第五章 匂い
朝の通勤快速が途中駅に着くと、かなり多くの人が降りた。
一瞬空いた車内で圭子の身体は久しぶりに自由を取り戻した。
「ハァー・・・・」
大きく息を吐いた後、素早く反対側のドアに場所を確保するように身体を寄せた。
(良かった・・・これで少しは楽になれる。さっきはひどかったもの・・・)
四方を囲まれた状態の中央のエリアでは身動きさえ自由にならなかったのである。
女性専用車が出来たせいで普通車両は逆に男ばかりになる事を圭子は知らなかった。
お抱えの運転手が操る父の車で何時も通学しているので、朝の通勤ラッシュには慣れていないのだ。
だから、途中駅での乗り換えで降りた人数以上に、各駅停車の電車から乗り換えてくる数の多い事を忘れていた。
「キャッ・・・」
悲鳴をあげる暇も無く、人の大きな波が襲うように寄せて少女の身体を押しつぶした。
「あぁっ・・・」
柔らかな頬がガラスに密着し、美しい顔が歪む。
「い、いた・・い・・・」
振り絞った力で細い腕をドアと身体の隙間にこじ入れた。
「キャー・・・」
それでも圧倒的な人数は容赦無く圧力をかけてくる。
「あぁ・・あ・・・・」
苦しい時間が続く。
ドアが閉まる寸前に無理にでも乗ろうとする何人かが強引に身体を入れてくる。
駅員も発車させるために力を込めて乗客の身体を押している。
「あぐぅ・・うぅ・・・」
(い、いや・・・く、苦しい・・・)
ほんの二、三分の事なのに圭子にはひどく長く感じた。
こんな体験は初めてだった。
身動きが取れない状態は恐怖に似た切迫感を与える。
ドクン。
その時、血が逆流するように脈打った。
苦しさがピークに達した瞬間、何かが身体の中で弾けたような気がしたのだ。
「あぁっ・・・」
苦痛に歪む少女の唇から切ない声が漏れる。
同時にジーンとした快感が身体を駆けぬけていった。
(な、何・・・この・・変な感じ・・・)
圭子はその違和感に戸惑いながらも、ある事に気付き始めていた。
(あぁ・・・この・・匂い・・・)
首筋に生暖かい息がかかっている。
生臭いすえたような匂いだった。
そして何よりもタバコのヤニ臭さが強烈に混じっている。
「あぁっ・・・」
圭子は全身の力が抜ける程の衝撃を感じた。
(そ、そんな・・・?)
得体の知れない感覚がジワジワと沸き上がってくる。
それが懐かしく思える程、妖しく少女を誘うのだった。
(だ、だめぇ・・・)
圭子は再び現れようとするイメージを必死になって打ち消そうとしていた。
「うっ・・・くっ・・・」
唇が粘つき、何かを予感している。
(いやっ・・・い・・や・・・)
理性が拒否するのにも関わらす、その感触が鮮明になっていく。
『お前は俺の事が・・・』
声が聞こえ始める。
(ち、違うっ・・・)
首筋に当たる息がむず痒く刺激する。
「うっ・・・うぅっ・・・」
生臭い匂いに頭が痺れていく。
(お、降りなくちゃ・・・)
このままではどうにかなってしまう。
圭子は身をよじって動こうとしたが人並みの壁はビクともしなかった。
そうするうちにドアが閉まる音がした。
「キャッ・・・」
ガクンと大きく揺れて圭子はドアに強く押し付けられた。
身動きも出来ない状態で電車が発車した。
(ああっ・・そ、そんな・・・)
ゆっくりと流れ出すホームの風景を少女は切ない気持ちで見ている。
次の駅に停車するまで決して降りる事が出来ないのだ。
そして圭子は思い出した。
この列車は通勤快速で終点までノンストップである事を。
官能小説の序章① 進藤 進 @0035toto
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