第9話 ヘラルマの聖炎
新年祭が近づくにつれて、王都ブラシェルトの賑やかさは増していく。オーバルの宿も慌ただしい日が続いていた。
秋と冬の間の満月の日から次の満月の日までが新年祭の期間だ。それとほぼ同じ日程でブラシェルトの大市も開催され、遠方から訪れる人もいる。
どんなに忙しくなろうとも、テイナはヴェラを人前には出さない。
「ヴェラは表に出るんじゃないよ。足手まといになるからね」と。
そのため、厨房と中庭がヴェラの主な仕事場となっている。全く人の目に触れないわけではないが、客と直接に関わらずに働いている。
それでも、市街の喧騒はヴェラの耳にも届く。厨房と食堂を隔てる壁の向こうに、中庭を囲む建物の向こうに、賑やかな音がある。
ヴェラから見れば立派な宿でも、安宿の部類に入るという。利用するのは、あまり裕福ではない旅の商人や芸人だ。
厨房から食堂をちらりとのぞく。踊り子の姿が目に入ると、ヴェラの脳裏には牢で踊る母の姿が浮かんだ。
この場所に両親がいたのだと思うと、複雑な気持ちで胸がいっぱいになる。同じ場所に立っていることへの嬉しさもあるが、父が家族を捨てたことへの負い目も感じる。
父から料理を教わっていたとはいえ、新入りであるヴェラは料理自体に手出しすることはできない。準備や片付けが主な仕事だ。
一歳下のフィレルとは、競うようにして努めている。ヴェラの方が火をおこすのが早く、フィレルは負けまいと張り合う。
冬が過ぎて暖かくなれば、中庭の菜園で野菜やハーブの栽培が始まる。それまでは洗濯が中庭での仕事だ。
住む環境は変わっても、することは村にいた時とあまり変わらない。しかし、パン焼きがないことはヴェラを寂しい思いにさせた。
「聖炎の儀式をヴェラに見せてやりな」
テイナがそう言ったのは、家族がそろって夕食を囲んでいる時だった。
「えっと、それって聖女さまの?」
「そうだよ。聖女さまが広場で
ヴェラが尋ねると、テイナが儀式について説明した。
一年に一度、神が聖女に聖炎を授ける。
セントリア地域に祝福を与える神はヘラルマだ。新年祭の初日がヘラルマから聖炎を授かる日にあたる。
そして、聖女が伯らに分け与え、聖炎が各地区の礼拝堂に灯されていく。
神殿があるのは王都と公都だけだ。村に住んでいたヴェラは、そういう儀式があることだけは知っていた。
聖女が民衆の前に姿を現すのは、新年祭で行われる儀式の時だけだ。その数少ない機会を目にすることが、ブラシェルトの子どもの通過儀礼となっている。
兄弟のオーティとフィレルも見に行ったという。
「あたし、外に出てもいいの?」
ヴェラはテイナの顔色をうかがう。
「ブラシェルトの子に聖女さまを見せないなんて、恥ずかしいことができるかい。もし外で何かあればオーバルとベルカの責任だ。少しだって目を離すんじゃないよ」
テイナは鋭い目つきをさらに鋭くした。
「わかってるさ。でも、観覧札の申し込みはとっくに終わってるじゃないか」
「そんなの知ってるよ」とテイナは小さな木の板を差し出した。
板に何かが書いてあるが、ヴェラにはわからない。
「
フィレルがおどけるように言う。
「うるさいね。黙りな」
テイナは大きな声で言って、視線を誰もいないところへ向けた。
ブラシェルトでは、新年祭の初日を迎えた。ヴェラは新しく作った良い服を着て、新しいマントに身を包む。
オーバルとベルカに手を引かれ、ヴェラは神殿前広場へ出かけた。秋が過ぎて寒さが強くなってきたことは確かだ。寒さから身を守るため、マントのフードを深くかぶる。
素直でないテイナのおかげで凍えずに済みそうだ。村から持ってきた薄いマントでは、ブラシェルトの冬は越せないだろう。
神殿前広場は宿から少し遠い。〈神の嘆き〉があって十分に食べられなかったせいか、ヴェラの体力は低下したようだ。途中、オーバルに背負われながら広場を目指した。
通りを進むにつれて、人の数が増えていく。目的地に近づく頃には、混雑を極めていた。場が混乱していないのは、騎士が集まった人々をうまく整理しているためだ。
その様子を見ていると、観覧札が必要なのも納得できる。札を持たない者まで集まれば、身動きがとれなくなりそうだ。
許可された者しか入れないとはいえ、広場は多くの人で賑わっている。小柄なヴェラには、前にいる大人の背中しか見えない。
オーバルがヴェラを抱き上げた。目線が大人の頭よりも高くなる。同じように抱かれて顔を出す子どもの姿が、あちらこちらにある。
そうして、ヴェラは広場の様子をやっと確認することができた。
広場の中央には
白色のガウンを着た人たちが椅子に座り、台を取り囲んでいる。ヴェラのいた村の人を全て集めても及ばないほど、人数が多い。台に近い人ほど豪華な装飾品を身に着けており、太陽の光できらきらと輝く。
さらに、白色の集団を囲んでいるのは、警備にあたる赤色のマントを身に着けた騎士だ。
その外側に観衆がいる。
「ねえ、あの白い人たちは?」
近くで女の子の尋ねる声がした。
「ヴィード家の人だよ。王さまと直系の人たちに、傍系の偉い人」
男の声が答える。
英雄の子孫が集まっている光景は壮観だ。
昼の鐘の後、ラッパの音が高らかに鳴り響いた。
神殿から青色に身を包んだ人々が出てくると、周囲から歓声があがる。
青色の服を着られるのは、聖女と聖女に仕える者だけだ。たとえ王であっても着ることはできないという。
広場に向かって伸びる階段を、聖女の一団がゆっくりと下りてくる。
「真ん中にいるのが聖女さまで、左右に神官さま、その周りが聖騎士さまだよ」
ベルカがヴェラに説明する。周囲の人が興奮気味なのに対し、ベルカは冷静な様子だ。ベルカにしてみれば、子に聖女を見せるのは三度目だから、もう慣れたことなのだろう。
白色の階段に鮮やかな青色が映える。それは、寒さを忘れるほどヴェラの胸を熱くした。
王都で育った父は見たに違いない。王都を訪れた母も見たかもしれない。いつかヴェラも誰かとともに子どもに見せるはずだ。
そんな青色をヴェラは見ている。
聖女が焚いた大きな
ヘラルマの聖炎の色はありふれた炎の色をしている。ヴェラが村の礼拝堂で見てきたヌボートの聖炎は白色だった。
神によって聖炎の色が異なることは、ヴェラも知ってはいた。色の違う聖炎を実際に見ると、人知を超えた神の力を強く感じる。
ヘラルマは新たな聖炎を授けた。〈神の嘆き〉という大災害が起こっても。
神を深く悲しませた罪人の命を捧げ、人は許されたのだ。
不意に涙がヴェラの頬を伝わり落ちる。悲しいからではない。どうしようもなく心が震えた。
「ど、どうしだ?」
ヴェラを抱き上げるオーバルの顔に涙が触れたようだ。オーバルは不安げな表情を浮かべている。
「すごく、きれいだと思ったの。そしたら、涙が・・・・・・」
「そ、そうが。よ、よがっだ」
安堵したように、オーバルは優しく笑った。
「父さん、母さん、連れてきてくれて、ありがとう」
これまでヴェラを育てた両親と、これからヴェラを見守る両親に、ヴェラは感謝の言葉を贈った。
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