僕の心に火がついた 一
昨夜、雄大に言われた通り寝坊をしない為に早めに寝た僕は、坂上と約束した時間に余裕を持って間に合う時間に起きる事が出来た。
しかし、時間に余裕があるとはいえ、のんびりとはしてられない。
一昨日、散歩に出た時には誰とも会う予定など無かったので、ほぼ寝起きの状態で出掛けたのだが、今日は多くの大人が仕事をしている場所へと向かうのだから、最低限の
そう思った僕は洗面所へと向かった。
まずは顔を洗い、寝癖を直していく。
一度、ワックスを付けていこうかどうか迷ったが、そこまでする必要も無いか、と結論づけると服を着替える為に自室に戻った。
さて、問題は服装だ。
撮影現場は勿論の事、多くの大人達が居る場所に行った経験があまり無い僕は、一体どういう服を着ていけば良いのか、タンスの前で迷ってしまう。
大人達が仕事をしている場所なのだから制服を着るべきか……
でも、職場体験とかでは無い訳だし逆に目立ってしまいそうな気がする。
これなら、昨日の内に坂上に今日着ていく服装について相談をしておけば良かった。
そう思いつつも僕が手に取ったのは白いTシャツとジーパンだった。
これなら流石に浮いたり、目立ったりする事は無いだろう。
そう思った僕は手早く着替えを済ませると、寝ている家族を起こさない様に静かに玄関の扉を閉めた。
外に出ると、生暖かい空気が僕を包んだ。
同時に坂上のマネージャーさんに何を言われるのだろうか、どう対応をしていこうか、ととても緊張してきた。
しかし、ここまで来たら覚悟を決めるしかない。
そう考えて気合いを入れた僕は、一昨日の散歩の時と同じ道を辿りながら撮影現場に向かった。
まだほとんど誰も人が歩いていない道を進んで行くと、薄暗い景色の中で光輝いている場所があった。
僕がそこに近付くにつれて静寂とは無縁のザワザワとした道具を動かしたり、誰かと誰かが話したりしている音が聞こえてきた。
撮影現場に辿り着いたが、坂上の姿は見当たらない。
周りに知らない大人達しか居ない中、不安な気持ちを抑えながら坂上が来るのを待った。
「ごめん、宇多川君、お待たせ!」
自分の名前を呼ばれて、そちらの方へ視線を向けると僕は思わず目を見開いた。
手を振りながら近づいて来た坂上はなんとブレザーの制服を着ていた。
この二日間、坂上の普段着しか見てこなかった僕は、まさか坂上が制服を着ているとは思わず、ついジッと見てしまう。
「……宇多川君、どうかした? ボーッとしているけど、朝早かったせいでまだ眠たい?」
僕が何も言わないでいるのを不思議に思ったのか、坂上は僕の顔を覗き込みながら心配そうな口調で声を掛けてきた。
僕は坂上のその行動が制服姿も相まって、不思議とクラスメイトの女子と会話をしている様な気持ちになり、なんだかとても恥ずかしい気持ちになってきた。
坂上とは同い年で同じ高校生であるので制服を着ている事自体は当たり前であるし、この二日間の間はそこまで緊張する事も無く話す事が出来ていたはずなのだが……
まさか坂上の制服姿でここまで動揺をしてしまうとは思わなかった僕は、「……い、いや眠くは無いけど、その、制服……」と、たどたどしくなりながらも呟くと、坂上は、「制服? ……ああっ、これの事?」と言って、制服を少し引っ張った。
坂上のその無意識の仕草に僕はさらに動揺してしまう。
なんだかすごく調子が狂う。
「宇多川に説明していなかったっけ? 今撮っているのはドラマなんだけど、高校生の恋愛を題材にした物なんだ。だから、勿論、私も制服を着ているの!」
そうやって明るい口調で言う坂上も見ながら気持ちを落ち着けていると、突然坂上がニヤつき始めた。
「宇多川君、顔が赤い様だけど熱でもある? それとも、私の制服姿に見惚れちゃった?」
「えっ!? い、いや、その……」
坂上の突然、図星を突いた言葉に僕は何も言葉を返す事が出来ず、ただ慌てる事しか出来なくなってしまった。
坂上はそんな僕の事を面白そうに眺めると、「そうか、宇多川君は制服フェチだったんだね。全然気が付かなかったよ。次のデートからはこの制服を着て来ようかな。私の高校の制服では無いけど、この制服も可愛いし、問題無いよね?」と、楽しそうな表情を浮かべながらそう言った。
坂上は完全に僕の事を弄って楽しんでいるのだろう。
これ以上弄られては僕の精神が持ちそうに無い。
何か言わなければ、そう思った瞬間、「静香、この男の子と仲が良いのは十分伝わったから、そろそろ彼を苛めるのは止めてあげなさい。それに、その制服は衣装なのだから、勝手に持ち出したら怒られるわよ」と、坂上の後ろから嗜める様な声が聞こえた。
声のした方に視線を向けると、スーツ姿に眼鏡を掛けた、いかにも仕事が出来そうな女性が立っていた。
どうやら、坂上の制服姿を見て慌て過ぎたせいで、その女性の存在に気が付く事が出来なかった様だ。
坂上の後ろに立っていた人に気が付かない程、自分は動揺していたのか、と恥ずかしい気持ちになった。
「苛めてなんかいないよ。次のデートの服装について相談をしていただけだよ」
「……傍から見ていてとてもそう思えなかったから言っているのよ」
女性はそう言って、軽く息を吐くと、こちらに視線を向けた。
「折角、来てもらったのに、いきなり騒がしくしてしまってごめんなさいね。私はこの子のマネージャーをしております、鈴村由香里と言います」
鈴村さんはそう言うと、一枚の小さな紙をこちらに向かって差し出した。
一体なんだろう、と思いながらその紙を覗き込んでみると、そこには鈴村由香里という名前の他に鈴村さんの所属が記載されていた。
それを見て、これはもしかして名刺ではないか、と思うと、これはどう受け取れば良いのだろうと考えた。
こちらは名刺は作った事も持った事も無ければ交換をした事も無い。
急に大人のやり取りになったぞ、と僕は動揺したが、取り敢えず鈴村さんの動きを真似すればなんとかなるだろう。
そう思った僕は見様見真似で名刺を両手掴むと、「ありがとうございます」と言って、受け取った。
今のやり取りで鈴村さんから何か言われないか、と心配になったが、鈴村さんから何か言ってくる気配は感じられない。
取り敢えず、大丈夫だったみたいだ。
そう思うと、僕は安心したからか自然と息を吐いた。
この場は何とか切り抜ける事が出来たみたいだが、この先もこの様なやり取りが行われると考えると気が重くなる。
そんな不安に思っていると、遠くの方から、「坂上さん、出番です!」と、声が聞こえてきた。
「はーい、今行きまーす!」
坂上は大きな声で言うとこちらを振り返った。
「宇多川君、出番みたいだから行ってくるね。何処かで見てて?」
「えっ? いや、その……」
突然の事に僕は声を上げようとしたが、坂上はそれよりも早く動き出すと、手を振りながら去って行ってしまった。
坂上も演者だという事は事前に分かっていたので、一人きりになってしまう時間もある事は理解していたが、まさかそれがいきなり訪れるとは考えてもいなかった僕は、坂上の出番が終わるまで一体何処で何をしていたら良いのだろう、と途方に暮れたのだった。
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