトを口に入れた。
「うん。おれが間違ってた。ヴェラちゃんのタルトは、全部食べてこそおいしいんだな」
とても満足したようなマグナスの笑みは、ヴェラの心をじわりと温めていく。
「あ、あの、ごめんなさい」
ヴェラはぎこちなく謝った。
「いいや、謝るべきなのはおれだ。ごめんな」
「騎士さまが謝ることなんてないの。あたしが失礼な態度を。だから、ごめんなさい」
マグナスの口から「ふっ」と柔らかな笑い声がもれる。
「ヴェラちゃんは当たり前のことを言っただけだろ? タルトについての認識が違ってたってだけのことさ」
「じゃあ、あたしが罰を受けることはない?」
「ない」
マグナスはそう言い切った。家族に迷惑をかけることはないとわかり、安心感が胸に広がる。
ヴェラの頭にマグナスの大きな手が優しく触れる。心にふわりと花が咲いたような気がした。
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