ルイ2

リビングで。

休日。

夜の食事を終えて、ゆっくりくつろいでいた時。


それは突然だった。




「別れたい、です」



マリの顔を思わず見た。

またこいつは、一人でぐるぐると渦にのみ込まれて、わけの分からない結論を出したんじゃないかと。

そんな風にたかをくくって、マリを見た。


「…………」


いつも俺から逃げるように目を逸らしているマリが、逸らす事なくこちらを見ていた。その視線には強い意志が感じられて、とっさには声がでなかった。


俺とマリはいつもくだらないことですれ違っているけど、万が一別れることがあるとすれば、マリが俺に心底愛想を尽かした時だろうと思いながら付き合ってきた。

嫉妬やすれ違いなどではなく、本当の意味で俺の事が嫌になった時だろう、と。


俺はマリに劣らず欠陥人間で、仕事ばっかりしか目がいかなくて、彼女の事は二の次、三の次だ。

その上、かまってやるのも上手ではない。

愛の言葉一つ上手に言えないし、マリの寂しい気持ちを察してやるのも得意ではない。


マリに対して誇れるところがあるとすれば、他の女性に目移りをしなかったところくらいだ。

俺は出世欲の強い男で。

仕事がほとんどの優先順位を埋める中で、恋人というのはいつだって後回しだった。


だけど、仕事のストレスやプレッシャーを解消するには女性が必要な時もあって、都合よく声を掛けてくれる女性は少なくなかったからその時その時流されるように付き合ってきた。

今まで恋人とダメになってきたのはすべて俺の配慮が足りなかったからだ。


目の前の恋人を見る。

今日は珍しく強い瞳をたたえているが、とても可愛い女性だ。


見た目もいい。

料理だってうまい。

変わったところがあるけど、従順で人の機嫌を上手に察知するいい女だ。

マリが望めば、すぐに次の男ができるだろう。


「……理由、あんだろ」


俺が聞くと、マリは瞳を揺らした。

そこにほんの少し期待をしてしまう。馬鹿か。今回は無理だ。マリの目がそう言っている。


「理由……は、あるけど、……言いたくない」


マリが苦しそうに言葉を紡いだ。


言いたくない、か。

そう言われてしまうと、もう何も言えなくなる。弁解も説得も何もさせてくれないということか。

いい彼氏だという自負は到底持てないので、マリが愛想を尽かす理由などいくらでもある。

マリをじっと見ると、困ったように長いまつ毛を伏せた。


腕を引っ張って、そのまぶたを舐めて、滅茶苦茶に困らせてやりたい。ぼうっとそんな事を考えた。


「ルイ。今までありがとう」


マリが優しげに笑う。

俺の一番好きな表情だ。


……ああ、もう終わりなのか。


俺は今どんな顔をしているだろうか。

みっともない顔を晒しているかもしれない。


「じゃあ、ここお前が借りた部屋だし、俺が出て行くわ。それでいいな?」

「え。……え、でも、…………うん」


マリが動揺した声を上げる。

そんな風な顔をするな。俺に隙を見せるな。

歯を食いしばって、マリに触れそうになる自分を抑えた。


「今日はもう遅ぇし、ここで寝て行っていい? 明日会社出たらもうここには帰らないから。荷物はそのうち取りに来る」

「……うん。わかった。……ごめんなさい」


マリは立ち上がって、テーブルの皿を片付けていく。

その背中をじっと焦げるくらい見つめた。


「なぁ」

「え?」


マリが振り返る。

綺麗な顔は少しとぼけていて、こんなに近くで見ることはもう無くなるのかと思うと胸が痛んだ。



「俺ら、別れんの?」


何を聞いているんだ。さっきそう言われたのに。まだ受け止められてない自分に笑う。

髪をくしゃっとかき回して、「今の無し」と告げたけれど、マリは申し訳なさそうに眉を下げて俺を見ていた。


この家にベッドは一つしかない。

ダブルサイズのベッドは二人で寝るとそれほど広くない。


そのベッドの端っこにマリは寄って、珍しく背中を向けて眠った。仰向けで眠りにつくのがマリの癖だ。

俺は到底眠れそうになんてなかったけれど、そのまま目を閉じて、マリの事を思った。


朝になるともうマリはいなかった。

眠れないと思っていたのに、いつのまにか明け方に眠りに着いていたらしい。


……マリがベッドにいない事はいつものことだ。

朝飯を作ってくれるからだ。


寝室を出て、リビングを見る。


……だけど。

キッチンを覗いても、いつもの場所にマリはいない。

マリのいつも持って行っているオフィスバッグを探したけど、もうすでになかった。

随分早く家を出たらしい。


なんだよ。くそ。

テーブルには朝食が並んでいた。納豆、卵焼き、きんぴらごぼうに、裏返されたお茶碗。

炊き立てのご飯の香りが部屋中に漂っていた。


炊飯器の中はほかほかのご飯があるのだろう。

鼻がつんとなる。思わず目頭をおさえた。泣いてはいない。泣くはずがない。


部屋を見渡した。

寝室とリビングの二部屋しかない。二人だとそれほど広くなかった。

けど、こんなにも静かだっただろうか。

マリは大人しいし、喋る方ではないのに、部屋中にしんとした空気が漂っていた。

俺がここで飯を食うのはこれで最後だ。


荷物を取りに来ることはあっても、二度とマリと過ごすことはない。

自覚すると、胸に大きな穴が開いたようだった。仕事で埋め尽くされた俺の頭が、マリの事しか考えられなくなる。


いつの間に、こんなに……。

頭を抱えて、椅子に座った。

炊き立てのご飯をよそって、朝ごはんを食べた。


「うま……」


相変わらず最高にうまい。

出汁のきいた卵焼きも、甘辛いきんぴらも俺の好きな味だ。

……きっと、もう。食べることはない。


飯をかきこんで、いつも通り準備をして、オフィスバッグを持って、家を出た。

会社に出勤する。


エントランスをくぐると、受付ブースには制服を着たマリがいた。一瞬目が合って、さっと逸らされた。

今までと変わらないはずなのに、それが拒絶を連想させて胸が痛む。


ふぅと重い息を吐いて、エレベーターに乗り込む。

中には同期の同僚がいて、「おう」とあいさつを交わす。営業部の階について下りると、同僚が声を掛けてきた。


「よっ、出世街道まっしぐらだな」

「はぁ?」


何のことかさっぱり分からなくて、剣呑な返事をしてしまった。朝からイライラしているのだ。

振られたばっかりの傷はじくじくと広がっている。


「え? 違った?」

「なにが? 営業成績なら確かに今月トップだったけど」

「そんなんいつもの事だろう。俺が言いたいのはそうじゃなくて……」


営業部のフロアに入ろうとしたと同時に、専務が出てきた。

俺たちを見つけて、ハッとした顔をする。


「「おはようございます」」


二人とも丁寧に頭を下げて挨拶をする。


「あー、君。ちょっとついてきてもらっていいかな?」


専務が俺を見て言う。

何も心当たりがない。

たまに大きな取引先の時に一緒に出向くことはあるけれど、特別な接点はない。でも同僚はなにかを知っているらしく、専務の後をついていく俺を肘でこづいた。


「おめでと」


なにがおめでとうなのか。


何にもめでたくなんてない。女に振られた朝だっていうのに。イライラが止まらない。


営業の話なら別に営業部ですればいいのに、わざわざ特別フロアの専務室まで連れていくのはなぜなのか。

今日は朝からアポがあるから時間もないのに。


広い専務室に入ると、専務が「まぁまぁ座って」とご機嫌な様子でソファに腰かけた。言われたとおり、向かい側のソファに腰かける。


次期社長はほぼこの人で決まりだ。媚を売っておいて、悪い人じゃない。

……だけど、なぜ今日なのだ。タイミングが悪すぎる。


「専務。どのようなご用件で?」

「あぁ、まぁ少し噂になっているようだがね、私に娘がいることは知っているだろう」

「……はぁ」


知っている。

専務の娘は総務課で働いていて、コネ入社の使えない女だ。

領収証を持っていくとたまに対応してくれるが、いつまで経っても手際が悪くあまりいいイメージはない。

そこそこ見た目は男ウケするらしく、男性社員からちやほやされている。


「娘がね、前々から君のことを気に入っていたみたいなんだ。君は営業成績もいい、仕事も真面目だ。父親が口を挟むものじゃないのだが、娘から頼まれると断れなくてね」


…………なるほど。

そういうことですか。

確かに専務の娘には食事に誘われたことが一度あった。


でもマリと付き合っていたし、元々仕事のできない彼女の事が好きじゃない。

俺は仕事を理由に断ってからは、なるべく彼女を避けていたのだ。それで父親を使ってきたってわけね。


「君は今、お付き合いしている方はいるのかね」


マリが頭に浮かんだ。


正式には今、俺はフリーだ。

付き合っていない。そんな事を言うと、とんとん拍子に結婚まで持っていかれそうだ。

返事をしない俺に畳み掛けてくる。


「君にも悪い話じゃないだろう。もちろん娘とうまくいけば君の昇進も後押ししたいと思っている」


確かに悪い話じゃない。仕事は好きだ。出世も大好きだ。

この若さで営業主任をしているのは、俺くらいで、もうすぐ係長にしてくれると言われている。


でも、俺はただ上に上がることが目的なんじゃない。自分で、自分の力で認めさせたいのだ。専務の娘と結婚したから、出世した男だなんて陰で思われるのはまっぴらごめんだ。


「専務、申し訳ございません。本当に嬉しいお話なのですが……」




――専務室を出た。

断った俺に専務は人のいい顔で笑った。

専務は娘に言われて仕方なかったのだろう。俺のことも気に入ってくれていたようだが。


簡単な出世街道を目の前でちらつかされたけれど、そのためだけに好きでもない女と結婚するなんてとんでもない。

俺はそこまで馬鹿じゃない。

営業フロアに戻ると、さっきの同僚がにやにやしながら近づいてきた。


「どうだった?」

「なんで知ってたんだよ」

「えー、すごい噂になってんだって。主に女性社員の間でね。ルイ、お前人気だから広まるのが早いのなんの。多分娘の方が言いふらしてたんじゃね?」

「くだんねぇー」

「ルイと専務の娘が結婚したら、ルイは出世街道まっしぐらだなってみんな噂していたからな」

「出世なら自分でもぎ取るから」


ため息をつく。

どっと疲れた。

マリには理由も言われずに振られるし。


…………ん?

肩を叩いて離れていこうとする同僚を引き留める。


「な、なぁ」

「なんだよ」

「その噂って、受付まで流れてると思う?」

「受付? うーん、知ってんじゃないかな。女は噂好きだし、受付と総務は割と接する機会多いみたいだから」

「……ふうん」


頭まで血が上る。

物言わずのあの女をいますぐとっ捕まえて、問いただしたかった。


でももうすぐアポがある。

とりあえず今日の夜に家に行こう。そう決めて、会社を飛び出した。


仕事が終わると二十二時になっていた。

マリのマンションへと向かう。


朝、郵便受けに合鍵を入れておいた。

郵便受けを開けてみたけど、もうそこに鍵はなかった。だから手元には鍵がなくて、オートロックの前に立つ。

部屋番号を呼び出すと、少しの間があって、マリが出た。



『……ルイ?』


カメラ付きだ。

俺の姿は見えているのだろう。

どうせなら、俺の持て余した怒りさえあいつに見えればいいのにと思った。


「開けろよ」

『え、でも、…………うん』


なにかを飲み込んだらしい。

マリは素直にオートロックを解除する。俺はそのまま歩きなれたロビーを進んだ。

部屋の扉には鍵がかかっておらず、呼び鈴も鳴らさずに開けると、マリが玄関口に立っていた。


「ルイ……。おかえり……?」


戸惑ったようなマリの言葉を無視して、部屋にズカズカと上がり込んだ。ソファに通勤カバンを放り投げて、マリの元へと足を進める。

マリがおびえたように一歩後ろに下がった。


「別れる理由聞きに来たんだけど」


マリの近くに立って見下ろす。

マリは俯いたまま、俺の顔を見ようとはしない。


「……言いたくない」

「男でもできた?」

「ち、違う!」


マリが顔を上げて必死に訴えてくる。そんな顔しなくたって、分かっている。


「じゃあなに? 俺の事嫌いになった?」


マリは困ったように瞼を伏せてから、小さく首を振った。柔らかそうな髪に指を差し込みたい気持ちになる。


「……俺の出世のために身を引いたつもり?」


その言葉を告げると、マリの身体は一瞬電流が走ったみたいに震えた。そんな事だろうと思った。

くだらない考えで、いつだって自己完結するのがマリの悪い癖だ。


「なぁ、俺がいつ頼んだ? お前にそんな情けをかけられるとは思ってもみなかったわ」


酷薄な言葉が口から出た。

マリは可哀想なくらい肩を縮めて、俺の顔を恐る恐る見上げてくる。大きな瞳の縁に水が張っていく。


「ちが……。ルイは仕事が好きだし、……それに、専務の娘さん、明るくて、綺麗で。彼女と一緒になった方が、ルイは幸せかなって……思って」

「何勝手に決めてんの。なぁ。俺が専務の娘がいいって一回でも口に出した事あったっけ。お前さ、今まで一緒にいた期間をなんだと思ってんの。ふざけんなよ」


面と向かって立っているのも馬鹿馬鹿しくなって、ソファへと乱暴に足を進める。すると、後ろから衝撃が走って、マリに後ろから抱きつかれていくことに気付いた。

俺より小さなマリが俺の背中に顔を埋めている。


「……ごめんなさい、ルイ。……ごめ、ん。ごめんなさい」

「離せ」


マリが俺の後ろで嗚咽をするのが分かった。

マリの腕を無理やり引き離して、後ろを振り向く。


絶望を顔に張り付けて、マリが突っ立っていた。マリの腕を引く。


「座って」


ソファに座らせる。マリの真ん前に向かい合って、膝立ちになった。マリの両手を握って、顔をじっと見る。

マリは涙をぼろぼろと流しながら、俺の顔を不思議そうに見ていた。


「マリ。俺、今回の件、マジで怒ってるけどさ、愛想は尽かしてない。でも、また繰り返されたら正直やってけないわ」

「………うっ………ひっ……」

「だからさ、よく聞けよ。一回しか言わないから」


泣いたまま、見上げてくるマリと目を合わせる。

頬に流れた涙を親指で拭ってやる。


「俺は、他の誰でもなく、お前がいいわけ」

「……………」

「お前は綺麗だし、料理もうまいし、エロいし、お前は誰に対しても引け目を感じる必要なんてないから。分かる?」

「……えろい……」


マリが呟く。

笑って、マリの手を握る手に力を込めた。


「なぁ、マリ。お前が好きだ。別れるなんて言うな」


じっと目を見つめた。

綺麗な宝石みたいな瞳がゆらゆらと揺れて、大粒の涙をいくつも零した。マリはどうやら言葉にならないようで、何度もこくこくと頷いて、俺の胸元に飛び込んできた。

抱きかかえて頭を撫でてやる。


分かったんだよな、俺は。

お前とうまくやっていくには、怒ってばかりじゃダメだって。

それだけお前とうまくやっていきたいって事なんだよ、分かれよ、マリ。


「ルイ……っ。ごめんなさい……ルイ、すき、すき……っ」

「もういいから」


柔らかい髪に指を差し込んだ。

さらさらと流れる髪を撫でる。


目の前の女を愛おしいと思う。心から。

今日永遠にお別れかと思ったが、まだ手元にある。

ホッと息を吐く自分がいた。


「マリ。一緒に風呂入るぞ」

「うん。入る」


泣きはらした顔で素直に後ろをついてくる。

華奢な身体が俺を誘うように、カーディガンを脱いだ。

ノースリーブになったマリは、そのまま脱衣所に向かう。

今すぐ脱がして、めちゃくちゃにしたい気分になる。


だめだな。

マリといるとどうもこういう欲ばかりが駆り立てられて。

マリが一足先に脱衣所でノースリーブのカットソーを脱いでいた。ブラだけになったマリは俺を見て、一瞬恥ずかしそうに目を伏せた。


「早く脱げよ」

「うん。でも、ルイまだ脱いでない」

「はいはい」


カッターシャツのボタンを外して、服を脱いで上半身裸になると、マリが目の前でかぁっと顔を赤くした。


「お前、何回赤くなったら気が済むわけ」

「だって。脱ぎ方とかもかっこいい」

「じゃあ、お前もエロく脱いでみろよ」

「うん」


そこで「うん」と言えるところが変わった女だよな。ほんと。

マリはじっと俺の目を見つめながら、ブラのホックを外すともったいぶってブラを取り去った。


「やば」


思わずごくりと唾を飲み込む。まんまとやられてるし。俺。


「その気になった?」

「なった」

「ルイ」

「ん?」

「キス、して。朝まで」


マリが潤んだ瞳で見つめてくる。

素直になったマリの可愛さったらなかった。

こいつって本当にこういう時だけ素直になるんだよな。普段は何も口にしないくせに。


魔性の女ってこんな奴の事を言うのかななんて、マリを抱き寄せながら頭の隅で考えた。



End.

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