夫、登場
かくして──未冬と会うはずだったイタリアンバルに、小柄で、童顔で、気の弱そうな男が一人現れた。
既婚者、かつ子持ち。そう言われてもすぐには飲み込めないタイプの男だった。脳が理解を拒んでくるのだ。もっさりとした髪型と眼鏡は、垢抜けないという印象を持たせてくる。
この男の顔を見るのは、三ヶ月ほど前、住吉家に出産祝いを持っていったとき以来だ。相変わらずオドオドと落ち着かないさまは、見ているとだんだん気分が荒立ってくる気配がした。
休日のはずなのに、彼は濃紺のジャケットのボタンを留め、ネクタイまで締めていた。その手には、『妻に持たされた』とでも言いたげな白い紙袋。
「あの、
未冬の夫は、丸テーブルのかたわらで身を小さくして私の名を呼んだ。腹から声を出せ、と言いたくなるようなボリュームだった。
彼の左手薬指に、シンプルだが上品なデザインの指輪が見えた。
……結婚指輪。それが視界に入って、余計に気分が悪くなってしまう。
「あっ、東京駅前……全然パーキング空いてなくて、その……遅れてごめん」
こちらが何も言わないことに戸惑ったのか、彼はごにょごにょと言葉を重ねてきた。
けれども私にとっては、駐車場が空いてないだの、探しまわって遅れただのなんだの、そんなことは別にどうでもよかった。そもそも、そういう話じゃない。
「
すると男は明らかに目を泳がせた。
「えっ? えっと……。俺も最初、未冬さんには悪いけどちゃんと断ろう……とは、一応、努力したつもりで……」
最終的に断れなかったなら意味ないと思うんだけど。
「まあ、わかるよ。かわいい未冬からのおねだりじゃ、住吉くんには断りきれないんだもんね」
そう皮肉を込めて聞いてやれば、彼は照れたようにくいっと眼鏡を直した。
「うん、へへ……そんなところかも……」
さすがにカチンときてしまう。
反省してほしいんだよ。照れさせたくて振った話じゃない。
しかもそこでまた指輪を見せびらかしてくるものだから、喧嘩を売って来ているとしか思えない。こいつ、どこまで人をイラつかせれば気が済むんだ。──ああ、もう!
「そんなところかも、じゃないから!」
気付いたときには立ち上がり、住吉くんに詰め寄っていた。
「しっかりしてよ! あんた未冬の夫なんでしょ?」
「ほえっ? す、すみません……?」
「ていうかさっさと帰りなよ。体調崩した妻とゼロ歳児を置いてくるとか、ほんとに信じられないんだけど」
「す……すみません……」
ほら、「すみません」としか言わなくなった。これじゃあ私が一方的に嫌な奴みたいじゃないか。
──いや。実際、そのとおりか。私が一方的にキレ散らかしているだけ。
はあ、とため息を吐いてソファに座り直す。
私、なんで誕生日にこんな惨めな思いをしているんだろう。
未冬の夫はしばらくオロオロしていたが、そのうち「あっ」と声を上げた。
「これ、未冬から……なんだけど」
紙袋を差し出される。
ぎこちない笑顔と目が合った。
「い、飯田さん、お誕生日おめでとう」
それを耳に入れた途端、羞恥に劣等感、怒りといった感情がないまぜになったものが津波のように押し寄せてきた。
この男は、最初から『未冬に託されたプレゼントを渡す』というタスクをこなすことしか頭にない。私が勝手に抱いている敗北感やライバル心など心の底から興味がなく、それゆえに、私が何を言ったところでまるで意味もない。
「……ありがとう……ございます」
意味はなくとも、言ってやりたいことは山ほどある。けれども、ぐっとそれらを飲み込んで、私は静かに紙袋を受け取った。
すると、男はホッと表情を和らげた。うるさい女がようやく黙った、とでも言わんばかりだ──私はそんなふうに受け取った。そうとは思っていないであろう彼は、「あと、お金も渡しておくね」と、安堵の表情のまま、ジャケットのポケットから白い封筒を取り出してくる。
「未冬のほうで二人分のコースを予約しちゃったんでしょ? キャンセルするにしてもお金はかかるだろうし──」
「いらない」
「え?」
「私が二人分払うから、いらない」
現金を受け取るのは、最も愚かで惨めな行為であるように感じていた。
断られるとは夢にも思っていなかったんだろう。男は困惑した顔で固まった。
なんだかため息が出てしまう。
「……それ、早く自分のポケットにでも戻しといて。気遣われる筋合いもないし、あいにく人付き合いも少ないから、お金には困ってないもので」
男は封筒を持ったまま「いやいやいやいや」と手をバタつかせた。
「それだと飯田さんの負担が大きくなっちゃうよ。遠慮しないで受け取ればいいのに」
また頭に血が上ってきた。自分の声が荒くなるのが分かる。
「いらないってば、しつこいな」
「い、いや、しつこいなって……そんなに意地張らなくても良くない……?」
それを聞いた次の瞬間、私はむんずと封筒をわし掴み、彼のポケットに強引にねじ込んでいた。
相手は狼狽えたが、止まることができない。
それでもまだ気がおさまらず、自分の財布からありったけの万札を抜いて、封筒と同じく雑に突っ込んでしまった。
「え……? な、なにやってんの……?」
それには答えなかった。というか、答えられなかった。
「じゃあ、住吉さん。お忙しいところわざわざご足労いただいて、誠に申し訳ありませんでした。未冬さんによろしく」
淡々と店の出入口を示すと、彼はハッとしたように慌て出した。
「えっ、いや、何? 怖いんだけど。何、このよく分かんないお金……」
「交通費としてお持ち帰りください」
「こ、交通費って。それにしては……かなり多そうじゃなかった? ちょっと計算させて──」
「いいから!」
「えっ、え!?」
最後は、ほとんど背中を押し出すようなかたちで店から追い返した。
……本当に、いじやける。
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