第9話 食事をしよう!
掃除を初めて約二時間、キスタとハルヒサの二人はようやく事務所の応接室の掃除を終え、ふぅと一息ついていた。いつの間にか部屋に夕日が差し、人通りが激しかった事務所前の通りも暗く染まっていた。
「いや、ほんと。助かったよ、お兄さん。俺一人だったら今でも箒を振ってたよ」
すっかりと綺麗になったソファに背中からダイブしながらキスタは朗らかに笑う。それが決して冗談ではないことは応接室の扉の近くに置かれたゴミ袋を見れば一目瞭然だ。ただ埃っぽいだけではなく、髪の毛とか汚れとかがもう部屋一面に広がっていて、それを取るために箒で掃いたり、雑巾掛けをしたり、ゴシゴシと汚れ棒で擦ったりと散々な時間だった。
疲れ果てたハルヒサは対面のソファに座り、ため息を吐いた。元々終業式の全体掃除とかはお祭り気分になる方、掃除を苦と思ってはいない部類の人間ではあったが、ここまでひどいとしばらく掃除はしたくない気分にさせられる。
ソファの背もたれに置いていた首をもたげ、ハルヒサは同じような体勢で息を切らすキスタをジロリと見つめた。ここに住む以上は目の前でのほほんとしているゴミ捨て男爵の散らかし癖に付き合わなくてはいけないわけで、それを思うと先が思いやられた。
「はー。そーだ。お兄さん、飯でも食べにいかない?」
「あー。いいんじゃないか?俺もこの世界の料理に興味あるし」
不意の提案にハルヒサはにべもなく即答する。興味があると言う言葉に嘘はなく、実際お腹も空いていた頃合いで、外食の申し出は願ってもないことだった。ただテンションを上げて答えるほど気力が残っていなかったに過ぎない。
よし、と威勢よく先ほどまでのぐったり具合は嘘のようにキスタは立ち上がる。意気揚々とドアの方へと歩いていくキスタの後を追い、ハルヒサも立ち上がった。
「それでどこ行くんだ?」
階段を降りながらハルヒサはキスタに目的地を聞いた。食べるものが何かわからない以上、せめて食べる前にそこがどんな店かくらいは聞いておきたかった。具体的には治安のいい店なのか否かだ。
「すぐそこだよ。ていうか、すぐしたー」
「それってひょっとしてパブ?」
「パブ?ああ、飲み屋のことね。そうそう、おおあたりー。俺の行きつけなんだー」
小学生くらいのガキがパブに通うとか世も末だな、とハルヒサはため息を吐く。エルフなどというファンタジックな種族がいるから、ひょっとしたらキスタもそういう種族という可能性はあるが、それはないな、とすぐに頭を振った。エルフやなんやらにしては外見と精神年齢が一致しすぎている。
アッセンブル事務所の真下にあるパブ。改めて見ると中は薄暗く、オレンジ色のライトに照らされたどこかアングラな雰囲気を漂わせていた。店の外観は緑色の骨組みが目立つ、一見するとパブというよりかは下町の小洒落た喫茶店のような印象を受けるが、いざ中に入ってみればそんな印象はどこかへ吹っ飛んでしまった。
中に入るとまずバーカウンターがあり、奥にはテーブル席がある。迷わずバーカウンターに座ろうとするキスタを店員と思しき角の生えた、しかし人間サイズの男が持ち上げ、彼を席に座らせた。男は二人に向かってうやうやしく会釈し、入店特典でございます、と言ってキスタとハルヒサの前にカクテルグラスに入った赤い液体とナッツ類を置いた。
「え、これ」
「そりゃ、お兄さん。お酒に決まってるじゃない。これはロゼアドラーって言ってね。いわゆる食前酒ってやつなんだ」
カクテルグラスを揺らし、キスタはぐいっとそれを口に運んだ。香りを楽しもうとか、色を愛でようなんて様子はなく、そのままその通りに口の中に酒を放り込んだ。
ごくん、と嚥下しキスタはうん悪くない、と白い歯をかすかにのぞかせ、冷然とした笑みを浮かべた。どことなく大人っぽい、そして年齢不相応な笑みだった。
早々と酒を飲み干したキスタはバーカウンターの奥にいる店員に何やら注文をする。何を言っているかはわからなかったが、バーガーと言っているのだけはかろうじてわかった。
バーガーとはあのバーガーだろうか、と脳裏で茶色いバンに挟まれた茶色い肉の塊をハルヒサは想像する。想像通りならいいんだけどな、と思いながら、ようやく彼は自分の前に置かれたカクテルグラスへ目を向けた。
並々と継がれたロゼアドラーというお酒、そしてその隣に置かれたナッツ。試しに一つつまんで口に運び、匂いを嗅いでみるとかすかに塩の匂いがした。恐る恐る舌に乗せると、匂いの通りに塩の味がした。ナッツ自体の味も元の世界で食べたナッツとそう大差はなかった。
ひとしきりナッツをつまみ、ハルヒサは乾いた喉を潤そうとカクテルグラスに手を伸ばした。元の世界では18歳、バリバリの20歳未満である。つまり飲酒はできない。実際、酒というのはあまり好きではなかった。
両親がパン屋を経営していて、その手伝いとしてラムレーズンのパウンドケーキを作ったことがある。その時、父親に悪ふざけでレーズンを漬けるためのラム酒を飲まされたことがあったが、匂いはともかくその舌を突く味がダメだった。おかげですっかり酒嫌いの健康優良児になったわけだが、今それが裏目に出て中々グラスをつかんだ手を口元に運べないでいた。
試しに鼻を近づけ、匂いを嗅いでみるとほのかに花の香りがした。匂いがいいのは見た目でなんとなくわかっている。問題は味だ。恐る恐る唇を近づけ、嚥下する。
舌の上に浸された冷たい液体の感触。決してまずいわけでもないが、苦味があり口の中いっぱいにそれが広がっていった。かすかな甘みもあるが、それが雑味となりどことなく舌に広がる舌触りの悪さを助長させていた。
「うーん。やっぱり酒は好きじゃないな」
「お兄さん、お酒苦手なの!?」
「だって、ほら。まずいじゃん」
「お子様舌だなぁ。お酒が嫌なら炭酸水でも頼もうか?」
すいませーん、と店員を呼びキスタは炭酸水とやらを注文した。注文して間もなく、銀色の盆の上に緑色の瓶と氷が入ったグラスを持って店員は戻ってきた。ゴトリとカウンターの上に置かれたそれの王冠を外し、中から白い煙が立ち上がり、瓶の表面を伝った。コポコポとグラスに注がれる透明の液体は液泡を水面めがけて上へ上へと上昇させ、それが弾ける音が間断なく響いた。
口に運ぶと炭酸が弾け、ズキズキと舌を刺激した。それがある種のスパイスになり、ごくごくとハルヒサはそれを飲み干した。
「ああ、これはいいな。酒よりこっちの方がはるかにいい」
「あっそ。お兄さんとはお酒の話はできなそうだねー」
残念だよ、とキスタはぼやき、ハルヒサが飲まなかったカクテルグラスを手に取り、口に運んだ。
しばらくすると店の奥から料理が運ばれてきた。その内容にハルヒサは唖然とした。
運ばれてきたのは茶色い丸みを帯びたパンに肉や野菜が挟まれた、いわゆるバーガーだ。付け合わせなのか、ポテトやピクルスらしき野菜類、ソースやケチャップが入った容器なども付いてきた。
肉は驚くほど分厚いハンバーグで、それ自体はさしたる特徴はない。挟まっているものも四角いトマトや青いキャベツと形や色に目を瞑ればそれほど特別な食材ではない。付け合わせとして付いているポテトは普通のポテト、ピクルスらしい漬物は片側はピクルスと変わらないが、もう片方は変に膨らんでいて全体的にマラカスっぽい形状だった。
「当店の特性コシ牛のバーガーでございます。それと」
バーガー以外にも魚のムニエルや赤いスープなんかがカウンターに並ぶ。そのどれもがああ、ここは異世界なんだな、とハルヒサに実感した。
魚のムニエルは白い皿に白身魚があり、皮には逆だった鱗が付いていて、その表面は焼け目がつくくらい炙られていた。魚の周りに小さな立方体型のトマトと先端がぜんまいのようになった奇形のアスパラガス、そして黄緑色のソースが入った小さなカップが付いていた。
赤いスープは匂いだけでトマトのスープだとわかる。ミネストローネに近いスープで、中には
ハルヒサの前にはバーガーとスープが、キスタの前にはその二つに加えて魚の煮込み料理が置かれた。給仕は料理を置きながら「サーンスーのムニエル、トマチの煮込みスープでございます」と料理名を言って、その場から去っていった。
トマチって言うんだこれ、とハルヒサはスプーンでスープに浮かんでいるトマトことトマチの果肉をつつく。漂ってくる匂いはトマトのそれで、名前もそう大差がない。異世界なのに食材がまるで変わらないというのはなんか驚きだった。
驚きと言えば料理の名前もバーガーやスープなどといった単語が使われていることも驚きだった。パブやコンピュータという言葉が通じないのに、料理に関しては通じるというのはなんだかおかしなようでならなかった。
「まぁ、それはさておき」
パンと両手を合わせ、ハルヒサは料理に向かって一礼する。いただきます、と日本人なら誰もが食事前に言うだろう西洋で言うところのアーメン的な儀式をしようとした時、不意にガシャン、という音がカウンターの奥から聞こえた。
ぎょっとしてその方向へ目を向けると、キスタから注文を聞いた店員が顔面を蒼白させて、ハルヒサを見ていた。そればかりか、店中の視線がハルヒサに集まり、店全体の空気が重くなった。
活気だっていた店内が一瞬にして静まり返り、誰もが動きを止め、ハルヒサを見る。食事の手も、料理を運ぶ足も、なにもかもを止めて。
何事かと彼は目を丸くしてその理由をキスタに聞こうとした。だが、振り向いたキスタは少しだけ目を泳がせ、伸ばした手でハルヒサの合わせた手を払った。
「お兄さん、その手はちょっとまずいんだ。まぁちょっとした悪い
「ああ、なるほど」
海外に行ったら中指を立ててはいけない、とかそういうのと同じだとハルヒサは解釈した。日本だとただの煽りで済むが、海外だとリンチにあっても文句は言えない、と海外発のVtuberが配信で言っていたのを思い出し、キスタの指摘に納得した。
じゃぁ改めて、とハルヒサはカウンターに置かれた食器入れからナイフとフォークを取り出し、ハンバーガーに歯を立てた。溢れ出る肉汁はゆったりと溢れ、トマトの果肉からこぼれた汁の上に滴る。口に運ぶと肉のずしりという感触が舌の上にのしかかり、それを嚥下するととてもつない重量感で腹の中へと落ちていった。
スープもよい。トマトの風味の中にまぎれたウィンナーの旨みやキャベツの甘みが滲んでいて、とても食べ応え、飲み応えがある。喉奥にすとんと落ちていくその味は、作り手がきっといいだけではなく、食材もまたよく選んでいるだろう。
「いい店だな」
「そりゃ俺が貸してるからね、場所を。美味しくなくちゃ困るよ」
かれこれ80年くらいこの場所で経営してるんだよ、とキスタは自慢げに語る。もしその言葉が本当ならキスタは軽く100歳以上ではないか。はいはい、と適当な相槌を打ちながらハルヒサは笑った。
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