第5話 お隣さん事件

 それから一週間が経過したがカラスとの共同生活のなかで変化したのは家が変わったことくらいであろう。


 カラスに「待て」をして家を契約しに行き帰ると良い子に待っていた。カラスなりに自分がいない方が家を借りれると言う事を察している様な気がした。


そのお陰もあり二人は無事に多摩川近くに引っ越した。


 リビングキッチンと四畳半の部屋が二つの家は今流行りの家具備え付けのマンスリー物件だった。


一つは自分の部屋で一つはカラスの部屋のつもりでいたがカラスはこちらの部屋にずっと居る。


一日一回多摩川沿いを散歩し、途中土手に小学児の絵が描いてある場所で休憩して帰り、家の中では外で見たものの絵を描く。

夜にはお湯を溜めた湯船に浸かり買ってきた弁当を食べるのがルーティン。


 そんな新居で初めての週末に事件が起きた。


 多摩川から帰って来ると家の前の駐車場で近所の子供達がサッカーをして遊んでいた。


間違えて蹴り飛ばしたボールがカラスの足元に転がって来たので拾い上げ返してやった。


「同じマンションの子供だよね!一緒に遊んで良いですか?」


 これを恐れていた。


カラスは背中に隠れながら様子を伺っている。


今日は家でやる事があるからまた今度遊んでくれと頼むとサッカーボールと共に笑顔で手を振り少年は去って行った。


 ファミリータイプに住めば子供と居ても怪しまれないと判断してここに決めたが近所の目と言うものに晒されてしまう。

子供同士は勝手に世界を作りそれを親に言う。

親は親で事件などが無い様にお隣さんを知っておこうと接触する。

一般家庭や近所付き合いの様な経験を持たぬ独身には想像できなかった事なのだ。


 家に入ると直ぐに絵を描き始めるはずのカラスは窓から外で遊ぶ自分と同じくらいの子供達をずっと見ていた。


次の日もカラスは窓際で外を見続けていたが月曜日は近所の子供達は学校に行っており駐車場には誰も居ない。


こちらがホッとした表情と裏腹にカラスはどこか寂しそうな顔をし、今まで通り絵を描く事を始めた。


 この頃「手話」を覚えさせるか、似た様な仲間のいる学校に行かせるか悩んだが自分の身の安全を考えると気が向かない。

世間と会話ができないから、世の中を知らないからこうして共に居られるはずなのだ。


どうすれば自分は安全で、カラスは自由になるのかが思い当たらない。


そもそもカラスは何を持って自由なのか。


そんな事を考えながら毎日ネット検索で「孤児」について調べていた。


 

 カラスは河川敷で見た動物や花、自転車や車等を頭の中に転写し家で描き上げるのだが独創性がプラスされた芸術的な作品を描く様になってきた。

これが絵を描き始めて間も無い少年とは誰も思わないだろう。


 この日の夕方呼び鈴が鳴りドアの覗き穴を見るとサッカーボールの少年と母親らしき人が立っていた。


怪しまれず、かと言って仲良くしすぎない様に意識しながらドアを開けた。


「隣に住んでいます花咲と申します。まだ越してきたばかりでご挨拶に伺えなくて…」


年齢は幾つくらいであろうか。

多分三十代半ばのロングヘアーの綺麗な女性だ。

息子は十一才、小学五年のリョウ。


 情報を頭に入れながらそそくさと菓子折りを頂き扉を閉めようとすると名前を聞かれ「相馬」と答えたがリョウと言う息子がカラスの名前を聞いてきて焦った。


カラスとしか呼んでいない。


咄嗟に「ケイ」と答えた。


KARASUの頭文字の「K」だ。


これが“ネコ”だと「エヌ」“サル”だと「エス」と変換されたかもしれないと思うとカラスと呼んでいた事には功を奏した。



 風呂に入り飯を食い、何時もだと寝れる二十三時なのだが寝れないのは隣の「花咲さん」の家が騒がしかったからだ。


旦那らしき人の怒鳴り声だ。


この音量でドタバタやっていたら何時通報されるかわからない。

事件になり警察が来ても大丈夫だと思うが危険度は増してしまう。


苦情を言う感じで止めてやろう。


 そう考えカラスに「待て」をする。

カラスは有難い事にこの雑音は聞こえていないが隣からの振動が響くのか心配そうにこちらを見ていた。


玄関を半分開け覗くとサッカー少年リョウが花咲と小さく描かれた玄関ドアの外側に体育座りをして泣いていた。


手招きをしてこちらに呼ぶと部屋から細く刺した光でリョウの鼻から血が出ているのが見え部屋に入れティッシュを渡すと、こちらは頭に血が昇りスマホを手に外へ出た。


 スマホを録画モードにし花咲家の扉を開けるとあの美しい母親に馬乗りになり拳を振り上げている男を見た。

こちらにはまだ気付いていないのかリョウだと思っているのか?


入って直ぐにキッチンにスマホをセットして男を引き摺り出そうとすると目の前の妻を殴るべく鉄の様に硬く握った拳がこちらの口に当たった。


「痛えなぁ」


 久しぶりにキレた。

人は「キレる」や「プッツン」などの表現を用いるがあれは理性の糸が切れる音だろう。


 それなりに危険な仕事を猛者共として来た両腕で旦那であろう男の首を掴むとそのまま勢いよくドアの外に出した。


その後リョウと奥さんの分を顔面にお見舞いしてやろうかと思った時二つの意味で冷静になってしまった。


一つは脱犯罪中で身を隠している事。


もう一つは震えが来るほど丁寧な言葉とトーンで話しかけてくる暴力男を目の当たりにした事。

これがサイコパスであろう。


「近隣にご迷惑をかけた事と身内と勘違いして顔を叩いてしまった事は大変申し訳ございません。」


あの硬い拳が女や子供に向けてるとしたら恐ろし過ぎる。


「ただこれは家庭の問題ですので口出しはして頂きたく無いのですが。」


家族と言う契約は暴力ですら肯定してしまうのか。

いや、そんな事はないはずだ。


ドメスティックバイオレンスや虐待等は社会問題にもなっているではないか。


 「うるせぇからどっか行けよ!」


 旦那は諦めた口調で「失礼します」と言い階段を降りると多分下の階に住む野次馬達にも丁寧に頭を下げて去って行ったので直ぐに奥さんの所に戻ると赤く腫れ上がった顔で泣きもせず意気消沈していた。


「息子はうちに避難させてるから落ち着いたら迎えに来て。」と伝えると目を合わせずに頷いたのでスマホを持って家に戻った。


 リョウとカラスは画用紙に絵を描いて遊んでいたが笑顔は無くカラスは一生懸命に笑みを浮かべリョウの機嫌を取っている様に見えた。


 リョウの顔と奥さんの傷だらけで気の抜けた感じを見ると多分日常的に旦那から暴力を受けていたに違い無かった。

そして別れたいのに別れてくれず逃げる様に引越して来たのだと推測した。


「お母さんは?」


声を出すと泣き出しそうなのか呼吸の隙間から細い声で聞いてきたので「後で迎えに来るって」と伝えてジュースを二人分出してやった。


「おじさん強いんだね…

本当は僕がお母さんを守らないといけないのに…」

そう言ってリョウは泣き出した。



込み上げた。



何年振りか思い出せないが涙が止めどなく溢れ出し、リョウの頭を「大丈夫だ」とごしごし撫でた。


 犯罪を犯してきた自分だがこんなにクソみたいな事件を目の当たりにしてとてつもなく不快極まりなく、そして少年の我慢と母親を守りたいけど守れないと言う感情が心を通さずに目に染みた。


 カラスはこちらにも笑顔を向けご機嫌を取って来るので煙草に火をつけ目頭の温度が下がるのを待った。


 二十分位経ったであろうか…


奥さんがしっかりメイクをして来たのはオシャレではなく腫れた顔と赤みを消す為だと直ぐに察した。


カラスはグラスにジュースを注いで奥さんに持って行き飲ませようとするので取り敢えず部屋に入れた。


次にカラスはお風呂に湯を溜め出しリョウと入ると嬉しそうにゼスチャーするので許可を出した。


 ここはカラスに任せてみる。


「あの…」と奥さんが口を開いた時何を聞かされるのか焦ってしまい何故かこちらが謝罪をした。


少しの沈黙の後「有り難うございました」と泣き出した。


 湯も溜まりカラスとリョウは風呂に入ったので奥さんに話を聞いてみたのだが推理通り虐待暴力旦那を何とかしたくて身内や相談所に掛け合ったが丁寧な態度で有耶無耶にされ逃げる様に引っ越したにも関わらずこの場所を見付けられたらしい。


婚姻関係を結ぶと一方的に簡単には別れられず現旦那だと言うと世の中もそこ迄は介入出来ない。


 どんな手を使っても別れた方が良い。

リョウの母を思う気持ちを考えても絶対別れないとずっとこれが続き、しまいにはリョウと言う優しい少年が無感情の生物になってしまうか、それか父に対して牙を剥き犯罪を犯しかねない。


そう思うと先程の事件の一部始終を録画したスマホを出しこれを武器に戦えば必ず手が切れる筈だと訴えた。


 これが世の中の真実だ。

法は守ってくれないからこそ掻い潜れる隙が有る。


 音の聞こえぬ孤児であろう少年と父親がいるのに暴力を受ける少年。

 愛を誓ったであろう男性から逃げられない女性。

 そして運良く捕まらずに逃げている元犯罪者。


複雑でしかないこの糸達は全て同じ穴を通されている気がした。

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