第8話 アッセンブル事務所

 どうぞどうぞ、と手を引くキスタに案内され、ハルヒサはパブの隣に設けられた階段を登っていく。階段を登り終え、事務所の扉の前に立つと、そこには可愛らしい文字で外にあった看板と同じ文が書いてあった。


 「ここが俺の事務所。で、三階が住居ね。空いてる部屋を好きに使ってね」


 そう言って事務所のドアノブをひねると、暗い廊下が顔を出した。何もない廊下だ。そも薄暗くて何も見えないのだが。


 目を凝らすハルヒサに気づくと、キスタはすぐに壁のスイッチを押す。カチ、という音ともに天井のランプが煌々と輝き始め、廊下を照らした。


 その時だった。ハルヒサはギョッとして正面に突然現れた黒い塊を見つめた。ひと山いくらの大きな塊で、廊下を塞ぐようにしてそれは存在していた。


 うわぁ、と叫ぶハルヒサ。その声に反応して黒い塊から無数の瞳が開き、それはぶわっと爆ぜた。


 黒い塊一つ一つはそれほど大きいわけではなく、せいぜいが人の足首程度の大きさでしかない。それぞれ一対双眼の瞳があり、ほのかに炎を纏っていた。それらは壁を、天井を、床をぴょんぴょんと跳ね回り、その様子にただただハルヒサは驚き、キスタははぁ、とため息を吐いた。


 「ったく、あれほど換気はちゃんとしとけって言ったのに。ちょっと待ってて」


 ハルヒサを三階へ通じる階段へと逃し、キスタは袖口からアミュレットを取り出した。しかしそれに嵌っている宝石の色は緑だ。赤ではない。


 「『アキューズ』」


 キスタの詠唱とともに風が巻き起こる。それは廊下を跳ね回る黒い生物達を一瞬にして掬い上げ、一つ所に固めて階段前の踊り場に連れてきた。そして、次の瞬間、キスタによって舞上げられた黒い生物達は階段をゴロゴロと転がっていき、建物の外へと放り捨てられてしまった。


 一連の光景を見て唖然とするハルヒサにキスタは申し訳なさそうにしながら、頭をかいた。


 「いや、ごめんね。カーバンクルがまさかこんなに入ってるとは思わなくてさ」

 「カーバンクル?それって」


 あの炎を纏ったイタチだか、ウサギだかに似た生物のことだ、とハルヒサは少し前の記憶を引っ張り出して、首を傾げた。カーバンクルとは固有名詞ではなく、種全体を表す名詞なのだろうか、と。しかしそのことを追求するよりも早く、キスタは事務所の中へと入っていってしまい、やむをえずハルヒサもそれに続いた。


 廊下は本当に何もない場所だ。廊下の右側には二つ、左側には一つだけ扉がある。パチパチと頭上のランプが明滅しているせいで、時折暗くなったりするせいで、一本道の廊下はやや不気味に感じられた。


 「ここが事務所の応対室。まぁ、仕事部屋みたいなものだな」


 そう言ってキスタは左側の扉のドアノブを捻った。


 直後、中からは埃っぽい匂いが漂ってきた。長らく掃除をしていないのか、ドアが開かれると同時に入ってきた外気によって埃が舞い上がり、ブワッと二人の顔面に押し寄せゲホゲホと二人は鼻水を撒き散らして咳き込んだ。


 涙目になり、ハルヒサは事務所野中に目を向けた。


 広い一室、視線の先にはポツンと低めのテーブルとその左右に置かれた二台のソファがあった。テーブルはガラス製で埃を打っているせいで最初は何も置かれていないようだったが、よく見るとオシャレなテーブルクロスが掛けられていた。


 テーブルの奥、つまり窓の手前には大きめのデスクが置かれていた。デスクの高さは勉強机などとそう大差はない。机の反対側、つまりキスタとハルヒサから見て反対側には高そうな椅子が置かれており、それもまた埃をかぶっていて、本来の高級感は薄まっていた。


 視線を左右へ向けると、左側に置かれたソファの後ろには人の腰ほどの高さの物入れがあり、その上には彫像やらが置かれていた。その奥には大きな鉄鎧がハルバードを抱えて立っており、よく見るとそれは二つあり、両者の間には大きめの絵が飾ってあった。


 右を見ればもう一つソファが窓側に背を向けて置かれていて、その手前には低めの机があった。机の上には灰皿があり、掃除されていない吸い殻が山をつくっている。全体的に部屋の左側に比べれば飾りっけがなく、壁にも何も飾っていないため、そこまで気にしないハルヒサだったが、一歩部屋に足を踏み入れ、直後再び彼の視線は事務所の右側へと吸い寄せられた。


 「え、テレビ?」


 机の前に置かれていたのは大昔に訪れた祖父母の家で見たことがある分厚いテレビだ。分厚いと言ってもそれはあくまで現代日本のそれと比べての話で、ブラウン管やらと比べればまだ薄くはあったが、それでも超薄型液晶テレビなどとくらべればまだまだ分厚い平成中期ごろの遺物を目の前にして、ハルヒサは目を丸くした。


 「んー?お兄さんの世界にも霊信伝昭板があるの?」

 「霊信伝照板?そういえば、霊信なんとかってのあの無人タクシーのやつも言ってたっけ?」


 「タクシーが何かは知らないけど、そうそれ。ほら、行政塔があるでしょ?あそこから霊信っていう特殊な信号が発信されてて、それを感知してこの箱に映像を映すの。画期的、ではないのか。お兄さんの世界にはこういうのがいっぱいあるっぽいんだっけ?」


 「俺の世界じゃ霊信じゃなくて電波ってのを使ってたよ」


 「ふぅん。デンパね。よくわからないけど、なんだか面白そう」


 口元に笑みを湛え、ハルヒサは窓へと手を伸ばす。そしてガラッと彼が窓を開けると溜まりに溜まっていた埃が舞い上がり、中へと入ってきた風によって外へと吸い出された。


 とりあえず窓を開けてって、と指示されたのでハルヒサはキスタにしたがって窓を開けていく。しばらくすると、それまでは吸うのも億劫だった空気はいくらか清浄さを取り戻し、クシュンクシュンと繰り返してた咳も収まってきた。


 「掃除しようぜ、さすがに」


 垂れた鼻水を拭いながら、清掃を訴えかけるハルヒサにキスタはまぁ待ってよ、とそれを制した。


 「そいつはあとにしてさ。とりあえず、お兄さんには現状を理解してもらいたいな」

 「なんだよ、藪から棒に」


 「いやね。こうして俺の事務所にお兄さんを連れてきたわけだけどさ。俺としてはそういや、まだお兄さんが何をしたいかとかを聞いてなかったって思い出してね」


 窓の手前に置いてある机の上に腰掛けたキスタはハルヒサを指差す。言われてハルヒサもそういえば、と口元に手を置いて思い出したように真顔になった。


 成り行きからキスタと共に行動しているが、ハルヒサの望みをまだ彼自身は口に出していなかった。というか決めていなかった。


 望むものなんだろう、と考えるとまず脳裏によぎるのが元の世界への帰還だ。両親にだって会いたいし、学校にまた通いたい。ただ流れるがままの平穏な日常に飽きもしなければ、白熱もしないが、ただ今はその普通の日常を恋しく感じていた。


 人生を振り返れば、特別な思い出や経験があるわけではない。バイトなんてしたこともないし、高校でだって孤立していた。両親とは良好な関係ではあったが、それ以上ではない。閉じた世界に生きていたな、と異世界に飛ばされて改めてそう思った。


 高校最後の年、まだ春先で何もしていない。最後の夏休み、最後の体育祭、最後の学園祭、最後の、最後の、最後のと付くものは他にも色々とあるが、そういったものに思いを馳せるといっそう、さまざまな感情が込み上げてきたのを感じ、ハルヒサはたまらず顔を曇らせた。


 できることはいくらでもある。試しに朝の教室で、今まで話したことのない誰かに話しかけるでもいい。授業中に先生から刺されたら威勢よく答えるでもいい。体育の授業で本気で走ってみるでもいい。下校時に知らない誰かを誘って近所のコーヒーショップに行ってみるでもいい。きっと、行動を起こせば何かしらの見返りがやってくるのだから。


 色々な感情が渦を巻き、ひとつ、またひとつと器から溢れていく。思い出す元の世界のことが愛おしく思えてきて、自然と唇が震えた。


 それを見てキスタはやっぱりね、とこぼす。笑顔とも泣き顔とも区別がつかない絶妙な微笑みを湛えて彼は机から飛び降りると、ハルヒサの左手を握った。


 「元の世界に帰りたいっていうのは理解できる。遠くの故郷に帰りたいっていう郷愁そのまんまだからな」


 「キスタは、俺を元の世界に帰せるのか?」


 「いやー。そもそも異世界から人間が転移してきたってだけで大分半信半疑な上に、今でも疑ってる部分がないこともない。でも、服装とか一般常識とかは俺らのそれとは全く違うから、まぁ状況証拠的に信じるしかねーって感じ」


 「外壁のところで信じたって言ってなかったっけ?」


 「それはそれ、これはこれ。信じるって方向に全体の過半数が向かったから、信じてるってだけだよ」


 あっさりと白状するキスタにハルヒサはため息を吐いた。失望したとか、苛立ちを覚えたとかではなく、正直すぎるその生き方に呆れてしまった。ひょっとしたら、こういった顔を見せるのはごく一部なのかもしれないが、それにしては外見相応がすぎる。絶対にその性格のせいで問題を二十や三十は起こしているに違いない。


 そんなハルヒサの冷えた目線など意にも返さず、ははははは、と高らかに笑う。その過程で埃を吸ったのか、ゲホゲホと彼は咳き込んだ。


 「さて、と。そんなお兄さんがちょっと笑顔になったところで。本題に戻そうか」

 「俺を元の世界に戻すって話?」


 引っ込んでいた涙がまた降りてきそうになり、ハルヒサは目尻を擦った。そうだね、と淡い笑みを浮かべキスタは頷いた。


 「現状、俺はその方法を知らない。探してはみるけどね。でも見つからないかもしれない。古今東西、一度入ったら2度と戻れないって怪談は定番と言えば定番でしょ?」


 「そういうホラーって怖いよな。俺もそれだって?」


 「可能性の話だよ。保険の話でもある。俺が恨まれないようにね」


 「キスタを、恨むぅ?」


 怪訝そうに眉を寄せるハルヒサに、キスタはああ、と頷いた。そういう経験があると言外に訴える彼の意図をしばらくしてハルヒサは察し、なるほどな、とこぼした。逆上する輩と過去に相対したわけか、と。


 「だからさ、お兄さん。お兄さんには覚悟をして欲しいんだ。万が一、いやほとんど百に近い確率でこの世界に骨を埋めるかもしれない覚悟をさ」


 キスタの言葉にハルヒサは唾を飲んだ。目の前の小さな魔法使いがそれを言うことは考えていたことだ。しかし、こうも真っ向からいざ言われると視線が泳ぐ。


 「——それはここで決めなくちゃいけないか?」

 「そりゃもちろん。なんなら秒読みでもしようか?」


 突き放すような物言い、しかしそれは考えれば当然で、いくら悩んだとしても出る答えは二つに一つだ。その二つを悩む理屈はない。なぜなら、悩む時点で答えはもう決まっているから。


 けれど、と踏ん切りがつかない自分自身にハルヒサは憤る。踏み出すための足が動かず、取るべき左手を取れないまま、うなる彼を見かねて、キスタはその肩に手を置いた。


 「ま、しばらくこの世界を見てみるがいいよ。そうだな、一ヶ月くらい?」

 「長いんだな、秒読み」


 「そりゃね。俺はせっかちだけど、別に急かしがちってわけでもない。納得するまで過ごしてみるがいい、と思うよ」


 まぁとはいえ、と付け加えキスタはどこからか、掃除用具を取り出した。本当にどこから取り出したのだろうか。


 「ひとまずは掃除を手伝ってもらおっか」


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