第5話 神の嘆き
翌年、フェルリナは干ばつに襲われた。ヴェラが十歳の夏のことだ。
収穫期を迎えた麦にとって、晴れの日が続くのは喜ばしいものだった。好天に恵まれ、刈り取った麦の乾燥が順調に進み、農民たちに安堵の思いが広がる。
しかし、その後も雨の降らない日が続き、秋に収穫を控えていた作物が枯れていった。
一軒の家から出火すると、飛んだ火の粉が枯れ草に引火し、その先にある家にも燃え移った。
延焼を防ごうと人々は奔走し、特に公共性の高い建物を優先して守った。
結果、民家の半分以上が焼けたが、礼拝堂などの守るべき建物はほぼ無傷だ。
ヴェラも家を失い、持ち出せた少しの荷物以外は灰になった。
家を失った村人は礼拝堂で受け入れられた。いつもは祈りを捧げる場所で眠った。
焦げ臭さが漂う中でも、変わらずに礼拝堂の鐘の音が鳴り、祭壇で聖炎が灯り続ける。
不安が完全に消えることはないが、ヴェラは心に安らぎを感じた。
「かけがえのないオスタリアの民のため、オスター家が援助する」
触れ役が伝えるオスタリア公の言葉も、不安を和らげるものだった。
生きよう。村を元の姿に戻そう。そんな思いで人々は支え合った。
新たな火災を防ぐため、火の使用は限られた場所でのみ許された。その一つである酒場が村人に食事を提供した。
オスター家から物資の供給はあるものの、食材も調理法も限られていた。
強い火力を必要とするパン焼きは禁止され、弱い火力でも作れる麦粥ばかりの日々が続く。
防火のためだと理解していても、パンのない生活は人々を苦しめた。
「茹でパンを作ってみるのはどうだろうか?」
ジェイロが酒場の主人に提案した。
「はあ? 何パンだって? そんなもんは聞いたことがねえな」
酒場の主人は訝しげな顔で答える。
「パン生地を茹でて焼くんだ。知らないか?」
「知らねえな。ジェイロは何とかってパンの作り方を知ってんのか?」
「ああ、まあな」
「じゃあ、作ってくれ。みんな、麦粥ばっかで参ってんだ。それに、うちじゃヴェラのパンは評判だったしな。試しにやってみろ」
意外にも酒場の主人があっさりと言うから、ヴェラは驚いてしまう。
許可を得て、ジェイロとヴェラは厨房に入ることになった。
「ねえ、父さん。料理のことは秘密じゃないの?」
ヴェラは秘密を明かしたジェイロを心配した。
「今はそんなこと言ってる時じゃないんだ。みんなが困ってる。できることがあるなら、すべきだろう?」
ヴェラの目には、ジェイロの背中がとても大きく映る。
酒場の厨房には、ヴェラが見たことのない道具も並んでいた。どうやって使うのだろうか、と好奇心が刺激される。
一方、ジェイロは手際よく作業を進める。ヴェラの知らない道具を、慣れているように次々と使いこなしていく。
ただの農民ではない姿に、酒場の主人は驚きを隠せない様子だ。
ヴェラの手で握れる大きさに丸めたパン生地を湯へ入れる。茹で上がったそれらを串に刺し、火であぶって焼き色をつける。
茹でパンの食感はいつものパンと異なるものだが、麦粥にうんざりしていた村人たちは喜んだ。
それを見て笑顔を浮かべるジェイロの姿に、ヴェラは誇らしさを感じた。
水車小屋が使えなくなるほどに川の水が減った。麦を粉にすることができず、茹でパンを作ることもできない。
麦粥には、粉ではなく粒の麦を使わざるを得ない。麦の硬い皮が口内に残り、不快に感じることもある。
ついには人も命を落としていく。誰も経験したことがない規模の災害に、人々は恐れを抱いた。
触れ役がラッパを鳴らすのが聞こえた。礼拝堂でぼんやりと横たわっていたヴェラも、両親とともに広場に出る。
「発生した災害は〈神の嘆き〉によるものである」
ノヴァテッレ国王の声明が告げられた。フェルリナと同じことが他の場所でも起こっているらしい。
「集団により神を冒涜する行為があった。既に容疑者を拘束しているが、全ての神判を終えるには時間を要する。もうしばらく耐えよ」
ドラゴンは眠りながらも邪気を放ち、人々の心をむしばむ。邪気に影響を受けた者は、神を深い悲しみに沈ませるほどの罪を犯す。
神が大地に祝福を与えられなくなると〈神の嘆き〉と呼ばれる災害が起きる。罪人の命を神に捧げることで〈神の嘆き〉は終わる。どのような罪であっても、死をもってあがなわなければならない。
平時であれば人が人を裁くが、〈神の嘆き〉の中では神に裁きを委ねる神判が行われる。
容疑者の髪を聖炎であぶるというものだ。罪人ならば、聖炎が青色に変わる。変わらなければ、罪人ではない。
王の声明が伝えられてからも、なかなか〈神の嘆き〉が終わる気配が感じられない。
時間が過ぎるほどに、命が消えていく。明日は自分かもしれないという不安は、誰の中にもあった。
苛立ちを抑えきれない人が増え、重苦しい雰囲気が漂う。
「もしかして、ここにも罪人がいるんじゃねえか」
誰かが発した一言がきっかけで疑心が広がる。
粉ひきが麦粉の量をごまかしたのが悪いだとか、密通していた男女がいたのが悪いだとか。真偽の定かではない話も飛び交った。
礼拝堂に灯る聖炎と、石を積み上げて作られた村を囲む壁。これらによってフェルリナは邪気から守られている。教えに従って暮らしていれば、邪気に侵されることはないはずだ。
しかし、普通ではないことが起きている時に、これまで信じてきた「普通」が揺らぎ始める。
親しい隣人が罪人かもしれない。人々の間に溝ができた。
険悪な空気が深まる中、神判が行われることになった。
以前に〈神の嘆き〉が起きたのは、ずっと昔だ。神判をその目で見た者がいないほどに。
裁かれない人々の目には好奇の色が浮かんだ。
祭壇にフェルリナ男爵イグレアが立つ。裁かれる者は床に両膝をつき、その時を待っている。
一人目は粉ひきだ。神官がひとつまみほどの髪を刃物で切り取り、イグレアに手渡す。
「オスタリアに祝福を与える神、ヌボートさまにお尋ねします。フェルリナの粉ひき、ミュレイは罪人でしょうか?」
そう言って、粉ひきの髪を聖炎にかざす。
聖炎は白色のままで、変化がない。粉ひきは罪人ではないということだ。
二人目は密通したという鍛治職人見習いの男だ。その髪が聖炎にかざされると、炎は青色に変わり、少しの火花が散った。
人々の口からは驚きと恐れの混ざった声がもれる。
神判は続き、密通した男女と、家族に暴力を振るった男が罪人だと判定された。
翌日、彼らの命は神に捧げられた。
きっと、これで〈神の嘆き〉は終わる。また以前と変わらない暮らしが戻ってくる。人々はそう信じた。
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