第10話 ヴェラの望み
「あんな娘、ここにいたかしら?」
「ジェイロの子なんだとか」
「踊り子と駆け落ちしたっていう?」
「そうさ」
「へえ。でも、どうして娘だけがここにいるの?」
「両親とも四年前の災害で死んだらしいぞ」
食堂で客がヴェラに視線を送りながら、ひそひそと話している。
ヴェラはテーブルにすっと近づいた。
「そうよ。あたしはジェイロの娘。でも、今はオーバルとベルカの娘なの。あの災害の時は、みんなも苦しい思いをしたでしょ? だから、昔の話はよしてもらえる?」
「ははっ。言うねえ。さすがテイナさんの孫だな」
「どうも。褒めてくれてありがとう」
ヴェラはにこりと笑う。
めったに姿を見せなかったヴェラが食堂で働き始めたのだ。客らが興味をそそられるのも当然と言える。
十四歳のヴェラは、厨房と中庭だけでなく食堂の仕事もするようになった。
うまく客に対応できるのは、家族や宿で働く親戚と会話を重ねてきたからだろう。特にベルカとフィレルは話すのが好きだし、中庭の馬小屋で働く老夫と話すことも多くあった。
人前にヴェラを出したがらなかったテイナはもういない。
テイナが亡くなったのは少し前の、夏の終わりのことだ。安らかな眠りにつくような最期だった。
「何かやってみたいことはあるかい?」
埋葬が終わると、ヴェラはベルカにそう尋ねられた。
すぐに答えられなかったのは、それまでテイナの言うとおりに行動すればいいと思っていたからだ。
「
二歳上のオーティが大人びた口調で言った。
「それじゃあ、あたしも宿の仕事がちゃんとできるようになりたい」
ヴェラはそう言って、飲み込みかけた言葉を続ける。
「あと、タルトを焼いてみたい」と。
「ヴェラがタルトを? 焼けるのか?」
フィレルが首をかしげた。
「焼けるわ。村で、焼いてたんだもの」
歯切れが悪い言い方になる。村にいた頃の話を家族が尋ねないでいたから、ヴェラもあまり話してこなかった。
「だ、試しに焼いでみろ。お、おれは食っでみだい」
オーバルの熱がこもった言い方に、家族は目を丸くする。
普段はぼそぼそと話すオーバルが積極的な態度を見せたのだから、驚かずにはいられない。
タルトを焼く許可を得たが、優先すべきなのはビスケット焼きだ。
宿には、泊まった旅人にビスケットを持たせるという古くからの慣習がある。街道も乗合馬車もなかった時代、次の集落に着くまでの大切な食料だったという。
今ではお守りとしての意味合いが強い。無事に旅ができますように、と願いを込めるビスケット焼きがヴェラの仕事の一つだ。
ビスケットは宿で焼くというのが決まりになっていて、厨房にある小型のパン焼き竈のようなものを使う。これで村に住んでいた時のように何か焼けないだろうか、とヴェラは考えていた。
ヴェラのビスケットは高い評価を得ている。村でヴェラのパンが好評だったのと同じことが、ビスケットでも起きている。
ブラシェルト周辺を行き来する行商人の中には、ヴェラのビスケット目当てに繰り返し宿泊する者もいるくらいだ。
どうやらヴェラが生地をこねることが重要らしい。これは兄弟と作り比べてわかったことだ。
ヴェラがこねた生地でオーティが焼くのと、オーティがこねた生地でヴェラが焼くのでは、前者の方がおいしい。
ヴェラが途中まで生地をこねて、続きをフィレルがこねて焼いてもおいしい。その逆も同じだ。
このことから、ヴェラはビスケット焼きに必要な存在となった。
ヴェラにタルトを焼く機会が訪れたのは、リンゴが出回り始める時期のことだ。
大きな円形のリンゴタルトを焼いた。切り分けたタルトに家族が手を伸ばして口に運ぶ。どんな反応を示すのか、とヴェラは緊張して手が汗ばんだ。
「これ、今まで食ったタルトの中で一番おいしいぜ」
フィレルがタルトを頬張ったままで言う。
「み、みんなにも食っでもらいだい」
「父さんの言うとおりだ。家族だけで食べるのはもったいない」
オーバルとオーティもタルトを褒めた。好評を得たことで、ヴェラはほっと胸をなで下ろす。
「このタルト、食堂で出そうぜ」
「そんなのできっこないわよ」
調子がいいことを言うフィレルを、ヴェラは軽くあしらう。
「あたいも売りたいとは思うさ。でも、いつでも出せるわけじゃないからねえ」
フィレルの言葉をベルカは本気で受け止め、思案顔をしている。
「そうだ。焼いた時だけ売り窓に並べるのはどうだい?」
ベルカの提案に、みんなが首を縦に振った。
「うん。売り窓に出すだけなら少なくてもいいし、ある時にだけ並べればいいからな」
「じゃあ決まりだ。きっとみんな欲しがるぜ」
ヴェラを置いてきぼりにして、話が進んでいく。
「本当にいいの? オーティだって、まだそこまで任されてないのに」
「い、いいんだ。お、おれが許す」
宿の主人であるオーバルが大きくうなずいた。
「悔しいけど、ヴェラのタルトを認めないわけにはいかないからな。まあ、それ以外はおれの方が上だけど」
オーティは「気にするな」と付け加え、頬を緩めた。
リンゴタルトを初めて売り窓に並べた日、期待していたほどは売れなかった。
時期的にリンゴタルトを売っている店が多くある。食堂の常連客であっても、タルトについては気に入りの店があるのだ。
礼拝堂の鐘が閉門の時を告げた。そろそろ食堂も片付けを始めなければならない。
「最初なんてこんなもんさ。これからだよ」
ベルカがしょげるヴェラの背中をぽんと叩いて励ます。
「うん。次はもっと頑張るわ」
「よし、その意気だ」
応援してくれる家族のために努力しよう、とヴェラは気持ちを奮い立たせた。
ヴェラは外の片付けを買って出た。売り窓の上下に開いた鎧戸を閉めていると、誰かの近づく気配を感じた。
「おねえちゃんはいくらで相手をしてくれるんだい?」
酔った様子の中年の男がヴェラに声をかけた。肉付きがよく、腹が大きく突き出ている。
「どういう意味?」
ヴェラが聞き返すと、男は見下すような声で笑った。
「どういう意味って、そういう意味だよ。いくら払えば、おねえちゃんから肉体的な奉仕を受けられるのか、ってことだ」
恥ずかしさで顔が熱くなる。酒を提供する店の多くには娼婦がいることを、ヴェラも知っている。
「うちは、そういう店じゃないわ」
「そう言うなよ。いくらでも払ってやるさ。いいだろ?」
下品に笑う男は、ヴェラに顔を近づけて臭い息を吐きかける。
「嫌よ。やめて。他の店に行って」
恐怖で足が震え、声がうまく出せない。
「いいねえ。強気なところも気に入った」
そう言って、男はヴェラの腕をつかんだ。
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