第21話
翌日。
収容所から開放されたエリと沙知乃はいつもの路地裏へと戻ってきていた。
アイネは昨夜言っていた通り「一度家に帰る」とのことで、ここにはまだ姿を見せていない。
時刻はそろそろ一時を回る。
確か、昼頃にここで落ち合おうという約束だったはずだ
まだ焦るには早い時間だが、しかしエリは漠然と思う。
もしかして、もう会えないんじゃないだろうか。
アイネは黙って自分たちのもとから姿を消してしまうのではないだろうか……。
収容所にいる間、アイネは決して自身のことについて語ろうとしなかった。
記憶が戻ってなにを思い出したのかはわからないが、エリたちには知られたくないこともあったに違いない。
だとしたら、このまま逃げるようにエリたちの前から消えたとしてもまるで不思議は――。
「改めまして、こんにちは」
エリの脳裏にそんな想像が浮かんだ時だった。
ふと、アイネの声が聞こえた。
彼女は裏路地の入り口に立っていた。
深々と礼をして微笑む。
その笑みも、
その出で立ちも、
頬のキズも、
以前と変わらない彼女そのものだ。
あえて異なる点をあげるとすれば、今はちゃんと靴下をはき、綺麗な服と革靴を身につけているということくらい……。
けれども違う。
絶対的になにかが異なるとエリは思った。
そこにいるのは記憶を失い真っ白になっていたアイネではない、それを取り戻した“本来の”アイネだ。
彼女はもう貧しいストリートチルドレンじゃない。
綺麗な家があり家族もいる、向こう側の世界の住民……。
そのことを今になって強く感じた。
「アイネちゃんっ」
「アイネくん……!」
ふたりは立ち上がってアイネを見据えた。
――私の正体について、私達の今後について……、それは、ここを出た時に改めてお伝えします。
収容所で聞いた言葉が蘇ってくる。
今がその約束の時だ。
エリは、なぜだか湧き上がってくる暗い想像を振り払って口火を切った。
「あたし達、これからも友達だよね……?」
出てきた声は震えていた。
でも、眼前のアイネの笑みを見ていると、その小さな光も確信に変わる。
そうだ。
眼の前にいるのは他の誰でもないアイネその人なのだ。
路上生活を共にした仲間であり、
警官から身を挺してかばってくれた親友であり、
収容所の中でも出来る限りのことをしてくれた恩人でもある。
自分たちのことを“義妹(きょうだい)”とまで呼んでくれた、大切な人。
記憶が戻って少しくらい別人に見えても、その本質までは変わらない。
変わるはずがない。
エリが一歩、踏み出そうとしたその時だった。
アイネは薄く微笑んだまま、小さく首を横に振り。
言った。
「お別れしましょう。エリさん、沙知乃さん」
◆◇◆
「え……?」
全身から力が抜けた。
頭のてっぺんから爪先まで、スーっと冷たいものが降りてくるような感覚だった。
冷たくされた?
裏切られた?
突き放された?
暗い言葉が脳裏に浮かんでは消えていく。
――どうして?
そう、聞きたかった。
けれども言葉が出てこない。
理由を知るのが恐かった。
もちろん、こうなる展開を予想していなかったわけじゃない。
むしろ嫌になるくらいに想像した。してしまった。
そうだ。
それがたまたま現実になっただけだ。
じゅうぶんに考えられることだった。
こうなることは。
だって、アイネと自分たちは住む世界が違うのだから。
同じ街に住んでいても、手を伸ばせば触れられる距離にいても、両者の間には見えなく厚い壁がある。
だからアイネは悪くない。
冷たくしたわけでも裏切ったわけでも突き放したわけでもない。
これが、一番当然で、一番妥当な結末なんだ。
だったら自分は、どうすればいい……?
言葉を失ったエリのもとにアイネはゆっくりと近づいてきて、茶色い封筒を握らせた。
「これは、今まで助けていただいたことに対するお礼の気持ちです。どうか黙って受け取ってください。そして、できることなら何も聞かずに……このまま私を行かせてほしい。そのほうが、きっとお互いに幸せですから」
「…………」
「よろしいですね?」
アイネはゆっくりとそう言った。
要するに、アイネは最後まで自らの素性を明かしたくないという事なのだろう。
そこにどんな理由があるのかはわからないが、彼女自身が“そのほうがお互いに幸せ”と言っているのだから、聞かないであげることは友達としての最後の優しさになるかもしれない。
それに、もはやそんなことはエリにとってどうでも良かった。
アイネの正体を知ったところで、彼女のくだしたふたりと別れるという決断が変わることはないのだから。
「アイネくんッ……」
沙知乃が叫んだ。
彼女にしては珍しく、感情を露わにした強い語調だった。
しかしエリはそれを制して、
「駄目だよさっちゃん、これでお別れなんだから。最後は笑って送り出さなきゃ。この路地裏から……」
「簡単に言うけど、エリは本当にそれでいいの……?」
「あは……。あの時と反対だね、さっちゃん。その言葉、何日か前はさっちゃんがあたしに言ってたんだよ。『アイネくんには帰る場所があるんだから、いつかくるお別れを受け入れなきゃ』って……」
「それは、そうだけどさ……!」
沙知乃の瞳から一粒の涙がこぼれた。
エリはそれを見て改めて決意を固める。
――なんだ、先に泣いちゃったのは沙知乃だったか。
だったら自分は絶対に泣かない。
意地でも笑って、ここからアイネを送り出してみせる。
「今までありがと。楽しかったよ、アイネちゃん」
その言葉に、アイネは黙ってうなずいた。
それから言った。
「おふたりと過ごした短い時間は、私の生涯の宝物です。本当に……ありがとうございました」
再びの黙礼の後、アイネはゆっくりと踵をかえす。
だんだんとその姿が小さくなっていく。
そう。
彼女は表の世界に帰るのだ。
これでいい。
これで。
しゃがみこんだ沙知乃の漏らす微かな嗚咽だけが……薄暗い路地裏に小さく響いた。
◆◇◆
アイネはそのまま、振り返らずに歩いた。
振り返れば、きっと彼女たちに駆け寄りたくなる。
できることならずっと友達でいたかった。
でも、その希望は叶わない。
彼女たちと自分はそもそも住む世界が違ったのだから。
記憶を取り戻した以上、そのことを認めないわけにはいかなかった。
――ごめんなさい。エリさん、沙知乃さん。
拳を握りしめて路地裏を出る。
表通りへと一歩踏み出す。
これで、よかったのだ。
今はただそう信じるしかない。
……帰ろう。
自分のいるべき場所へ。
そう思った時だった。
刹那に横合いから声が聞こえた。
「……待ちなさいよ」
足を止めて声のしたほうを見やれば、そこには彼女が立っていた。
レンガの壁に背を持たれ、不機嫌そうに腕を組んだ金髪の美少女。
「夕緋さん……」
「なに勝手に全て終わったみたいな顔してんのよ。アタシとの話はまだついてないはずでしょうが」
「それは、そうですが」
「説明していきなさい。アンタ、いったい何者なの? なんでアイツらを見限ったわけ? ま、あんな底辺と付き合っててもなんの得にもならないってんならその通りだとは思うけど」
「ッ……!」
「あ、一応言っとくけど、アタシはあのふたりの事なんてどうでもいいと思ってるから! これはアタシ自身の興味で聞いてるだけよ!」
「…………」
「へぇ。アタシにも言えないわけ? まぁそれならそれでいいわ。さて、アタシはアンタに裏切られて鬱になってるアイツらを虐めて楽しんでくるから。……じゃあね、さよなら」
「……裏切ってません」
「はぁ?」
「裏切ってなんかいません! 私だって……私だっておふたりと別れたくない! でも……!」
「なんなのよ、いったいどんなくだらない理由があるっていうの?」
面倒くさそうに夕緋は言った。
アイネは「はぁ」と一息ついて、キッと夕緋を睨みつけた。
それから一気にまくし立てる。
「私と“貴方たち”では住んでいる世界が違うんですよ!
だって私は極道の娘……、裏社会の人間なのですから。普通の方々からは常に畏怖され、恐れられる存在……。
このことが知れたら、きっと嫌われてしまいます……。距離を置きたがられてしまいます……。
今までずっと、そうでした。
でも、考えてみれば当たり前ですよね。
いったい誰が好き好んで“恐い人たち”が後ろについてるこの私と仲良くしようなんて思うんです?
それに……私と関係を持つことは、彼女たちの身を危険に晒すことにもなりかねません。
私達の世界は説明不要の危険な世界です……、私が記憶を失った原因も、元を正せばくだらない抗争に巻き込まれたからにほかならない。
そんな所に、おふたりを引っ張りこむことなんてできると思いますか!?
優しいカタギの彼女たちを……。
まともな世界での人生を歩んでいける彼女たちを……!」
言い終えると、眼前の夕緋は複雑そうな顔でこちらを見ていた。
一瞬の沈黙の後、彼女は呆れたように口を開く。
「ハァ、やっぱりアンタって馬鹿だわ」
「なんですって?」
「ちょ、睨まないでよ……。てか、薄々感じてたけどやっぱりその筋の人間だったわけね、アンタ……」
「……」
「と、とにかく、アンタの話は最初からおかしいっつってんのよ!」
「はい?」
「まぁ確かに、極道の世界は危険でいっぱいなんでしょうね。入り込んだらまともな人生なんて送れないことくらいアタシでもわかる」
「だったら――」
「でも、それはアイツらだって同じことでしょ?」
夕緋は言った。
あくまでさりげなく、当然の道理を説き伏せるように淡々と語る。
「まさかとは思うけど、アンタばかりが裏世界の住民だなんて思ってんじゃないでしょうね? 危険がたくさん? まともな人生を送れない? そんなのホームレスだって似たようなもんでしょうが。アタシに言わせればヤクザもストチル(ストリートチルドレン)も、どっちも危険だしまともじゃないわよ。いい? よく聞きなさい。この4人の中で表舞台の人間はアタシだけ! アタシだけが唯一のまともな人種なの! アンタらは全員日陰者! オッケー?」
「ッ……!」
「どうしたのよ? わかったの?」
「理屈はわかりました。で、ですが……」
「ああもう、うるさい! ここでごちゃごちゃ言うくらいなら、あいつらに直接伝えてくるわ。来なさいっ!」
叫び、夕緋はアイネの手首をひっつかむと薄暗い路地裏へ引き返した。
そこには当然、ふたりがいる。
エリと沙知乃。
驚き顔の彼女たちに向かい夕緋は告げる。
あまりにもあっさりと。
なんでもないことのように。
変わらない毒舌で真実を口にする。
「ハロー、最底辺のおふたりさん。あぁ、さっき知ったんだけど、この娘……ヤクザなんだってさ。それがアンタらに隠したかった秘密の全てってことみたい。アタシは正直ドン引きしたけど、アンタらはどうなのよ。これで友情が壊れる展開だったらそれはそれでオイシイんだけど。そういうわけにもいかないわよねぇ……?」
◆◇◆
「……え? それだけ?」
エリは少しぽかんとした顔のまま呟いた。
夕緋の言葉を聞いた後に出た第一声がこれだったのだ。
今度はアイネが戸惑っていると、エリは頬を膨らませて言う。
「もう! 逆にヒドイよアイネちゃんっ! “今更”そんなことぜんぜん気にしないのに!」
「……あの、今更ってどういうことですか?」
「アイネくん、キミ以外は全員、なんとなく察しがついていた事だと思うよ……」
「え、えええっ!?」
今明かされた衝撃の事実に面食らいつつ、しかしアイネは改めて思った。
眼の前のふたりは“どちらの”自分も受け入れてくれるのだと。
「記憶を失った白紙の私と、記憶を取り戻した真実の私……。おふたりは、その両方の私と友達でいてくれるのですね……」
「もちろん! ね、沙知乃?」
「うん」
「で、では、私と五分(ごぶ)の義妹(きょうだい)になってくれと言ったらどうです!? そうしたら路上生活も卒業して……」
「あー、なんかそれ前もちょろっと言ってたね。まぁいいんじゃないかな? じゃ、今からアイネおねえちゃん、って呼ぼうか?」
「ちょっと待ってエリ! アイネくんの言う“義妹”ってのはあっち系の用語であって、言葉以上に深い意味が――」
「はー、くっだらない。アタシはもう帰るから、それじゃあね。バイバイ」
夕緋は会話を遮っておもむろに踵を返した。
しかしそれをエリが引き止める。
「ちょっと待って夕緋ちゃん! 記念に写真撮ろうよ写真!」
「はぁ? なんの記念よ?」
「記憶を取り戻した“真・アイネちゃん”とあたし達4人のお友達記念……かな」
「ちょ、4人って……。アタシはアンタ達と友達になった覚えはないんだけど! それに、写真とるったってそんな都合よくカメラがあるわけ――」
「もー、水臭いなあ。ちゃんと知ってるんだよ? ほらっ」
エリが夕緋の背後に回ると、その洋服のポケットからぽんっとスマホを取り出した。
「あ、こら勝手にッ!」
「お願い! 夕緋ちゃん~」
「嫌だって! このスマホでアンタなんか写すのはもったいないってものよ」
「では私が自宅から一眼レフでも持ってきましょうか? あぁ夕緋さん、これからは貴方だけがお嬢様だと思わないように」
「ぐっ。そういう事なら施しのつもりで撮ってあげないこともない……かしら。あ、これ最新モデルだから画素数もめっちゃ高いやつだしぃ? 持ち運びが不便な一眼なんかよりよほど優れていると思うんだけど!」
「決まりだね! じゃあみんな寄って寄って~!」
エリが掛け声と共にぎゅうぎゅうと身を寄せてきた。
皆で夕緋の持つスマホの画面に注目する。
自撮りモードのカメラアプリには自分たち4人の姿が映っていた。
貧民と、お嬢様と、極道。
見た目も性格もバラバラだけど、これからも不思議とうまくやっていけそうな気がする。
「こんな感じでいいですかね?」
「あぐ、くっつきすぎないでよ!」
「よーし、じゃあシャッター押して夕緋ちゃん!」
「あ、でもさエリ。ロケーションはこんな汚い路地裏でいいの? この街ならもっと良いスポットがたくさんあると思うけど」
沙知乃の問いに、しかしエリはゆっくりと首を振って答える。
堂々とした、まっすぐな笑顔で言葉を紡ぐ。
「いいんだよ! だってここはあたし達のホーム……アイネちゃんと初めて出会った場所なんだから!」
ひんみんフレンドシップ 双頭アト @soutou
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