第5話 SNAKE TALK−1

「……うわっ、最悪」

沙羅は眼を細めて、空を仰ぐ。

冬だというのに急に降り出した雨。

地面に跳ね返るほどの勢いで降り注ぎ、雨音が周囲の雑音をかき消していく。

水滴が彼女の銀髪を濡らし、蛇革のジャケットの上を滑り落ちていく。

それでも彼女はため息一つ漏らす程度で、傘を持っていないことを悔いる様子もない。


そのとき、不意に車のエンジン音が近づき、派手なハウス系の音楽をかき鳴らしながら停車する。

「お姉さん、その格好気合い入ってるねぇ。すすきのっしょ」

声をかけてきたのは、沙羅より一回り若そうな男。

いかにも遊び慣れている風で、甘ったるいブランドものの香水を纏い、ジム通いしてそうなボディの首元や手首にはギラつくほど派手なアクセサリーが光る。


沙羅は男の顔を一瞥する。

ちょうど、彼女の好みの顔立ちだった。

鋭さと柔らかさが同居する彫りの深い顔、整形したと思わしき狭い鼻梁、過剰なホワイトニングをしている気の抜けた笑顔。


男が自信満々にキーを指で回し、金の光沢感がいかにも悪趣味な高級車のドアを上方向に軽く開けてみせる。

「俺、今日会う予定の女の子がドタキャンして暇してるんよ。一緒にクラブ、どう?」


沙羅は口角を上げる。

「サイコー。でもその車にこの荷物入りそう?」

引きずる巨大なトランクを見せながら、男に目を向ける。


男は沙羅の足元にある巨大なトランクをちらりと見て、眉をひそめた。

「……でっかいな。何入ってんの、それ?」


沙羅は無邪気な笑みを浮かべたまま、トランクを軽く叩いた。

「秘密ー。でも、お兄さんの車に詰め込めるなら問題ないでしょ。そのくらい豪華なんだから」

男は鼻で笑いながら、車を見下ろす仕草をしてみせる。

「まあ、余裕だろ。この車、トランクも広いからな。いいよ、入れてやるよ。あとでクラブで飲む分の荷物なら大歓迎」

彼が助手席側のドアを開けようとした瞬間、沙羅が一歩近づいた。

雨粒が彼女の銀髪に反射して不気味な輝きを帯びている。


「じゃあ、お願いしちゃおうかな」

沙羅はトランクのハンドルを掴むと、男の車のすぐ近くに転がした。

「よっと──!」

その勢いでトランクを開く。

中から現れたのは、無数の金属部品と怪しい機械部品。

それに混ざって、黒く変色した血がこびりつく布が入っている。


男の笑顔が引き攣って硬直する。

「お、おい……何だこれ?」

沙羅は首をかしげ、涼しい顔で言った。

「なにって、部品と手入れ中の装備。税関で弾かれるか焦ったけど、私そもそもトルコで置いてきたからツレが持ってきてくれて助かったー」

「ふざけんな! そんなヤバいもん乗せられるかよ!」

男は一歩後ずさりし、車に乗り込もうとする。


だが次の瞬間、彼の首筋に何かが押し当てられる。

冷たくて硬い感触。

金属?

「遊ぼうと思ったけど……残念」

恐る恐る振り返ると、男は後悔した。

沙羅は蛇革のジャケットの中から引き抜いた拳銃を、軽々と男の首筋に当てていたのだ。

「本当はね、クラブなんて行きたくないのよ。どっちかって言うと、車に興味があっただけ」

男は冷や汗を滲ませながら、笑う。

「冗談だろ……! 俺、ただのナンパだって!」

「うん、知ってる。でも、ナンパしてくる奴ってほんっとバカだから使いやすいのよね。ほら、その車。ちゃんと私のトランク乗せられるか試してみましょう?」

沙羅は銃を首筋から外し、トランクの方を指差した。


「あと、この音楽、うるさいから消してね」

沙羅はエナメルレッドの蛇革ジャケットを濡らしながら、投げやりに言った。

「頭悪くなりそうなクラブハウス系とか、そういうのやめてくんない? 私、デスメタルとかパンクロックとか、もっとハードコアなやつが好きなの。代わりにこれかけてよ」


男が怪訝そうに眉を上げる前に、沙羅は手に持っていたCDを差し出す。

ケースには太いマジックで「沙羅の80sロック⭐︎マイベスト」と雑に書かれていた。


「……いや、マジで? 今どきこんなのまだ持ってんの?」

「なに、文句あるの。あんたにかける権利があるのはこれだけよ。他はアウト」

男はどうすることもできず、震える手で車内の音楽を止め、言われた通りにCDをセットした。

雨音が車の屋根を叩く音に混じって、懐かしのロックが車内を埋め尽くす。

その間、沙羅は濡れた髪を払うでもなく、冷たい笑みを浮かべていた。


「ねぇ、でもさ」

女は不意に唇の端を持ち上げて、冷ややかに続けた。

「ビビらせて車奪うってのも、なんか心苦しいんだよねー。せっかくここで会ったのも何かの縁だし、さ」


雨の中、蛇革のジャケットが光を反射する。その光景は、どこか人間離れした不気味ささえ漂わせている。


「サクッと一発くらい、してあげよっか?」

そう言いながら、女はスカートの裾を軽く引き上げる。

わずかに見える銀のレースには、彼岸花の刺繍があしらわれていた。


男は一瞬、時間が止まったように黙り込んだ。

そして、ようやく喉を鳴らして呟く。

「マジっすか……でも俺、今、怖くて勃たなくなっちゃって」

「別にいいわよ。とりあえずキスからしましょう」

言葉に重みはないのに、妙な圧力があった。

雨音が止まらない中、男の顔には混乱と恐怖が入り混じった表情が浮かんでいた。


    ◇


ハザードランプが烟る。

雨は勢いを増し、地面に叩きつける音が車内を覆う。

窓ガラスに滴る雨粒が無数の線を描き、外の景色を歪めていく。

「……んっ」

沙羅は軽く目を閉じ、蛇のようにしなやかに首を傾ける。

濡れた銀髪が頬に張り付き、赤い蛇革のジャケットから滴る水滴が、彼女の渇いた肌に冷たい痕跡を残す。


男は戸惑いながらも唇を重ね、彼女の唇の柔らかさに息を呑む。

彼女の細長い舌がいやらしく絡みつくように探るたび、甘さと鋭さの混じった感覚が体を駆け巡る。


車内は狭く、逃げ場もなく、雨音が全ての雑念をかき消していく。

ただ彼女の漏れるような吐息と、彼女の体温だけがはっきりと感じられる。

「意外と下手。遊び慣れてそうなのに」


キスの合間に沙羅が目を開け、冗談めかした口調で言う。

その視線は男を試すように冷静で、けれどどこか楽しげだ。


漏れる嬌声。

揺れる車体。


沙羅の舌が蛇のようにしなやかに動き、男の首筋から胸元へと滑るように這い回る。

その冷たさと熱さが混じった奇妙な感触に、男は痺れるような快感を覚えながらも、次第に胸の奥に不安を感じ始めた。

「すごい……でも、……熱い……!」


その時だった。

肌の表面に異様な灼熱感が広がる。

男が慌てて自分の腕を見ると、そこには信じられない光景が広がっていた。

「な、なんだこれは!」

男の皮膚が、蛇の鱗のようにざらついている。

ぬらぬらと鈍く光を反射している。

指先は硬く鋭く変形し、爪が牙のように尖っていく。

彼の体全体が生まれ変わるかのように、ゆっくりと人間らしさを失っていく。

「おい! 何をしたんだ!」

男が叫ぶと同時に、沙羅は濡れた銀髪をかき上げながら、不敵な笑みを浮かべた。

その赤い蛇革のジャケットが鈍く光り、彼女の目がどこか妖しく輝いている。

「こんないい女を抱けたのよ、ちょっとくらい代償も必要でしょ」


その声は冷酷な響きを帯びていたが、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。

「まあ、安心しなよ。あんたみたいな男、いくらでもいるし……」

沙羅は男の顎を指で軽く持ち上げ、ふっと吐息混じりに囁く。

「この先どうなるかは、あんた次第ってとこだけど?」

男は恐怖に目を見開きながら、体が燃え上がるような感覚に包まれていく。

その変化の激しさに、彼自身がもう自分を制御できなくなっていくのがわかる。

雨音だけがその狂気を掻き消し、車内には異様な雰囲気が漂う。


「これ、化身術って言うんだってさ。全身の細胞が変化するから、すっごく痛いらしいよ」

沙羅は雨粒を顔に受けながら、乾いた笑みを浮かべて男に淡々と語りかける。

美しい銀髪が水滴で濡れそぼり、赤い蛇革のジャケットがさらに艶かしく光る。

「はぁ!?」

男は体を掻きむしりながら叫ぶが、その手も蛇のように変形し、鱗に覆われていく。

苦痛に顔を歪める彼を見下ろしながら、沙羅は興味深そうにその様子を眺めていた。

「すごい技術だよねー。 この術、私が考えたわけじゃないんだけど」

沙羅が使った術、それは真瀬莉奈が用いていた外道者の禁術だった。

肉体を蛇や獣といった特定の生物の遺伝情報をなんらかの手段で媒介させ、人間の細胞配列に刷り込む。

その結果、異形の姿に変化させ、凄まじい力を与える代わりに激痛と肉体の限界を強いる。

「おい、俺をどうするつもりだ!」

男の目には恐怖が浮かび、声が震える。

だが沙羅はただ肩をすくめ、爪を研ぐように指先を軽く動かす。

「どうするも何も、アンタが勝手に術に引っかかっただけでしょ? 私がちょーっと遊んであげただけで、こんなになるとは思わなかったけどねー。おお、グロテスク」

男の変化はさらに進み、全身が蛇と人間の中間のような異形と化していく。

目は爬虫類のように縦に割れ、舌は細く分かれ、鋭い牙が唇の端から覗いていた。

「痛いのに耐えられるかな? でもさ、痛いだけじゃ終わんないんだよねぇ、化身術って」

沙羅は口元に手を当てて微笑む。

「その先に何があるか、アンタの身体で試してみなよ。ほら、せっかくの新しい人生なんだからさ」

男の叫び声が雨音にかき消される中、沙羅は男を車外に蹴り出して悠然とその場を立ち去る。

彼女の赤いジャケットは、まるで流れた血を吸い込むかのように雨水を弾き、蛇のように光っていた。


    ◇


雨音が響く中、GEDOの面々が、複数のディスプレイに映し出される沙羅と男のやり取りを食い入るように見つめていた。

「この女、ただの傭兵ではないのか!?」

白いスーツ姿の中堅らしきエージェントが、映像に映る沙羅の銀髪と赤い蛇革のジャケットに目を凝らしながら、困惑した表情を浮かべる。


「分かりませぬな。一つ言えるのはあの術……化身術に間違いない。かなり古いやり方ですが」

年配のオペレーターが冷静にモニターを操作しながら答える。彼の声には冷徹な響きがあったが、その眉間には確かな緊張が刻まれている。


別の若手エージェントが焦ったように声を上げた。

「我々の組織が設立して以来、脱退した人間はいないと言われておりますが、彼女は我々の裏切り者なのでしょうか」

「それを知りたいのはこっちだ。記録を検索しろ! サラという女について記述を見つけ次第、すぐに報告せい!」

指示を飛ばす上司の声が響き渡る。室内の空気は張り詰め、複数のキーボードが一斉に叩かれる音だけが響く。


モニターに映る男の異形の姿が、次第に完全な蛇の化身へと変わっていく。

鱗が全身を覆い、骨格が変形し、声にならない悲鳴が雨音に溶け込む。


「……状況がまずいぞ。現在の化身術ではない以上この術の影響範囲、どこまで広がるかわからん」

別のオペレーターが新たなデータをスクリーンに投影しながら呟く。その表には異常な熱反応が記録されていた。

「この女、一体何者なのだ」

リーダー格の男が額に手を当て、深いため息をつく。


「これをご覧ください、ファーザー」

別のオペレーターが口を挟む。

彼の手元の画面には、沙羅がGEDOの特別施設に接触を図った記録が書かれている。

「いずれも組織だったものではなく、単独行動の可能性が高いと思われます」

「防人社の人間でもないのか!? 理解できん」

中堅エージェントが歯ぎしりしながら映像に視線を戻す。

その時、沙羅が男を見下ろしながら何かを呟き、満足げな笑みを浮かべてその場を去る姿がモニターに映し出された。


「……あいつ、どういうつもりだ?」


モニターには沙羅が操縦するスポーツカー。だが、GEDOのエージェントたちの誰一人として、その目的を読み解くことはできなかった。

「記録班、追跡を続けろ。私は他の大幹部達と緊急会議を開く。何かあればすぐに報告してくれ」

ファーザーと呼ばれたリーダーの冷徹な声に、一斉に動き出すエージェントたち。

彼らの誰もが、沙羅の脅威を感じ取っていた。


そのとき。


室内の緊迫した空気を切り裂くように、通信機が鳴り響く。


「どうした!?」

「東北支部より緊急入電! 東北大帝閣下より、鬼機徒兵(オルグボット)三機をこちらに追加戦力として向かわせているとのことです。現在、津軽海峡上空を飛行中!」

その言葉に、GEDOのオペレーターたちは一瞬だけ動きを止めた。

だが、次の瞬間にはざわめきが広がる。


「鬼機兵団だと。そんなものをこの状況で動員するとは」

中堅エージェントが息を呑む。眉間には明らかな不安が浮かんでいた。

「東北大帝の直接指示か?」

リーダー格のファーザーが、厳しい目つきで通信オペレーターを見やる。


「はい、閣下直々の命令です。第一陣到着まであと25分!」

オペレーターが応答すると同時に、モニターには巨大な影が移動する様子が映し出された。

暗い雨空の下で、そのシルエットはまるで地獄から現れた鬼神のように不気味に映える。


「鬼機兵団をこの作戦に投入するということは、沙羅という女がそれほどの脅威と見なされたということか。それとも」

ファーザーが呟きながらスクリーンに映る沙羅の姿を見つめた。

その銀髪と蛇革のジャケットは、どこか鬼機兵団の無機質な禍々しさと対照的に、却って異質な危険を醸し出している。

「だが、過剰戦力じゃないか。所詮は化身術に過ぎない」

中堅のエージェントが不安げに口を開く。


「あの東北大帝のことだ。今回の功績を土産に北海道南部にまで勢力を広げたいのであろう」

ファーザーは冷然と言い放つと、部下たちに向けて指示を飛ばした。

「鬼機兵団の到着までに沙羅の行動パターンを完全に分析しろ。それから、化身術についての既存のデータを総ざらいし、彼女が使った術式と照合だ。奴の正体を掴む手がかりは何でもいい。無駄を省け!」


「了解しました!」

全員が声を揃え、再び手を動かし始める。室内にはキーボードの音が再び響き渡り、緊張感がさらに高まっていく。


その頃、沙羅の運転するスポーツカーは、雨の中を疾走し続けていた。

その背後には、大地を揺るがす轟音と振動。彼女は音楽のヴォリュームを上げながら、口角を上げる。


「おっと、出迎え? いい準備運動ができそう」

彼女の目には、期待とも挑発とも取れる危険な輝きが宿っていた。

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