日記


「旦那様、本当によろしいのですか?まだお体に負担が…」


寝室から出て、書斎に向かう私の背中を、ジモンという大男は心配そうにさすってくる。私はこの大男の名前など知らないはずなのに、目が覚めてからはなぜか思い出せた。


この屋敷の造りも、使用人の名と顔も。

しかしまだ思い出せないことも多い。まるで額の手前に霧がかかったように、記憶を巡ろうとしてもその先に進むことができないのだ。


しかし私は日々の出来事を日記に書いていたはずだ。限りない記憶の中でもそれだけは思い出せた。だから私は鍵の掛かった書斎のドアを開けた。


「これ以上はついてこなくていい。昼食もいらないから、夕食ができたら呼んで」

私がいつも通りぶっきらぼうに言うと、ジモンは頭を下げた。


「かしこまりました…もしなにかありましたら、どうか気を失う前にベルを鳴らしてくださいませ」


ジモンの返事を背中で受け、私は書斎の中に入った。


午前9時半。

書斎に入った私は渡りを見渡した。


 どこか見たことのある景色…いや、当たり前だ。ここは昨日まで私が使っていたのだから。”アシュケナム家の当主として、それに関わるあらゆる雑務をここでこなしているのだから。


 といっても肝心のそれが思い出せないのだが…。まぁこの書斎にある私の日記を見ればすぐに思い出せるはず。


 大きな書斎机の両脇には、四段ずつの引き出しのある棚があった。右側の一段目を開ける。中には仕事用の書類があった。大切な書類だ。記憶が思い出せない状態でむやみに触るべきじゃない。これはあとで見ておこう。今は日記を探さなくては。


 二段目、三段目をあける。

どれも仕事用の書類ばかり。四段目も同じだ。


 今度は右側の棚を開けてみた。一段目は文房具が入っている。

二段目は…日記があった。あたりだ。これで記憶を思い出せるかもしれない。


 山積みにななった日記帳を机の上に置く。20冊以上はあるだろうか…。

どうやらかなりの日記魔のようだ。だがそれよりも目を引くものがあった。日記帳の表紙には暦と思われる年代と、筆記者のものと思われる年齢が書かれていた。



――1830年2月7日-188歳——。


筆記者…つまり私だ。

しかしそこに書かれていた数字…。

188歳…だと?


私はとっさに壁に立てかけられた鏡の方を見た。

私の風貌はまだ10代か20代そこらの青少年でしかない。容姿は…自分でいうのもなんだが結構いい方だ。栗色の髪に、細い鼻筋、長い耳。


ん?長い…耳?

まさか……エルフ?

いや、いやいや…そんなのまるで御伽噺じゃないか…。

ありえない…わけではない…?

…でも………いや、まぁいいか。

とりあえずは日記を読もう。そこに答えがあるはずだ。



――1830年2月7日——。

二月のロッテルダムは寒い。

マース川がまた凍った。久々にジモンとスケートをしてみたが、二人とも全くうまく滑ることができなかった。以前はもう少しうまく滑れてたはずなのだが…。

子供の前で尻もちをついたのは恥ずかしかった。

ジモンに笑われたが、あいつのスケートは凍死したヘラジカが風に流されて氷床を滑っているようなものだ。



……たしか…そんなこともあったか。

やはり霧がかかっていて思い出せない。ただ、初めて聞いた話とも思えない。どこかで見たような、聞いたような、既視感はある。


日記の続きを読んでみよう。



――1830年2月14日——。

ここのところ激しい寒波が続くので、天文学者である知り合いに理由を聞いてみることにした。彼が言うには地球は数百年単位で寒冷化と温暖化を繰り返しているらしい。その原因は太陽の関係にあるらしいが、今回は関係ないようだ。

 今年の寒波の原因にかんしては、南半球で起きた大規模な噴火が関係しているかもしれないと彼は言った。どうやら火山によって空に舞い上がった大量の火山灰が太陽の光を遮断しているかもしれない。とのことだ。その予想が正しければ、今後数年はこの寒波が続くとのことだ。

あくまで憶測の域を出ないと言ったが――確かに太陽は普通に見える――彼は優秀な天文学者だ。

まだ多くの人々はこの冬をただ例年よりも”少し寒いだけの冬”だと思っている。私はすぐにアムステルダムの証券市場で小麦とジャガイモの先物を5000万フラン購入することにした。



5000万フラン…この金額がどれほどの価値なのかは分からない。

仮にフランを円にたとえたとしたらかなりの大金だ。

屋敷を構え、ジモンという執事から旦那様と呼ばれていることを考えると、私はかなりの資産家なのだろう。

 そして不確定の話であっても自身の直感を信じて勝負に出る、そんな生粋の勝負師として財を成してきたのかもしれない。188歳も生きているのだ。市場のノウハウだって誰よりも知っているはず。

 そういえば、私が勤めていた証券会社も、数年前に起きた戦争の際には、小麦と石油に多額の投資をして2000億以上も稼いだ。その提案を前社長にしたのが当時はまだ部長だった高橋社長だった。


まぁ前世の話はこれぐらいしておこう。

日記の続きを読まなくては。


――1830年3月7日——。

長引く寒波に対し、穀物の先物市場もようやく反応を示してきた。小麦とジャガイモの市場価格は、私か購入した価格から一割ほど上昇している。それでも春には例年通りに新しい小麦が市場に流通するだろうという見方が主流だ。



――1830年3月20日——。

昨日、オルレアンの国王が人民議会を閉鎖したらしい。パリ支店のレヴィから伝書鳩で報告が来た。私はすぐに転移魔法で彼の元まで飛んでいき、この詳細を彼に問いただした。

 どうやらルイ18世が任命したジュール・ド・ボニャック宰相と、人民議会の対立は修復不可能まで悪化していたようだ。あの宰相が王権神授説を妄信するロ イヤリストなのは皆が知っている。いずれはこうなると思っていたが、こうも早いとは思わなかった。エルフと人間の時間軸はことなるので、こういう時に困るのだ。

 私はすぐに各支店の代表者をロッテルダムに呼び寄せた。


――1830年4月7日——。

穀物市場の価格は上昇をやまない。とくにこの二週間はすごかった。あと一か月で冬に撒いた小麦の収穫時期だというのに、ネーデルラントやオルレアンの北部地域では小麦の実りが遅いようだ。だがほかの地域では被害はそれほど酷くはないらしい。またオルレアンの小麦も実りが遅いだけで、6月の初旬には収穫できる見込みだと、パリ支店のレヴィから報告を聞いた。

 今後の気候がどう変化するかは分からないが、ひとまずはここらで高値になるだろう。私は一足先に小麦とジャガイモの先物を手放すことにした。


――1830年4月14日——。

この一週間で手持ちの先物商品はすべて利確した。この短期間で2000万フランほどの利益を稼ぐことができた。しかし問題はオルレアンの市場だ。

すでに株価や債券の価格は下落してきている。

この政治的混乱に乗じて、憎きオルレアンども一泡で吹かせてやりたいが、今はまだ静観することにした。これは役員会議での取り決めだ。辛抱強く待つことにする。



日記はここで終わっている。

ただ日記を読んでいて少し気になったことがある。


”転移魔法”。そして”憎きオルレアンども”の文字…。

エルフや転生などというものが現実になっている以上、もはや魔法があっても不思議ではない。しかし転移魔法か…。


 いまだ私自身のの名前すら思い出せないが…私は勝負師として財を成したと思っていたが、どうやら違うのかもしれない。資本や金融市場が発達していく近現代では、情報を制したものが勝者となっていった。おそらく”この私”は、転移魔法による情報伝達の優位性をもって財を成してきたのだろう。


 ただ私は転移魔法の使い方がわからない。

今後の行動しだいでは、周りの人々に”私が私でないこと”に気付かれる可能性はある。魔法が存在するこの世界では、第三者による精神の乗っ取りもありえるかもしれない。そうなれば私の立場は一気に危うくなる。気を付けなくては。


 問題はこの”憎きオルレアンども”という文字…。

その真相は机に積んだ日記の内容を紐解けば理解できるだろうが、正直、手が進まない。188年もの年月を生きてきたエルフと、オルレアンという国の確執はなんなのか…。私は恐る恐る、一番下にあった――1789年8月25日——と書かれた日記を手に取った。

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