9 星野少年と安喰組長
「昨日連絡するって約束しましたよね。私、待ってたんですよ」
新宿第0層──JR新宿駅東口で待っていたシュリはそう言うと口を尖らせた。
「すまない。飲み過ぎた」
本多の白目は濁り、目の下の隈は赤みがかかっていて、どう見ても健康そうには見えなかった。
「大丈夫ですか。あまり寝てないように見えますけど」
「そんなに酷い顔してるか」
「ええ、まあ……睡眠は大事ですよ」
「そうだな。すまない」
「……」
シュリの顔に憐れみの色が浮かんだ。
「もう遅刻のことは許します。それでこれからどうするんですか。早速その喫茶店に行きますか」
「いや、もう一人待ち合わせている奴がいるんだ」
「え、もう一人? だれですか」
「新宿を縄張りにしてる案内人のような──お、来た来た」
「先生!」
遠くから聞こえてきたのは若々しく張りのある声だった。見ると、野球帽を被った少年が両腕を大きく振りながらこちらに駆け寄ってくる。
「おう」本多は右手を軽く挙げて、それに応えた。
「本多先生!」
少年は本多の前で足を止めた。人懐っこそうな笑顔だ。
「星野、今日はよろしく頼むぞ」
「はい。まかせてください」
星野と呼ばれた少年はシュリに気づくと野球帽を脱いで、「こんちわ」と挨拶した。
「こんにちは、真城シュリといいます」
「星野イサムです。本多先生のもとで少年探偵団の団長をやらせてもらってます」
「少年探偵団?」
「ばっ! お前なに言い出すんだよ」本多は照れ臭そうに弁明した。「いやいや、こいつらが勝手に言ってるだけなんだ。気にしないでくれ」
「ええ、ひどいな先生。俺ら結構活躍してるじゃないですか」星野少年はシュリの方へ視線を移した。「シュリさんは『ニャルラトホテプ事件』知ってます? あれも俺ら少年探偵団の活躍があってこそなんですよ」
「へえ、そうなんですか」
「はい。先生は浮浪児だった俺たちを児童養護施設に住めるようにしてくれて、学校にも通えるようにしてくれた恩人なんです」
「へえ」シュリは意外そうな声を上げた。「本多さんはいい人なんですね」
本多がきまり悪そうにしている。
「はい。だから恩返しの代わりに先生の手伝いをしてるんです。俺らはそれぞれの縄張りで先生の捜査の助けになるような情報収集をしてます。いわゆる情報屋ってやつですね。俺の縄張りはここ、新宿です」
「それが、少年探偵団」
「はい」
本多は照れ隠しに大きな欠伸をすると、「行くぞ」とだけ言って一人で先に行ってしまった。
三人は
現在、三基ある
穴の周囲には申し訳程度の柵しかなく、簡単に乗り越えられてしまう。
シュリは柵に掴まって深淵を覗きこんだが、深淵の闇に引きずりこまれそうになり、「ふにゃああ」と情けない声を出した。
三基の
最初はゆったりとしたスピードで降下をはじめ、それから徐々に加速していった。最終的に時速四十キロほどに達した。
座る場所も掴まるところもなく時速四十キロで落下する吹き曝しの大きな籠の中で立っているのは、初体験者にはかなりスリルに満ちていた。
シュリは歯を食いしばって恐怖に耐えている。
昇降機を支えているのは四隅にある四本の柱だけだが、それがまた心許ない。
「こ、このエレベーターの動力はなんですか」
シュリは本多に訊いた。
「動力? さあな……星野、知ってるか」
「
「そうですか。安心しました。それなら落下事故のリスクはありませんね。でも……」シュリは本多の腕にしがみついた。「しばらくこうしててもいいですか」
本多は腕を掴まれて驚いたが、シュリが怖がっていることを察して「ああ、いいぞ」と言った。
「すこし休んでろ」
本多は、地下街にある遊具がひとつもない空き地のような公園のベンチにシュリを座らせた。
「すみません」
シュリはベンチにへたりこんだ。
いまのうちに星野と打ち合わせるか、と本多は考えた。
「星野。『喫茶わかば』についてなにかわかったことはあるか」
「はい」星野少年はハキハキと答えた。『喫茶店わかば』は何年も前にとっくに潰れていること、今は新興韓国系ギャングがそこをシノギに使ってること、その韓国系ギャングは『コンダル』と名乗っていること、などを本多に報告した。「それに」と星野少年はつづけた。「奴らは勢力拡大の野心が強くて名前を売るために結構ムチャクチャしてるようです」
「むちゃくちゃ?」
「はい。他のギャングやヤクザの縄張りを荒らしたりしてちょっかいをかけてますね。まだ抗争にまで発展してませんけど」
「厄介な連中だな。それで『わかば』ではどんな商売を?」
「ノミ屋とかドラッグ売買とか、です」
「そうか……やっぱり彼女がそんなところに用があるとは思えないな」
「今回は行方不明者の捜索ですよね。どんな人なんですか」
「十六歳の女性だ。学生だが上層市民だから身代金目当ての誘拐の可能性もあるな」
「だとしたら、もう生きてないんじゃないですか」
「しっ」本多は横目でシュリを見ながら、人差し指を口に当てた。幸いなことに、シュリはベンチでうなだれていて、話は聞こえていないようだった。
「縁起でもないこと言うな」
「え、ああ、すいません」
そのときだった。本多の背後からこんな声が聞こえてきた。
「あれえ? ミッチャンやないの?」
その声を聞いて本多は振り返るまでもなく、何かを悟った。
「くう……よりによって」と小声でつぶやく。
「おーい! ミッチャアアアン!」
ドスの利いた大声が轟いた。その迫力たるや肉食獣の咆哮を思わせ、うなだれていたシュリが飛び上がるほどだった。
本多は観念したように後ろを振り向いた。
「よお、
「やっぱミッチャンや〜」
左目を眼帯で隠している痩身の男が、子分らしき男たちを五、六人ひきつれて、本多の方へ近づいてきた。男たちは見るからにヤクザっぽい派手なスーツを着ていた。
「安喰さん、こんにちわ」星野少年が挨拶をする。
「おう、星野少年も一緒か。元気にしてるかあ」
「はい元気です。安喰さんはどうですか」
「
二人が親しそうな雰囲気で話している横で本多は煩わしそうな表情を浮かべていた。
「おひさやな、ミッチャン。んで今日はどうないしたん?」
「仕事だ」本多はぶっきらぼうに答えた。
「お仕事。それはええことや。なんならお手伝いしましょか?」
「勘弁してくれ。お前はなんでもトラブルに変えちまうだろ」
「え? そんなことありましたっけ」
「そんなことしかねえよ」
「なんやつれないのお、ミッチャン。もっと優しくしてえや」
シュリは星野少年の肩を指で突いた。星野少年がシュリの方を向くと、「星野君、あの人はだれ」と訊いた。
「あの人は安喰組組長の安喰さんです。新宿地下街を牛耳ってる人です」
「もしかして、ヤクザ?」
「そうですね」星野少年はあっけらかんと答えた。
映画の中だけの存在じゃないんだ、というのがシュリの率直な感想だった。シュリは実物のヤクザをはじめて見て若干緊張した。
「本多さんにはいろんな知り合いがいるんだね」
「先生と安喰さんは戦争のときロシアの戦地で一緒だったそうです。いわゆる戦友ですね」
「戦友……」
先の大戦──第四次世界大戦は人類史上初の世界規模な企業間戦争だった。シュリは当時四歳。戦争の記憶なほとんどない。しかし人の命が機械兵器よりも安く取引されていたことは知っていた。軍用ドローンや戦闘ロボットの維持コストよりも兵士の雇用コストの方が低く、利潤追求をモットーとする営利企業にとって低コスト高パフォーマンスな生身の兵士をつかって戦争することは自明であった。
たくさんの兵士が死んだし、生き残った者も心と体に傷を負って帰ってきた。戦後、欠損した部分を
「どこに行くや、ミッチャン。それくらい教えてや」
安喰はしつこく本多に絡んでいた。
「『わかば』という喫茶店だ」
「なに? 『わかば』やて」安喰の眉間に皺を寄せた。「そこはギャングの溜まり場やで。知ってて行くんか、ミッチャン」
「『コンダル』とかいう韓国系ギャングらしいな」
「せや。クソ生意気な餓鬼どもや。ぽっと出のくせにウチんとこに挨拶も
「どんな連中なんだ。いろいろやんちゃしてるって聞いたぜ」
「ああ。どこのグループも同じやけど立ち上げ時はでっかくなろうと必死や。危ない橋も厭わず渡ろうとする。なにするかわからん奴らやで」
「そうか」
「カチコミ行くんか? ミッチャンなら大丈夫やと思うけど、なんなら助太刀するで」
「ただの捜査だ。殴り込みに行くわけじゃない。それよりもお前に借りを作りたくない」
「なんでやあ!」安喰を頭を抱えて大仰に嘆いた。「遠慮すんなや。儂とミッちゃんの仲やないか」
「遠慮はしてない」と本多は冷たく断言した。
「オヤジ!」遠くで叫ぶ声がした。一人の若い衆がこちらに駆け寄ってくる。
「オヤジ、すんません」若い衆は、はあはあ、と息を切らしている。
「なんや。どないしたんや」
「珍来軒のジジイんとこに変な客が騒いでまして。オヤジに来てほしいそうです」
「そんなんお前らだけでなんとかせえよ」
「すんません、あそこにジジイも相当頑固で。『高いみかじめ料払ってんだから組長連れてこい』て、ジジイの方も暴れてまして……」
「なんやそれ……しかたないのお」安喰は顔の前で両手をパチンと合わせると「ミッちゃん、すまん。儂はここで失礼するわ。でもなにか困ったことがあったらちゃんと儂んとこに連絡するんやで。ほな」と言って去っていった。
「安喰さんも大変ですね」と星野少年。
「そうか? 呑気なもんだろ」
本多は興味なさげに言った。
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