第4話 恐怖と依存
「それじゃあ仕事、行ってくるね」
「はいはい、いってら~」
私に背中を向けて手をひらひらさせている琴音ちゃんを見ながら、私はドアを閉じて、鍵を閉めた。
(もう......もうちょっとくらい甘えたさんになってくれてもいいのになぁ......ま、今のでも全然嬉しいけど!)
何てことを考えながら、私は会社へ向けて歩きだした。
これが、月曜日の朝。
✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳
「それじゃあ、行ってくるね~」
「あいよー.........ふわぁ~」
「ねえねえ、せっかく起きてるんだし、ちょっと充電させて欲しいんだけど、いいよね、?」
私は、あくびをしながら、ソファにだらんと寝転がっている琴音ちゃんに言った。すると、
「はいはい、帰ってきたらしてあげるから、はよ行ってきなさい。」
と、今はだらけるのに忙しいから、といった感じで軽くあしらわれてしまった。
「えー、なんでよー!」
「だってアンタ、一回ハグとかしだすと、永遠にし続けるじゃん。仕事行けないでしょ、そしたら。」
「うーん、確かに......まぁ、そうだけど......お願い!ちょっとだけ......ね、?」
「.........五秒ね。」
「うん!ありがと~ やったー!」
「めずらしく起きてる上に、機嫌がいい私に感謝しなさい、アンタ。」
「ふふふ、ありがとう、琴音ちゃん。」
そうして、結局、十秒くらいハグして、頬にキスをして、私は会社へと向かった。
これが、火曜日の朝。
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「琴音ちゃん、行ってくるね。」
私は、寝ている琴音ちゃんの頭をポンポンしながら、言った。幸せそうに寝ている琴音ちゃんを見れただけで、一日の活力が湧いてくる。
こっそり、右頬にキスをする。
これは琴音ちゃんには内緒。
これが、水曜日の朝。
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「琴音ちゃん、昨日の夜に言った通り、ちょっと仕事の方が大変で、今日は帰りが遅くなっちゃうから、ご飯は先に食べてていいからね。」
「はいはい、分かったから、大丈夫だから。気にせず行ってきなさい。」
「ふふふ、まあ、たまには私デトックスということで。」
「は? 何バカなこと言ってんの?」
「あ、そっか、琴音ちゃんは、私がいないと駄目だもんね。デトックスなんてする必要ないもんね。」
「はいはい、そんなワケわからんこと言ってないで、私のために稼いできなさい。」
「はーい、行ってきます~」
これが、木曜日の朝。
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「琴音ちゃん、行ってくるね。」
私は、ベッドで寝ている琴音ちゃんをギュッと抱きしめながら言った。
「大丈夫だからね、今日はちゃんとすぐに帰ってくるから。」
昨日の夜も、いつも通りだった。琴音ちゃんは夜ふかしさんだから、夜遅くに帰ってきても起きてて、結局、一緒に晩ごはんも食べたし、何にも問題はないはずだ。
だけど.........どうして......
どうして、今寝ている琴音ちゃんの顔は、少し悲しそうに見えるのだろうか。
これが、金曜日の朝。
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「.........」
「それじゃあ、行ってくるね。ごめんね、今日もちょっと遅くなりそう。」
玄関で、私は靴を履きながら言った。
今日は土曜日なのだが、今、会社の方がかなり忙しいため、急遽、私は行くことになった。
「別に大丈夫だし、そんなに謝る必要ないから。アンタは何も悪くないし。」
「うん、ありがと、琴音ちゃん。」
「......ほら。」
琴音ちゃんは、ぶっきらぼうな声音で、そう言いながら、私を優しく抱きしめてくれた。
「わ、わわ、ありがと......琴音ちゃん。」
「耳、真っ赤すぎでしょ、ウケる。」
「だって、急にされたらビックリするし、......それに、ドキドキしちゃうから。」
別に、いつものやり取り。
普段通りの朝。
「はい、これでおしまい。ほら、早く行った行った。」
「ふふふっ、琴音ちゃんのお陰で元気出たから、パパッと仕事終わらせて、早く帰って来れるように、頑張ってくるね!」
「は、そんなの当然でしょ? 私にハグしてもらったんだから、さっさと帰ってきなさい。」
「ふふふ、はーい。」
うん、いつも通りだ。いつもの通り。
そのはず......
そのはずなのに......
どこかぎこちなさを感じていた。それはきっと、私だけじゃなくて、琴音ちゃんも。まるで歯車に錆びが付いてしまったかのように。私たちのやり取り一つ一つに、何かのフィルターがかけられてしまったかのようだった。
これが、土曜日の朝。
✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳
そして、土曜日の夜。
私は結局、仕事を早く終わらせることが出来なかった。
(......はぁ、琴音ちゃんに、申し訳ないなぁ。)
朝、あれだけのことを言っておいて、ちっとも早く終わらせることが出来なかった。何なら、本来よりも少し時間がかかってしまった。
(でもまあ、琴音ちゃんなら......きっと......許してくれるよ......ね.........)
いや、そうだ。これに関しては疑う余地はない。
琴音ちゃんが私のことを許してくれるのは、全くもって疑いようのないことだ。仕事に関することで遅くなってしまった私を許さないなんてことはないだろう。もちろん、冗談としてなら言ってくるだろうけれど、本気ではない。それは、分かっている。
......ただ、ただ。
それとは別で、何か、あまりよくない予感がする。
「......ふー」
私は、家の扉の前で一呼吸してから、鍵を開けて、ドアを開けた。
「琴音ちゃん、ただい......まー」
扉を開くと、そこは真っ暗な部屋だった。時刻は深夜。照明をつけなければ、当然、部屋は暗い。
「琴音......ちゃん?」
私は急いで靴を脱いで、リビングの方へと向かった。
私は、何が起きているのか、事態は何となく、ほとんどぼんやりとだが、予想がついていた。
それは、ある意味では、琴音ちゃんの宿命だった。それは、琴音ちゃんを苦しめる呪詛だった。
私は、リビングのソファの上で、いわゆる体育座りの形で、顔を足に埋めている琴音ちゃんの前に行き、しゃがんで、琴音ちゃんの手を握りながら、言った。
「......琴音ちゃん?」
私が、そう言った瞬間に、琴音ちゃんはバッと顔を上げた。
その顔は、いつもの顔ではなかった。
不機嫌そうな顔。
楽しそうな顔。
ため息をつく時の顔。
照れてる時の顔。
幸せそうな顔。
悪いことを考えてる時の顔。
壊されたがっている時の顔。
快楽に溺れている時の顔。
タバコを吸っている時の顔。
笑っている時の顔。
そういう顔ではない顔だった。
目は腫れていて、涙でぐちゃぐちゃ。全てが暗く、まるで、顔全体が恐怖に染まりきってしまったかのようだった。ある意味、どこか子供らしさを含んでもいた。そんな、顔。
「.........あ」
私が帰ってきたということを認識した琴音ちゃんは、泣いたあと特有の少し詰まったような声で、無理やり、そう言葉を吐き出した。
「......あ.........ああ......」
私は、どんな風に接すれば良いのか分からずにいた。ただ、おろおろとして、琴音ちゃんのことを見ていた。
「あ......あ......あ、ごめ、ごめんね。......でんき、つけてない......から、つけないとだし、......あ、あと、カーテンも......しめないと......」
琴音ちゃんは、そう言いながら、ソファから降りて電気を付けに行こうとしてくれた。
.......のだが、琴音ちゃんは、自分自身の足に引っかかって、転んでしまった。私が支えれば良かったというのに、どう接したら良いかばかり考えていて、反応が遅れてしまった。
「......あ、あ、ぅあ。」
「琴音ちゃん、大丈夫!?」
「う、うん、大丈夫。大丈夫だから、心配しないで平気だからね。」
琴音ちゃんは力なくそう言って、ぎこちない微笑を顔に張りつけて言った。
私は、その顔を見るのが、たまらなくつらくて、痛くて、苦しかった。悲しさで頭がどうにかなりそうだった。琴音ちゃんにこんな思いをさせる世界の全てを破壊しつくしてしまいたいと思った。
そんなことを考えながら、私はカーテンをしめて、電気をつけてくれた琴音ちゃんの手を引っ張って、一緒にソファに座った。
「えっと......琴音ちゃん。その......きっと、何かしらの辛いことがあった、のかな、?」
私は、恐る恐るといった感じで、そう尋ねた。
「......あ......えっと.....その......」
琴音ちゃんは、どうしたらいいのか分からないといった感じで、さらに辛そうになってしまっていた。
「あ、その、まだ色々と整理がついてなかったり、言葉に出来ない何かだったりするものもあるだろうから、無理に今話さなくても大丈夫だからね。」
冷や汗が流れる。自分の一言一言が、琴音ちゃんにどうやって影響してしまうのかを考えると、怖くて怖くて仕方がなかった。
「うん......ありがとう......ごめんね。」
「大丈夫だよ、琴音ちゃん。気にしないで、って言っても気にしちゃうかもしれないけど、大丈夫だからね。」
私は、琴音ちゃんにハグしながら、そう言った。琴音ちゃんの体はビクビクと、小さく震えていた。ただ、抱きしめたことによって、その震えは、だんだんと収まっていた。そのことに、少しの安堵を覚えた。
「......心音ちゃん。」
「うん、どうしたの?」
「......私のこと......その、いつも......面倒じゃない......?」
「え、うん。全然面倒じゃないよ。」
「ホント......?」
「私にとっては、琴音ちゃんとの時間が全てだから。琴音ちゃんの全部が愛おしくてしょうがないから。だから、面倒なんて思ったこと、一度もないよ。」
「......じゃあ......その、わがまま言ってもいい、?」
「うん、いいよ。」
「その.........」
琴音ちゃんは、ゆっくりと抱きしめ合っている形を解いて、だけど、決して離れはせずに、私の顔の正面に、自身の顔を持ってきて、言った。
「頭......撫でてほしい......」
その顔は、先ほどまでの絶望しきったかのような顔とは違った。悲しみで満ち溢れているものの、少し、いつもの顔に近かった。
「うん、喜んで。」
そうして、琴音ちゃんの頭を撫でる。ゆっくり、琴音ちゃんの髪の毛の流れに沿うように。
✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳
その後、私と琴音ちゃんは、一緒に晩ご飯を食べて、お風呂に入って、そうして、一緒に寝室のベッドの上に横になっていた。
「......ねぇ、心音ちゃん。」
「うん、どうしたの?」
「その......ぎゅってして欲しい。」
「うん、いいよ~」
そうして、私は琴音ちゃんの頭を包み込むように、琴音ちゃんのことを抱きしめた。琴音ちゃんの呼吸のリズムが、体を通じて私に伝わってきていた。
「......もうちょっとでいいから、お願い。もう少しだけ、この.....ままで、いさせて。」
「うん、分かったよ。」
琴音ちゃんをさらに少し、強く抱きしめる。体をもっと密着させる。琴音ちゃんが少しでも安心できるように。
それから、数分後。
「......琴音ちゃん、?」
琴音ちゃんは、泣き疲れたのもあったのか、すぐに寝てしまったようだった。
その寝顔は、どこか少しだけ、陰鬱なものが抜けているように見えた。
(私は、ずっとここにいるからね。)
そんな言葉を、心の中で呟きながら、私は琴音ちゃんと同じように、眠りにつくのだった。
✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳
目が覚めて、ゆっくり隣へと視線を向ける。
琴音ちゃんは、まだ眠っていた。
私はベッドの上で、体を伸ばしたり、軽く体を動かして、寝室のカーテンを開けてから、再びベッドの上へと戻って、横から、琴音ちゃんの顔を見ていた。
(............)
穏やかな顔、と言えばいいだろうか。その顔は、昨日のような顔ではなかった。なんてことを考えていると、パチリ、パチリ、と琴音ちゃんの目が瞬きをしていた。
「......おはよ」
「おはよ、琴音ちゃん。」
琴音ちゃんの声色は、いつもの声色だった。
「.........」
「.........」
お互いに、無言の時間が流れていた。私も琴音ちゃんも、どうすれば良いのか、よく分からなかったからだ。
すると、琴音ちゃんは無言のまま、私に抱きついてきてくれた。
「琴音ちゃん?」
「......その、昨日は、ごめん。」
琴音ちゃんが私を抱きしめる力が、強くなった。
「......謝らなくて大丈夫だよ。私は、琴音ちゃんの味方だから。」
「......ありがと。」
琴音ちゃんは、私の肩に顔を埋めながら、続けて言った。
「昨日......さ、お昼過ぎくらいから、急に寂しくなっちゃって、でも、アンタは私のために必死に仕事頑張ってくれてて、私はわがままばっかりで、そんなこと考えてたら、どんどんつらくなっちゃって、そしたら、そしたら......いつか、いなくなっちゃったらどうしようって考えだしちゃって、どうしようもなく、つらくて......」
琴音ちゃんは、泣きそうな声で、頑張って言ってくれていた。私は、琴音ちゃんの頭を撫でながら、相づちを打って、話を聞いていた。
「アンタのことは信用してるし、いなくなるなんてことはないって分かっているけど、でも、それでも、もし、何かあったらって考えると、怖くて、怖くて......」
「うん、そうだね。信用と不安は別のものだし、何があるかなんて、分からないもんね。」
「うん、うん.........」
琴音ちゃんは、顔を上げて、私の顔の前まで移動させて、私の手を握った。
「ねぇ、心音。」
「うん。」
「ずっと、ずっと......ちゃんといい子で待ってるから、だから、お願い......ずっとずっと私と一緒にいて。私から離れないで。私のこと......見捨てないで。」
琴音ちゃんは、悲しそうな顔をして、懇願するかのように、縋るかのように、言った。
「うん。ずっとずっと、一緒にいるよ。ずっと離れないで、隣にいる。見捨てたりなんて、しないから。」
私は、ふっと微笑みながら、琴音ちゃんの手を強く握って、言った。琴音ちゃんは、昨日の夜から初めて笑顔になって、私に、その幸せそうな顔を向けてくれた。そして、琴音ちゃんは、私のことをもう一度強く抱きしめて、
「ふぅ、ありがと、お陰で元気になった。」
と言った。
「そっか、良かった。本当に。」
私は、噛みしめるように、そう言った。
「はい、というわけでアンタ、お腹空いたから早くご飯作って。」
「ふふふ、はいはい。あーでもなぁ、休みの日くらいは、楽したいからなぁ~」
「はぁ、もう。しょうがないから、今日だけは特別に手伝ってあげる。」
「え!ホント? 助かる~、ありがと、琴音ちゃん。」
「別に、ただの気まぐれだから。」
「ふふっ、それじゃあとりあえず、顔洗ったりしに行こっか。」
私と琴音ちゃんはベッドから立ち上がった。そして、寝室から出ようとドアの方へと向かった直後だった。
私は、後ろからギュッと、琴音ちゃんに抱きしめられた。
「ふぇ? 琴音ちゃん......?」
そして、琴音ちゃんは、私の耳元で囁くように言った。琴音ちゃんの匂いが、体温が、ゆっくりと、私の体へと伝わっていた。
「いつもホントに、ありがとう。心音のこと、大大大好き。ずっとずーっと、一緒にいるから。」
私は、ドクドクと鳴る心臓の音を無視して、琴音ちゃんのその言葉を聞いていた。
そうして、私は琴音ちゃんの方へと体を向けて、同じように耳元で囁いた。
「私も、琴音ちゃんのこと、大大大好きだよ。たとえ、琴音ちゃんが嫌って言っても、絶対絶対離さないんだから。」
私は、琴音ちゃんの頭が折れちゃうんじゃないかというくらいの思いで、琴音ちゃんのことを抱きしめた。
「ちょっと、アンタ......力強すぎ、息できない。」
「あはは、ごめんごめん。」
「全くもう......ほら、早く行くよ。」
「は~い!」
✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳
『ずっと一緒にいる』という言葉。
『絶対』という言葉。
確証のない、空虚な言葉たち。
ずっといられる保証なんてないし、絶対なんていう言葉ほど、悲しいものはない。
そんなこと、私も琴音ちゃんも、分かっている。それでも、この言葉に頼らないと、この言葉に酔わないと、苦しくて苦しくて仕方がない。
だから、私と琴音ちゃんは、何度もこれを繰り返す。不安になって、怖くなって、お互いにお互いを慰めあって、それで、それで、それで......
これはきっと、端から見れば不毛なことなのだろうけれど、でも、それでも、一緒にいたいから。
ただ、愛しているから。
そうして、私と琴音ちゃんは、今日も呼吸を繰り返す。幸せのためでも、不幸のためでもない。
ただ、側にいるために。
堕落者の二人 神田(Kanda) @kandb
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