第2話 目が覚めるとそこは
そして次の瞬間、少年の視界は暗転する。物音がして、目を覚ますと少年は天を仰いだまま、直立していた。周りを見れば見知らぬ建物ばかりの大通りで、ガタガタという音に反応してそちらへ向いてみれば石造りの橋の上を虹を吐きながら機関車が走っていた。
なんだなんだ、と少年が後ずさると、不意に誰かにぶつかった。ただし、とても小さい誰かに。
「おい!お前!」
「ぇえ、俺?」
「そうだよ、お前だよ。お前以外に誰が俺にぶつかったって言うんだ!」
振り返ると、そこには少年の腰の高さしかない犬が立っていた。ただし、二足歩行している上にベレー帽を被り、ガラつきのコートまで着たなんともハイカラな犬だ。
思わずその愛らしい生き物に目を奪われ、少年はぉおおおお、と声を荒げる。ベレー帽の犬はビクッと肩を震わせ、なんだよ、と警戒するような眼差しを少年に向けてくる。
「いや、えっと、え?」
「ったく、なんなんだよ。叫びたいのはこっちだっての!」
外見は愛らしいのに犬の声は随分と太い。まるで40、50のおっさんの声だ。なかなかにダンディな声で、思わずうっとりとしてしまいそうになる。何より可愛い二足歩行の犬がイケおじっぽい声を発しているというギャップがたまらない。
メロメロになってしまう気持ちを抑え、少年はごめんなさい、と形ばかりの謝罪をした。次からは気をつけろよ、と悪態を吐きながらイケおじ声の二足歩行犬はその場から立ち去っていった。
ふう、と胸を撫で下ろしながら少年は道の小脇に逸れて改めて周囲の光景を両目に収めた。
まず目に入ったのは大量の人間でごった返している大通りだ。右へ左へ行き交う面々にはたまに普通の人間ではない、トカゲ頭や耳が長い人間、山のように体が大きい鬼のような人間がいるが、概ね少年の見知った人間の外見をしている人々がほとんどだった。
大通りの車道を走っているのはどこかレトロなイメージを抱く車である。歴史の授業で見たフォードだったか、ベンツだったかの古い車がところ狭しと走っていた。
街並みのぱっと見の印象は19世紀のイギリスに似ている。石造りの建物、古めかしい街灯、石畳の道と昔の推理ドラマで見たことがある光景がそっくりそのまま現れ出たようだ。
機関車が通っていた橋の方向に目を向ければ、さらに奥には坂道に沿う形で建っている白亜の街並みがあり、その頂上には立派な造りの塔が立っていた。遠目で断定はできなかったが、おそらくは時計塔だろう。青い屋根の荘厳な時計塔だ。
まずもって日本じゃないし、それどころか世界中のどこを探してもこんな街が存在しないことは彼でもわかる。二足歩行して喋る犬など見つけたら学会で勲章ものだ。
そもそも、と少年は狼狽えながら記憶を掘り起こして自分に起きたことを思い返す。一番新しい記憶は車に撥ねられた記憶。そういえば、どうして撥ねられたんだろう、と首をひねる少年は今際の際に垣間見たフードを被った人物のことを思い出した。
「——逃さない、だっけか」
一体どういう意味だよ、と少年は悪態づく。なんだってこんな場所にいるんだよ、と疑問をこぼし、自分の不幸を彼は嘆く。
行き交う通行人は苦悶の表情を浮かべる少年には目もくれない。進む方向だけを見ている彼らには少年の小さな姿は目に入らない。
クソ、と少年は悪態をつき、道を行く通行人の一人の肩を掴んだ。肩を掴まれた人物は驚いたような顔を浮かべ、なんですか、と語気を荒げて少年に聞いた。
「なぁ、あんた。帰り方知らないか」
「はぁ?なんだよ、迷子かよ」
通行人の格好はベレー帽をかぶったボロの男だ。上着やズボンにはほつれを直した跡があり、歳の頃は50歳くらいに見えた。先ほど少年がぶつかった男と比べるとだいぶ見窄らしい格好だった。
「迷子なら市警の駐在所に行けよ。俺は助けらんねーぞ」
「市警?そこに行けば帰れるのか?」
「住所がわかってんならな。てか、あんちゃん。あんた何歳だ?そのタッパで迷子とか」
「え?ああ、ああ。ちょっと方向音痴でさ」
「ぁあ?まぁ、そういうなら。駐在所の場所、わかるか?青い看板のとこだぞ?」
親切にそれを教えてくれた通行人に礼を言いながら、少年は大通りから外れ、路地裏へと歩いていった。とにかく雑踏から遠ざかって一人になりたかった。
しばらく歩くと人通りの少ない、というかまったく
クソ、と再び悪態をつきながら、ようやく少年は現状を理解した。
「異世界転移ってやつ?それとも転生かな。まぁなんでもいいけど」
よくはないだろと言外でツッコみながら少年はため息をこぼす。
少年は、
衣食住に困ったことはなく、両親と衝突することも滅多にない。中学の頃までは陸上でぶいぶい言わせていたが、それも高校に入ってからは実を結ばず、いつの間にかやめてしまった。それを両親は批判もしなかった。
そうしてズルズルと惰性のままに生きてきて高校三年生となった。どうしようかな、と進路について悩む頃合いになって、ため息を吐いてしまう。ハルヒサはそんなどこにでもいそうな普通の高校生だ。
これからどうするんだよ、とハルヒサは項垂れ、そして天を仰ぐ。ムカつくくらい青々とした晴天だ。答えが突然降ってくるということもない。
普通の男子高校生のたしなみとしてハルヒサもライトノベルくらいは読んでいる。昔から読書は好きで、陸上を始めてからはあまり読まなくなったが、陸上をやめてからはまた読むようになった。
異世界転生、異世界転移、あるいは追放系とは彼が再び読書を始めた時に流行っていたジャンルで、不幸にも死んでしまった少年、少女が、あるいは不当に扱われた少年、少女が神様から与えられた恩恵で無双したり、秘められた才能に覚醒して無双したりハーレムを築いたりというストーリーラインが王道だ。彼らの中でもよく見られるのが魔法の言葉「ステータスオープン」だ。よしんばそれがなくても空を切ったりすることで半透明の板が現れたりする。
「ステータスオープン!」
ひょっとしたら、と思ってハルヒサもその文句を唱えるが、何も起こらない。空に向かって縦に、横に手を振ってみても何も起こらない。
「クリエイト・ウォーター!!!」
なら次はと手のひらを壁に向かってかざし、水が出てくるイメージを彼は思い描く。しかし何も起きない。クリエイトファイヤーでもクリエイトサンダーでも同じだった。
何度もそんなことを繰り返していると、恥ずかしくなり、ハルヒサはため息を吐いて、魔法への挑戦も諦めた。
頭を悩ませながらハルヒサは唸り、現状を確認する。まず衣服のポケットを漁り、何かないか、と探してみると、千円札が二枚と小銭が少し入った財布が入っていた。他にも自宅の鍵があった。ズボンのポケットも漁ってみると、スマートフォンが入っていた。スイッチを入れると、一応点いたが、圏外と表記されていて、カメラやビデオ以外に使えそうな機能はほとんど残っていなかった。
お金も日本でなければ日本円は使えない。元の世界の思い出だな、とポケットに財布と鍵をしまい、ハルヒサはどうしようか、と今後のことに思いを馳せた。
ステータスオープンもない、クリエイトなんちゃらもない、チート能力とかもない。ことごとく異世界転生、異世界転移といった王道のテンプレートから外れている現状に不満げに彼は鼻を鳴らす。
幸いと言うべきか、言葉は通じる。どういうわけか、この世界の住民の言葉は日本語に聞こえる。ただし文字は読めない。大通りに出ていた看板を読もうと目を凝らしたが、まったく読めなかった。
「クソ、どうしようか」
座ったまま項垂れていても答えは出なかった。ちょっと歩くか、と立ち上がりハルヒサは路地裏をぶらぶらと歩き始めた。
しばらく歩くと彼は迷子になった。方向感覚は人並みにあるつもりだったが、残念なことにそれ以上に路地裏の造りが複雑だった。一つ道を曲がっただけでもうそこは迷路の中だ。
迷った、とハルヒサが感じた時にはもう手遅れで、薄暗い路地に彼は一人、ポツンと立っていた。どことなく嫌な雰囲気が漂うその場所は華やかな大通りと比べると寂れている雰囲気があった。
心なしか人通りも少ない。時折、左右の建物から視線を感じたが、なかなか人が出てくる様子ではなかった。そのことを不思議に思いながら誰か道案内してくれそうな人はいないかな、とハルヒサがあたりを見回すと、黒いスーツをまとった男達がいた。
男達は全員合わせて七人。その内一人は金髪で後ろを向いているため、ハルヒサには顔が見えなかった。それ以外の六人はどれも人間離れした外観で、とても不気味だったが、異世界ということを考えればその容姿の恐ろしさも標準的なのかもしれない、と意気込んでハルヒサは彼らに話しかけた。
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