第四章 満員電車
「キャッー・・・」
雪崩のような人波と共に電車に押し込まれ、圭子は悲鳴をあげた。
「くぅっ・・・」
久しぶりの満員電車は想像を遥かに超え、凄まじい混雑ぶりであった。
(く、苦しい・・・)
息も出来ない程の密集された空間は大半がサラリーマンの男達だった。
華奢な圭子の身体は身動きが取れない状態で両足も浮き上がりそうになっている。
いわゆるオヤジ臭という独特の匂いが男達から発散されていた。
きな臭く、腐ったような匂いだ。
それは嫌が応にも昨日の夢を思い出させる。
(い、いやぁ・・・)
悪夢の再現に少女は悲鳴をあげそうになった。
唇にネットリとした感触が蘇る。
※※※※※※※※※※※※※※※
『うっ・・うぐぐぅ・・・』
タバコ臭い味が痺れるようにまとわりついていた。
振り払おうとしても、どうする事も出来なかった。
『フフフ・・・』
男の目が笑っている。
おぞましさに少女の瞳は大きく開いていた。
『おほぉ・・おんん・・・』
強引に入ってきた舌が圭子の口の中で暴れまわる。
『んぐっ・・・んっ・・・』
苦しさで吐きそうになる。
(い、いやぁ・・・)
両目から溢れた涙が頬を伝い、流れていく。
男の口がそれをすくい、圭子の舌に絡ませてくる。
新たに加わった味が奇妙な感覚を浮かび上がらせる。
男の唇の柔らかさを今更のように意識し始めていた。
『むぅ・・ぐぅ・・・』
頑なに閉じようとしていた唇から力が抜け、相手の侵入を許し始めている。
むず痒い興奮が少女を包む。
(いやっ・・・こ、こんな・・・)
思いに反して、夢の中で圭子は変わっていく。
まるで自分を裏切るように。
長い睫毛が両目を覆う。
うっすらと閉じた眼差しはウットリとした表情に見える。
『ん・・・ふぅ・・ん・・・』
自らも求めるように舌を絡めていったのだ。
あんなに嫌だった生臭い味が、別なものに思えてくる。
(あぁ・・・だ・・め・・・)
感情が止められない。
(キスが・・あぁ・・・)
溢れ出した欲望が少女を渦の中に飲み込もうとしていた。
不条理な事に、その感覚は余りにも甘美に思えたのだ。
(気持ち・・いい・・・)
『あっ・・・ふぅっ・・んんっ・・・』
(だめ・・・ああ・・でも・・・)
圭子の両手が男の首に巻き付き、顔を引き寄せる。
(おい・・しい・・・)
『おおぉ・・・むぅ・・んんぐぅ・・・』
少女の変化に男も激しく反応する。
『むふぅ・・ぐぅ・・・』
絡みつく舌が少女の唇を蹂躙する。
『んぐっ・・・んん・・むぅ・・・』
あふれ出る唾液を吸い取っていく。
(ああ・・す、すごい・・・)
『あふっ・・・ん・・ふぅ・・・』
逆らう事なく圭子も応じる。
『ぐぅっ・・・んっ・・んふぅ・・・』
男から返される生臭い味を厭わずに飲み込んでしまう。
(ど、ど・・うし・・て・・・?)
夢の中のシナリオは少女の意識を操り、不条理なストーリーへと展開していく。
(おいしい・・あぁ・・ああぁ・・・)
『はぁっ・・・はぁっ・・おお・・おあぁ・・・』
『あはぁっ・・はあぁっ・・あぁ・・・』
二人の息が重なり合い、互いを求めていく。
『おおお・・・圭子っ・・圭子ぉ・・・』
名前を呼ばれ、薄目を開けた少女の目に男の顔が映る。
(あぁっ・・・)
不意に蘇った理性がおぞましい事実を知る。
『むふぅっ・・んぐぐぅ・・・・』
ケダモノのように犯されている。
(だめぇ・・・いやぁ・・いやぁ・・・)
恐怖と興奮が交じり合いながら、膨れ上がり破裂しそうになっていた。
(いやぁ・・・いやっ・・だめっ・・だめぇっ・・・)
理性が必死の叫びをあげている。
だが、圭子自身の身体も心もコントロールが出来ない。
唇を重ねたまま、男の背中をギュッと抱きしめている。
『フフフ・・・・』
男が笑っている。
(い、いやっ・・・)
『無駄だ・・・』
心に話しかけてくる。
(いやぁ・・・)
認めたくない。
(ち、違うっ・・・)
『違いはしない・・・圭子、お前は・・・』
(いやっ・・放してっ・・・)
聞いてはいけない。
『お前は俺の事が・・・』
最後の言葉を聞く瞬間、圭子はありったけの力を振り絞り叫んだ。
※※※※※※※※※※※※※※※
『い、いやっー・・・』
『はぁっ・・・はぁっ・・はぁっ・・・』
ようやく悪夢から醒める事が出来た圭子は何時までも荒い息を吐いていた。
額から流れ出る汗がおぞましい余韻をなぞっていく。
震える唇には生臭い匂いまでが残っている気がした。
※※※※※※※※※※※※※※※
(本当に嫌な夢だった・・・)
満員電車の中、人ゴミのしかも中年の男達に囲まれ身体を押しつけられている今は、まるで夢の中に戻ったような気がする。
(電車なんか乗らなけりゃ良かった・・・)
圭子は後悔していた。
父の車に乗せてもらえばこんな苦しい思いをする事もなかったのだ。
早朝練習など遅れてもたいした事はなかったのに。
そしてこれほどリアルに悪夢を思い出す事もなかっただろう。
(でも・・・)
少女は複雑な感情を整理できずに悩みを何時までも引きずっていた。
(よりによって、あんな夢を・・・)
愛おしいマモルではなく、どうして竹内なのだろうか。
(しかも、わたし・・・)
激しく荒々しいキスをするなんて。
勿論、あんな中年とするはずもないし、したいと思うわけが無い。
まして舌を絡ませ合うディープキス等したことが無い。
それなのにリアルな感触はまるで本当にあった事のようだった。
遂この間、少年とファーストキスを体験したばかりなのに。
あの時、口付けの意外な味に戸惑ったけれど、やはり嬉しかった。
短いキスの後、少年の胸に抱かれながら温もりに浸っていた。
(大好き・・マモル君・・・)
プラトニックな愛。
肉体的な欲望など皆無だった筈だ。
それなのに何故か夢の中ではおぞましい中年男の竹内に相手が代わり、しかも感じてしまったのだ。
そんな自分が信じられず、許せなかった。
(でも、違う・・原因は他にある・・・)
圭子は無理にでも理由を探そうとした。
昨夜、父が竹内を夕食に招待したからだ。
2ヶ月以上たっているとはいえ、もう三度目の訪問である。
(パパはどうしてあんな人と友達でいられるの?)
圭子には理解出来なかった。
(あんな下品でタバコ臭い人なんか・・・)
父とはまるで正反対の男だ。
そして圭子が今時の少女が最も嫌うタイプのおやじ中年である。
しかも前の時よりもかなり図々しくなっていたような気がした。
※※※※※※※※※※※※※※※
『いやー、本当に奥さんは美しい・・・』
時々、いやらしい顔をして母の手を触ったりしていた。
(ママも怒ればいいのに・・・)
『まあ、フフフ・・・』
怒る事もせずに笑みを浮かべながら上手く相手をしていた。
適当にあしらっているつもりなのだろうが、圭子にしてみれば釈然としなかった。
何か母が汚されているようで許せない気がしたのだ。
成る程、母は誰にでも平等に優しい態度を取る。
竹内の無礼な態度に対しても、父の友人という事で耐えていたのだろう。
そんな母は圭子の憧れでもあったし、自分もなろうと努力をしていた。
だから二度目の訪問の時などは食事の支度を手伝ったりもしたのだ。
(でも・・もう、いや・・・)
昨夜で我慢の限界であった。
『圭ちゃん、何か欲しいものはない?おじさんが買ってやるよ』
気をひく積りなのだろうか、馴れ馴れしい口調で自分の名を呼ぶ。
ヌラヌラと光った唇が脂ぎった顔と共におぞましい印象を少女の心に刻んでしまった。
そして父と母に対する怒り。
(私、ママみたいにはどうしても出来ない・・パパも嫌い・・・)
笑みを浮かべ、男をあしらう態度に大人の欺瞞とジレンマを感じたのだろうか。
それらが複雑に交じり合いながら夢に現れたのかもしれない。
※※※※※※※※※※※※※※※
「うん・・きっと、そうよ・・・」
圭子は自分に言い聞かせるように呟いた。
そして怒りの目を宙に向けた。
(あんな奴・・大嫌い・・・)
夢から醒めてから圭子は何度も心の中で言い続けていたのだ。
そうでもしないと気が狂いそうになる。
(あの匂い・・・)
もうもうとふかすタバコの煙にむせた圭子は気分が悪くなった。
胸の動悸が激しくなり、吐きそうだった。
喉がやたらと渇き、ジュースばかり飲んでいた。
だが飲めば飲むほどムカムカとした気分になった。
早くに自分の部屋に引き上げたが、中々寝つけなかった。
何故か身体が熱く火照り、一晩中悶々としていたのだ。
愛する少年の事を思い出そうとするのだが、竹内の顔が何故か浮かんでしまう。
『フフフ・・・』
同時に笑みを浮かべる母が現実よりも淫靡に増幅されてイメージされる。
(いやらしい・・ママ・・・)
竹内に犯されようとしているのに抵抗もしない姿に、何時しか圭子自身が重なっていた。
(い・・や・・・だめぇ・・・)
悪夢の中で少女は男に抱かれ、操られていったのだ。
『お前は俺の事が・・・』
男の声が聞こえる。
夢から醒める瞬間、男が言おうとした言葉だ。
(ぜ、絶対にありえないっ・・・)
圭子は懸命に否定する。
『お前は俺の事が・・・』
だが、声が消えない。
何度も頭の中で繰返される。
(い、いやぁ・・・)
身動きできない満員電車の中で拷問のように少女の心を苦しめ続けるのだった。
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